août.2010 le 31 mardi //この際だから、、// いっそ夏のまま一年が過ぎればよいのに。 今日の暑さときたら、まるで梅雨が明けた直後の強烈な日差し。 クーラーは生命維持装置になっているし。。。 もし、広大な敷地に潤沢な資金があって理想の家を造るとしたら やはり日本家屋でしょう。 もう夏が主体の一年になるとの覚悟の上で、風の通る家を造るなら、 簾戸や簾、網代などを多用して夏のしつらえに。 軒下を相当高くして、一角だけ実験的に作ってみたいのは、 床下一面に石を敷き、川床ではないけれど、床下の風を取り込めれる床。 打ち水をすれば、どれだけ涼しくなるのかと。 le 30 lundi //名古屋で一つの松坂屋// ナゴヤエキマツザカヤも閉店となりまして、とうとう創業の地で栄本店のみという由々しき事態。この先、名古屋駅に足場があるのはとても大切だと思うのですが、その体力が久しい以前になかったということでしょうか。 市内の百貨店をみると、名古屋駅に高島屋と名鉄百貨店。 栄地区に三越と松坂屋、そして丸栄。 星が丘に三越。 神宮前の名鉄を百貨店とするかは議論の分かれるところ。 その昔は百貨店で売り出していたのですが、今は手抜き著しく却下ですかな。 百貸店は長方形の土地が何よりも大切だと思うのです。 これは僕の保守的な見解。 松坂屋が、四日市に店を構えて閉鎖を余儀なくされました。 もし名古屋の八事に建設していたら、僕は今でも生き残っていたと思うのです。 ただし八事に長方形の土地はない。 星が丘三越が存立している基盤は、やはり周辺に広がる邸宅街。 八事にも、百貨店の一つは、あのジャスコさえなければ可能だと思うのです。 ジャスコの前に名乗り上げていたなら、、、、 //mixiの賢い利用法// やはり、地方都市の情報を有用に仕入れられることでしょうか。 気になる町はたくさんあるので、どんどん参加コミュが増えていきます。 le 29 dimanche //ヲ釜レーダー// この出会いの枯渇さときたら相当なものです。 僕の携帯はボロボロで有名。買い換えの意思は未だにありません。ただし柔らか銀行から出ている最新鋭の携帯を買うと、僕にもバラ色な生活が待っているのでしょうか??? 所持する欲求はあるものの、今の携帯って複雑多岐な契約でしょ。 それが気に入らない。 さて、本日の時間の使い方は落第でした。 何をするわけでもなく、過ぎてしまっただけ。 このモヤモヤ感、なんとかせねばなりません。 九月最初の週末は、活き活きと過ごしたいものだと思うのです。 何をすべきかは皆目見当もつきませんが。 やはり、今年の夏の暑さが異常過ぎるのでしょう。 この春、あれだけ訪問した斜面集落。この夏はゼロです。 体を動かしたい欲求はあるものの、酷暑日にエレガントウォーキングは生命の危機。 山登りといっても、心動かされる山が今はない。 //汚い井戸// 家の敷地に井戸がある。底から湧く水は汚れている。 たとえ我が家の水でも、汚れているのだから遠く歩いて沢の水をもらう。 家族でも組織でも、恋人でも守るべきものはあると思うけれど、 場合によっては逃げる勇気が必要なのだと。 責任感から汚い水を飲んでいたら自分も死んでしまう。 切り捨てることは、いつかは必要なのかと。 だってよ、その反対側は、水の汚れに伴う健康被害なんてのは 微塵も考えていないのだから。 虐待を受けている子が、家から出られる体力があるのなら 警察に告発しても良いのだと。親だ親だと言っていたら死んでしまう。 その親は死んでも構わないと思っているのだから。 ポルポトは子供の純粋無垢な心を利用して親の告発を盛んに促した。 子によって告発された親が資本主義の手先と殺された例は数多とある。 これは極端な事例だとしても、 今の世の中、子供が告発するべき不良親というのは多くいると思う。 北朝鮮でもルーマニアでも経済が混乱し飢饉が迫ると、 街に子供があふれ出す。朝鮮語ではコッチェビというらしい浮浪児たち。 親から養育を放棄される子供たちが、街に繰り出したむろする。 ブガレストの地下に巣くう若者たちの姿も衝撃的でした。 親子の愛は永遠で尊いものではなく、 飢えや失業、その類の困窮で、枠組みから放り出される。
