ここは尾張の国の揺籃の地

倭武天皇皇妃
尾張国造之祖
宮簀媛命(みやすひめのみこと)宅跡

氷上姉子神社 元宮


とても残念なのが、すぐ横を国道23号線が走り、その騒音のけたたましいこと。
ここは小高い山。その昔は東に海を臨み、この地を押さえ知多方面、安城・刈谷方面からの交易にも睨みを利かせていたのでしょう。
あまり知られていない事実は、とても歴史的に重みのある、言い換えれば尾張の国の揺籃の地。

ヤマトタケルが東国平定を終え帰途の途中、尾張国造之宮の娘と結婚。
ところがヤマトタケルは畿内へ帰る鈴鹿の地でお亡くなりになられる。
(因みに、三重県の語源はヤマトタケルが鈴鹿を越えるに当たりその疲労もピーク。足が三重に折れ曲がりそう・・というところからの由縁)
その死後、三種の神器の一つであるあの草薙の剣をここ火上(もともとはこの字。大火あってから改め氷上と称す)の地に奉戴。
そして時がたち、改めて熱田の地に盛大に奉納し奉り始めたのが熱田神宮という流れになります。

氷上姉御神社の脇の山の頂に元宮があり、この元宮こそ
尾張国造之宮・宮簀媛命(みやすひめのみこと)の邸宅があったそうです。

今でも熱田神宮の摂社としての扱いであります。
個人的には別宮でも良いと思うのですが・・ 末社でないだけ良しとしましょう。

大高は、この前の鳴海の南に位置します。
未だ昔ながらの街並みの残る風情ある場所です。
造り酒屋も三件もあり、全く名古屋市の財産ですよ。

鳴海が東海道の宿場町として栄えた線であるとするなら
ここ大高の町は大高城下に広がる面と称するのが適当だと思いました。

自転車で走っては止め、カメラを構えるその繰り返し。
自動車なら、まず無理だし、そもそもこの道の狭い町は避ける。

そんな繰り返しに興じていたら、とても健康的で親切な紳士が語りかけてきた。
彼もまた自転車乗りで話が弾む。
この近くに大高城址があるので紹介するとのお誘いに、既に彼が語るその節々にとても知的なものを感じていたので喜んでご一緒する。

まずは隣接する東昌寺の説明を受ける。
普通の寺なら、山門の正面に本堂があるのですが、この寺はL字に曲がって本堂を見る。
それは何かの場合に殿様が避難するための寺であり、L字は城郭にも見られる敵を迎え撃つための構造だと聞きました。
また、この方に説明されるまでは一生その存在に気づかなかっただろう、細い道は知多は亀崎辺りまで伸びる存在。
その道を通って徳川家康に敵方の急を知らせたとか。

そして大高城址を登る。山城です。
ここに土橋があり堀があり土塁があったと詳しい説明。
そしてこの山に既に存在していた八幡社の説明。
徳川家康は、おそらくここで武運長久を願っただろうという話にはゾクゾクと震えるものも感じました。

大高の山から向こうの山にある鷲津砦や丸根砦の説明も受ける。
地図ではその存在を知っていましたが、視界に入る距離と分かり、これまた歴史の面白み緊張感さえ覚えました。
と、申しますのは、その紳士の説明に、敵方は肉眼でも見える距離。
通常の時間外に煮炊きする煙が昇ろうものなら敵方の出撃が予想されると。

この健康的で親切で知的な紳士に親近感が湧いたのは、彼のする人徳のほかに、人のつながり。
僕の住んでいる地名を述べたところ、●●さんはご存知か?という話になり、
それは僕の家の近所で母親はあちらのご夫人ととても仲がよいのです。

博学な紳士はやはり地元の歴史研究家で、家に戻り教えてもらったところを検索して
彼のHPにたどり着いたのですが、いかんせんメールとか掲示板の類がなく、伝書鳩でも送りたい気分になりました!

その親切な紳士とは城を降りてお別れをし、しばし大高の町を写真に収める。
このとき既に夕刻で風も冷たくなり手袋はしていても指先が冷え切っていました。




その紳士から大高の町はT字路が多いと聞きました。なるほど確かに多い。
これまた敵の進入の勢いを削ぐために、城下独特の工夫とのこと。

自転車探訪。
次は有松あたりぶらりと巡りましょう。