le 28 samedi //眠気とは気の抜け!?// 僕はすぐに寝れる。不眠症の人が全く想像できないし、過眠症という対局にも注目してほしいと思ったこともある。 すぐ寝れるのは、すぐに気を抜けれるからなのかもしれない。 丸栄の地下のコーヒーショップでアイスコーヒーを飲み、 本を読もうとしたら二分ほどで意識が飛ぶ。 くつろいだ雰囲気で本を読もうとすると、たぶん意識のほうが先に寛いでしまうのでしょう。 そして、その最終形の睡眠に僕をいざなう。 久々に、車でない栄。楽しいひと時でした。 le 27 vendredi //丁寧に生きていない// 丁寧に生きるとは数日前に言った言葉ですが、 なかなか丁寧に生きるのは難しい。 何かの理由で酒が入ると、まず丁寧に生きることは無理。 雑に一日を終える。それはそれで雑多な楽しさ。 なかなか仕入れることもできない噂話も酔いと一緒に入るものです。 酒が入って困るのは、その日が雑に終わり 翌日の行動が全てに置いて鈍くなる。 部屋を散らかしたままに寝て、どうして翌朝から遠出などできましょうか。 le 26 jeudi //やはり一人かな// 岡専旅館に大黒屋旅館。行く人待っていては来世になっちゃう。 駄目なのですよね、一人路線で腹をくくれば敵無なのですが、 それを修正しようとするとき、間違いなく頓挫する。 修正するにも、僕は消極的すぎるのですが。 僕が素敵だと思っても相手方がそう思わない場合はレイプになってしまうし、 なかなか難しいものです。 結婚もしなければ、こちらでの恋愛もなし。 僕は一生孤独のまま過ごすのであろうか!!! それはそれで、あんまりな内容でもあるし、神が僕にくれた試練なのかと。 「人を愛せず一生を終えろ」 あんまりな内容ですよね。 この試練を乗り越えたら、来世は愛に浴することができましょうか?? 人を愛せよとはキリストの言った言葉ですが、 それは性愛とは別なのでしょう。 僕はもっと俗な愛がほしいのですが、 どうやら俗な愛を断ち切るのが僕の使命であるみたい。。。。 le 25 mercredi //高くて風通る// 科学者の間では、既に温暖化を阻止する時期は逸してしまったという見解もあるそうです。 40度を超える夏の日々。これも覚悟しなければなりませんかね。 日本が経験したことのない暑さ。 懸念するのは、鎮守の森の植生が変わり、例えば棕櫚とかバナナの木の中に鳥居がある。 経験したことのない暑さだけれど、日本的な情緒は残したい。 日本の伝統家屋。 床下を高く、屋根も高く、そして壁はほとんどなく風通る。 家屋は夏を旨として作るべしと先人は言ったそうです。 それがこれからいかんなく発揮されるようで。 日本よりはるかに寒い朝鮮半島。 朝鮮通信使が日本家屋の冬の寒さに震え上がったそうです。 こういう情緒で、新しい日本の夏を乗り切りたいものです⇒● le 24 mardi //不景気だし、釣りでもしようよ// 閉塞感というものは20年来のもの。 今の若者は、物心ついたころから不景気なニュースばかりで気の毒に思います。 失業したなら、そりゃ大事になりますが、 そうでもなく可処分所得の目減りを数年来、 いや未来にわたって感じうる環境に陥ったとするなら、 生き方も改めなければと思うのです。 不景気を論じるとき、それは一種のサバイバルのような活き活きとしたものを感じる。 飢饉のときに飢えをしのいだ救荒植物ではありませんが、 不景気は甘受するものではなく、真剣に生きる対策を考える。 まず第一に、生活を断絶してはならぬ。安易な転職は慎むべし。 生活の持続を100とするなら、失業で0 長引けば-100 生活を持続していけば安い給料でも貯蓄も可能。101-102-103-104と富の蓄積もできる。 生活の断絶は、0からのマイナス世界からの這い上がりで、 富の蓄積など夢のまた夢になってしまう。 ここ20年来の閉塞感を僕なりに考えると、生活の持続が多くの国民でとん挫している。 それは新自由主義の考え方で広められた派遣制度に他ならないのですが、 職を転々としていては、富の蓄積など夢のまた夢。 日本人が安モノに群がるのは、 その都度、生活が断絶し再設計を余儀なくされている国民が実に多いと思うのです。 会社が倒産してしまえば、それは諦めもつきますが、 夢や恰好、辛抱のなさで転職するのなら、必ず次の世界を固めたうえでの転職を。 安易な転職は、生活の断絶そのもの。 職が街にあふれているのならともかく、現状は求職者が街にあふれている。 次に、精神的充足を考えるべし。 可処分所得が目減りし、自身の生活が荒廃するようなら、 それは救いようのない姿を曝け出すもの。 贅沢は以前よりできなくなったとしても、それは金銭的な支出に比例する。 言い方を変えれば、賢くない生き方。 少しの金額で豊かさを感じる生き方を考えるべし。 自分自身を丁寧に生きる。 部屋を掃除して静かな環境で図書館で借りた本に夢中になる。 不景気で夢もなく、だからその代償としての過度な自由で 生き方を逸脱する若者の姿は不景気になれば世界の街中で見かける光景です。 最たるものは薬物。その前段階としての奇抜なファッションや規範の乱れ。 集団行動としては排斥主義。 僕は思うのです。 不景気になれば、本来救うべき者にさえ手も回せない社会的混乱が発生します。 若者に対しては、過度な自由を黙認し、 この不景気を生き延びてほしいと放任してしまいます。 不景気になると規範は乱れ、売春や詐欺の類で金を得る。 過度な自由です。 由々しきことですが、それでこの不景気を乗り切ってくれるのなら助かるというもの。 しかし、事態も好転すれば、真っ先に駆除の対象になります。 タトゥーなんてのはもってのほか。 好転してもなお、貧乏世界のヒーローはそのままでいる。 過度な自由の先頭に立っていた集団というのは、古代ローマ、 刺青が奴隷の生涯の印であるように、ある一定以下での生存を余儀なくされる。 不景気になったら釣りでもしましょう。 静かに忍耐力をもって待つ者には、 きっと大きな魚が晩御飯を豊かにしてくれます。 le 23 lundi //ビートたけしの名言// これを目にしたとき、ビビビっと来ました。貧乏に甘んじるべからず。 「貧乏を貧乏の中に封じ込めて、その中で金を回すという商売が多すぎるんだよ。 服でも食べ物でも、安売りの品だけを買ってたり、安くて早くてという所に並んで ばかりだと、絶対上に上がれないよ。3回食べるのを我慢して1回にしなさい。 その代わり千円のやつをゆっくり食う。服も同じ。昔の教育はそれを教えてた はずなんだけど」 上等な上質な時間。上質な空間。上等な上質な友人。 ↑上記、上等-上質は彼の収入ではありません。 彼は、活き活きと生きているか? そういう人との交流。 背筋を伸ばして凛々しくいるのか、自分。 貧乏に甘んじるのは、実は楽しいのかもしれない。 学齢も過ぎた男たちが、集まり楽しそうに過ごしているのだけれど、 類は友を呼ぶというし、そういう集まりでは、その枠で帰結する。 神戸の海岸で大麻で学生が一挙に検挙された。 安っぽい集まりは、実に楽しかったのだろうが、それは一種り貧困の中の安住。 これからの人生で、どういう出会いがあるのか分からない。 下手に生き方を変えるのではなく、丁寧に生き発信する。 そこに僕の写す写真に何か心を動かされたなら、 きっとそれは素晴らしい出会いの足がかりになるはず。 丁寧に生きる。 昔見た中国映画に、 慎ましく生きる学者の夜の時間がありました。 部屋に置かれたベッドでは娘か奥さんかね誰かが寝ている。 同じく置かれた机に白熱灯の卓上ランプ。 学者はナイフで鉛筆を丁寧に削り勉学に励む。 そういう時間は持てるはずなのに、 そういう時間的余裕もあるはずなのに、 ついつい雑多な過ごし方をしている。 le 22 dimanche //動物的昼寝// 暑い時間帯でも活動するのは人間だけらしい。 野生動物は、最も体力を消耗する一番暑い時間帯は日陰で体を休ませるとのこと。 今日は、昼過ぎから夕方まで魂が抜けたように寝ていました。 別にクーラーの利いた部屋ではなく、汗ダラダラなんですが。 時折、部屋を通り過ぎる風が心地よい。 そう、心地よいという意識はあるのに肉体は寝ている。 疲れの放出は一種の放心状態のようで、起き上がれない。 こういう昼寝はサウナの効果があるのか疲れがスッパリと抜ける。 //財政再建はまず歯医者から// 僕の行きつけの歯医者は土曜日しか通院できない。 相当の名医で、痛いとか恐怖とか全く感じたことがない。術後の経過も良好だし。 そろそろ歯の掃除でも行くべきだと思うのです。たぶん二回は通院すると思う。 僕は日曜日に積極的に動くことはない。 土曜日も昼を過ぎてから動きまわることもない。 金曜日の夜から、もしくは土曜日の朝から動き出すと、 それは地方都市も含めた案外、豪勢な内容になるのですが、 「時」を逸すると素直にあきらめてしまう。 その諦めを効果的に取り込むのが土曜日の歯医者。 //一週間// この一週間、お酒飲んでいません。 こういう書き方をするとアル中のようですね。 でも、下戸でもない限り一週間酒なしの人ってなかなかいないと思う。 さて、喉が渇いたならば麦茶でも良いのですが、アルコールに手を出してしまう。 それは酔いが脳を開放し一日をリラックスさせることを知っているから ついつい手を出すのだと思うのです。 一週間の間に2-3度飲みたい!と衝動に駆られました。 程度は低いにしても、一種の依存症だと。 「あー飲みてー」と思う、あの欲求。 アル中の人は、これが強度なのでしょう。そりゃ更生も難しいわ。 +++++++++++++++++++++++++++++ 毎回、僕に影響を与える某マイミクさんがご教授してくれた音楽遺産。 +++++++++++++++++++++++++++++ 【とても強く言いたい心のツブヤキ】 以前、mixiの日記にもちらっと書きましたが、 どうしても泊まりたい旅館があるのです。二つ。 その一 岐阜県美濃市 岡専旅館 美濃の町の趣は、とても味わい深く、清楚で小さな町。 ゆっくり時間をかけて、関市や郡上八幡と掛け合わせて過ごす週末。 料金は7500円と良心的。 その二 岐阜県瑞浪市 大黒屋旅館 中仙道、細久手宿。こちらこそ、泊まってしまえば何もない小さな集落。 こちらは9345円。 何かというと、旅館に一人で泊まるのは、週末だし先方への遠慮が働くのです。 つまり、誰かご一緒して下さらないかと。 特に美濃の町を希望するのですが。。。 le 21 samedi //カフェでお勉強// 実は、これ、一つの憧れでした。 そういう人たちの姿は良く目にするのですが、まずもって勉強することがない。 今回、会社提出のレポートをミニノート持ち出しましてミセスドーナッツにて2.5時間。 最終仕上げだったので、2.5時間で無事終了。 ゼロからのスタートだと日曜日にも及ぶはず。 夕方、涼しい風も通り抜け昼寝。 溜まった疲れを排出するのか、時間が過ぎて起きようとする意識はあるものの 体が脱力のまま、おねむモード。 日中は暑いですが、夕方以降は涼しい風が抜けるのです。 温暖化といっても太陽の角度は温暖化以前と変わらず。 光線の照射角度は秋なのでしょう。 le 20 vendredi //やっややや、、、// 本日、相談役を名古屋駅まで送り迎え。その迎えの車中ですが、 静岡帰りなので、寿司の話題に発展。 「私、焼津のM乃寿司には、年に何度か食べに行くのです」と申したところ、 食通を公言してはばからない相談役が、その店構えと内装などを聞く。 コレコレでアレアレですと。 すると相談役も年に何度か食べに行くというではないか!!!!!!!! 相談役曰く、寿司はM乃寿司。ここに勝るところはないというのですが、 それは僕も同じとするところ。 また食べに行きたくなりました。 バツタリ出会った奢ってもらうことにしましょう! le 19 jeudi //赤ちょうちん、素通り// ひそかな楽しみとして、ヘアサロンの後による焼き鳥屋。 ここが美味しくて、人気も高いです。 そういう嗅覚は高くて、街を歩いていて、ここは美味しいと立ち寄る店に、まずハズレはありません。 その代り歩く歩く。歩き倒しても見つからない場合も多々あり。 味な店は、チェーン店ではないこと。 客寄せなどもってのほか。 客の入る姿、もしくは賑わいを確認する。 そして最も秀では理由は、言葉にならない何かが店から滲み出ているのです。 綺麗-汚いではなく、成り立っている店の趣は、古くても磨かれた柱に現れるものです。 le 18 mercredi //降参// 只今、クーラー運転中。 僕の反クーラー闘争記は折々に記していますが、この暑さ、なんか精神的に来ていまして、白旗を上げてしまいました。 クーラーの不自然なところは、朝になれば部屋の外に出るのだから、「病」に対する根本的な治癒がなっていない、この不完全さが嫌なのです。痛みの原因はあるのに薬で忘れているだけのレベル。 本来は、この程度の暑さなんて気にならない力強さを持ちたいのですが、なんか頭がボーっとするし、風邪でもないのに、この頭の不透明さときたら、もしや熱中症なのかなって。 le17 mardi //再びやってきた、この暑さ// やはり37度って34-5度とは全然違う。 暑い中にも、34-5度は皮膚が私を守るのですが、37度になると、頭で言うなら熱波が頭蓋骨を抜け脳みそにダメージを与えるような感覚になるのです。 もうこんな暑さは来ないと思っていたのに。 本日は忙しく、先日のぎっくり腰も忘れてしまうかの繁忙さ。 慣れたというか治ったというか、快方に向かっています。 le 16 lundi //ゴロゴロ&グーグー// ぎっくり腰の養生のため終日自宅静養。 出費ゼロ円!と納得もしていたら、まもなく自動車の保険引き落としで 76000円持って行くから用意してちょ!なる葉書が一枚。。。。 明日からまた仕事です。 須らく最善の形で執り行われたことに感謝して、 そういう時間は静かに大切に持つべきです。 生きる上での力の源泉とは何でしょうか?? 飯。睡眠。収入。次に買うべきあれこれ。性交。 確かに僕は38年前に生まれてきたわけだ。 意識の底辺に強烈な自認がないとただただボンクラで人生が終わりそう。 その理由づけはなくてもよい。 ただなんとなく、○○するべきために産まれた来たのだと強烈な自認があれば、 それは生きる上での大いなる力の源泉。 何が言いたいのかといえば、 昔に比べて自由時間はたっぷりあるのですよ。 それを全く生産的に活かしていない。 この先の目的が全くないから。 ただ収入から贅沢をし、その繰り返しに満足するのも それはある程度疑問視することなく僕を動かすことでしょう。 働いて税金を納める、これが僕の生きている色かと問われたら、 今のところ同意せざるを得ない。 努めて社会貢献をするわけでもなく、かといって反社会的なことはしない。 まったく僕の引き起こす波は小さいもので平和的なのですが 与えられた時間を無駄にし過ぎた。 le 15 dimanche //そして帰るべき方向に// 集合場所に戻ったのが14:30。 途中、瀬戸市により食事と買い物。ガソリンも元の状態に戻しまして清算も終わり。 三人が、全く別な方角から集まりましての今回のお盆。 それぞれに向かう方向を選びます。 最終日、体調を崩された方がみえて、とても心配。 僕も家に戻ってから、まさかまさかのギックリ腰。 楽天家というか、家に戻ってからのギックリで良かったと思うのです。 悪魔のような洗濯モノも片づけ、湿っぽいその他諸々も干しました。 片づけを15日中に終了することができて、真の安堵感を味わうのです。 毎年のお盆の山登り。 正午前からの全国戦没者追悼式はNHKラジオで受信しています。 内地も含めて、あの戦争で300万人もの命がなくなりました。 天候不順の大飢饉ではなく、戦争の結末ですから、痛ましいものです。 300万人ですからね、僕らのご先祖の誰かもその犠牲者であるはず。 この議論をするとき、それはアジアに多大な迷惑を。。。と、なります。 僕は思うのです。 日本人が銃口を向けた先は、アメリカ人も含まれています。 アメリカ人をどのくらい殺戮したことでしょう。 戦後の、これに関する反応は米国と特定の国家では相反するものがあります。 第一の殺戮目標であった鬼畜米英。 しかし、戦った者たちというのは勝者も敗者もなく、戦争の悲惨さは憎むのですが 相手方に一定の敬意をもつのでしょうか、戦後、敵味方に分かれた老兵たちが 意外にも通じあう再会の光景は良く目にします。 ベトナム人は自力でフランス人もアメリカ人も叩き出した。 国土と国民がボロボロになったのだけれど、その誇りがあるのでしょう。 二度とあのような戦禍は避けるべきだとは国民の共通認識だと思うのです。 その共通認識を未来に向けても具現化するために、 非武装中立でいるのか、米国の庇護のもとでいるのか、 はてまた自力で北朝鮮の挑発を叩きのめす能力を持つべきなのかは 意見の分かれるところです。 僕は思うのです。 アジアのとくに中国大陸での作戦行動は中華人民に多大な惨禍をもたらしたと。 そういう事実は深く認識するべきだし歪曲すべきでもない。 しかし、戦後、あの国々が、非武装中立の精神など微塵もなく平和的であったかといえぱ、 全くの落第国家。軍事に狂奔する姿は現実にあり、邁進する国家が、平和国家に危惧の念を毎年表明するのだから、この意味するものは認識するべきだと思うのです。 滑稽なのは、平和教育でも民主主義でも言論の自由でも、日本の多様な意見の一部は激しく断罪されるのですが、声を大にして言いたいのは、断罪する側が民主主義であり言論の自由があり平和国家で平和的な団体かといえば、全くの落後者であるということです。 現状、アジアで優れた民主主義国家で言論の自由が保障され平和教育が広範に施されている国家といえば、それは日本がその先頭に立つていると思うのです。 le 14 samedi //三日目は雨// この濃厚なガスは滞留するであろうと判断。 当初の予定は、奥穂高から吊尾根、前穂、そして重太郎新道の岳沢だったのですが、 風と雨と濃霧で危険と判断。来た道を戻り、横尾経由の上高地バスターミナルへ。 雨、ザーザーザー。 疲労度は、帰りもゼロ。 競歩に準じる速さで河童橋まで。 今回の登山は眺望に関しては残念な結果に終わりました。 ただし、その欲求不満から、眺望ゼロなのにルート変更もせず当初のコースを歩いていたら、 それは褒められる話ではなくなります。 結果としては、無事に帰る最上の目的を果たし、良しとするのです。 この日は栃尾温泉でお疲れ休み。 le 13 vendredi //曇天の二日目// 横尾から次に向かうは涸沢。快適に移動します。 ここの山岳警備隊に聞くに天気は下り坂という。ガスで稜線は視認不能で 当初予定していた、北穂⇒涸沢岳⇒奥穂山荘というコースは見合わせ。 そのまま素直に奥穂山荘へ向かいます。 昼過ぎには到着し、疲労感はゼロ。 身軽になって涸沢岳のピストンだけはしました。 このころには曇天ですがガスも抜け槍まで迫力の光景を楽しむ。 そして山荘に戻る。 阿鼻叫喚はここから始まる。 一つの布団に二人。 僕らは部屋の二段ペットのような上段に案内される。 ところがです、夜の暖房は熱気を天井近くに集めるので暑くて暑くて、 おまけに寝返りも打てず、何が一番辛いかといえば山道よりも、この寝苦しさ。 テントの人を羨ましく思いましたが、それは夜中、打ち砕かれる。 バチバチ、、、ビューーー 何の音かと思いきや突風と豪雨。 豪雨は波状でしたが風は吹きやまず、3000mの稜線のテント場ですから、 きっと生き心地はしなかったのだと思うのです。 まだましなのかなって。。。 寝たか確かな確証も持てず、朝になりました。 le 12 jeudi //雨、一日目// 今年のお盆の山登りは天候不順で全行程の1/2以上を割愛しました。 それはそれで無事に帰ってくる最上の目的を果たすため必要なことではありますが 正直、消化不良気味な側面は否めません。後日のお楽しみということでしょう。 毎年の集合場所に三人が揃ったのはほぼ同時刻。 渋滞に巻き込まれることもなく、木曽路をそれ境峠経由の奈川ダム、安房トンネルの平湯アカンダナ。 全くの大雨で道路閉鎖になったらどうしようかと不安に思う。 降ったりやんだり、ときに激しく、結局、雨にたたられる一日でした。 初日の宿は横尾山荘。「これ一流ホテルだと思って」という意味合いが 二日目に痛いほどわかるのでした。 le 11 mercredi //一歩上のお勤め// 僕は、もう何年もある種の願い事をしている。それは大変に素晴らしいものなのです。ところが傾向として僕は守るべき範囲を最小限にし、唱えている。欲深いのでは効果も薄いと。でも、それには何の確証もありません。 もう少し自分に対する欲を出してもよいと思う。 その欲が誰かのために開花するものであり、もっと広範な役割が果たせるようにと。 さて、日記を長く描いていると読み返していて大変面白いことにぶつかる。 それは当時の気になる誰かさんを、かなり意識して書いている。 ごく初期のAさんは、今頃何をしているのでしょう。 あの当時は気になって気になっていたのに、忘れるということは薄情なもので 今となっては読み返して思い出すAさん。 そんなAさんの最近の動静なんて全く分りません。 たぶん、街でばったり会えば、そんなAさんのアレコレを思い出すこともあるのでしょうが、 僕は週末の大半を名古屋から出ている。 le 10 mardi //9時のニュースです// なんか好きなのです。全画面表示で見ると、その粗さは当時のシベリアの地方都市で見るかのような錯覚に陥ります。ソビエトの好きなところは、例えばこういう一連の儀式にも美的な感覚が徹底されている。 幹部壇(ひな壇)の右端4-5人には握手するけれど、二段目の幹部たちには一切手を触れさせることのない徹底さ。それは、最高幹部の序列云々以上にロシア的な全体の美から計算されていると思うのです。もちろん右端4-5人の存在も、ここにいるからこそ全体の美が向上するだろう誰かの計算があると思うのです。 |
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