avril.2013 le 30 mardi //嫌味を言われた// それは小さな精神の石。心の歯車にコロリと入り込むとガタンゴトンと長い時間上手くかみ合わない。 怒りを鎮めるに、思うのだ。実は久しぶりではないのかと。 昔、理不尽は僕の周りに数多くあり降りかかってきた。 それを耐え忍び、今や人にアレコレ指示する立場。気付けば嫌味を言ってくる相手は、 もういない。 でも、その僕が若い人に嫌味をアレコレ言っているのかもと、久しぶりに言われて今、思う。 le 29 lundi //連休の前半が終わる//2.5日は作陶で0.5日は美術館巡り。三館のうち二館は年間パスポートを持っていますので、どうでしょう三日で覚えている限り支出は8180円でした。 こんなに倹約して、なお楽しいのだから、一体&全体どうしましょうか。 そして作り上げた作品が売れると知ったら僕はもう笑うしかない。 昨日今日と、上手く焼き上がれば、完成度の高い抹茶茶碗が二つ。 それは黄瀬戸の碗になるのですが、五月の末くらいかな?? さてと、明日あたり、食器用水止材が届く。食品にも使われるシリコーンで無害の水止材。 これ以降のマダム焼はこの塗布作業を課します。 それで思うのは、マダム焼の時代区分を、つまり長く続いた現マダムを水止材導入以前を何かの時代に選定しなければと。 le 28 dimanche //茶室// am4:30に自然と目が覚めたら座禅に行こうと眠りに着いたときは作陶の疲れも濃密。ところが自然に目が覚めたのですから。これぞ御仏のお導き!!!! 足の痺れることは毎度のことですが、今回は、一連の流れが終えたところで茶会のお誘い。 それは素晴らしい朝なのでした。 美濃焼ミュージアム⇒瀬戸蔵ミュージアム⇒瀬戸市美術館と巡りまして、ちょうど正午。 結局この日も4時間作陶するのでした。今回もスラスラと。 le 27 samedi //スランプ脱して// 作陶は、つい最近まで酷いスランプでしたが、脱してみると、本当に楽しくてしょうがない。今、急須を作っています。しばらく専念したら、残る山は皿に盆。 皿と盆は歪みが顕著に表れてその機能を低下させる。歪んだ盆には載せられないでしょ。 朝、車があまりに汚れていたので洗車して、拭く行為を高速で代替と風圧で見事飛ばしました。 大型連休の初日は伽藍ガラン。皆さん、もっと遠くに出掛けられているのでしょう。。。。 le 26 vendredi //疲れたなも// 仕事は朝からドタバタで、久しぶりに残業。夜は、急遽飲みに行くことに。 まあ、連休は作陶三昧なので、ちょっとした色を添えたと言うか、いつもの飲みコースですが。 帰りの地下鉄ではエヘラエヘラ笑いながら何か喋っていましたが、何をしゃべっていたのか全く覚えていません。。。。 le 25 jeudi //寝る// 只今、22時。まあ限界。寝ます。 人は起きているから争い事が起きる。 必要最低限起きて、あとは寝る極楽を味わえば、世界は平和で森林は保護されるでしょう。 起きているから、世の中の進歩云々をいうのです。 寝ているのなら、外が縄文時代でも関係がない。 イスラエルとパレスチナの人が、僕の眠り教に入信すれば、国境線なんて意味がない。 平和のために寝るね。 le 24 mercredi //富、その二//白い紙に絵具を持たせたら素晴らしい絵を描く人。 木と削る道具だけで素晴らしい彫像を掘れる人。 粘土の塊に捻りを加えて素晴らしい器を作る人。 何もない原稿用紙に、心奪われる物語を書く人。 ちょっとした空間があったら、おおおっと注目のダンスを踊れる人。 竹の筒に穴をあけただけの構造なのに、素晴らしい音色を奏でる人。 それで、当の本人が精神的に充足していたら、富は自らに不足することなく降り注ぐ。 ましてや、誰からか注目され称賛される対象となれば、その富は僕を溢れだし世の中に広がっていく。 売れる売れないではなくて、人間という高等生物は、心をこめて手間暇かけると ほぼ無価値に等しいものに価値を見出す、簡単に言うのなら魔法、魔法使い。 貧しいのは、心に穴のあいている人。 自由は、その穴の大きさを認識するだけであり、それを塞ごうと齷齪する人。 自由を喜べれる人は、既に何かに秀でていると思っている。 le 23 mardi //パワーがあれば// 小説を書きたい。 この膨大な日記の過去においては、そんな小説じみたのも書きあげたりしていましたが、今、思う構想はあっても書きあげると言うパワーが僕にはない。 この言葉を使いたいだけなんです。 物語の終わりあたりに土手の向こうから少女が何か大きい声で叫んでいる。 「虚しいけれど、私、自由よーーー 寂しいけれど、私、平和よーーーー」って。 これに至るまでの話を書き上げたい。 le 22 lundi //2.5// 帰宅後、南信州新聞を2.5日読む。 読むと言う行為は加速度的に早くなるのだと実感。 僕は、MT車で言えば一速が長くて、これで辟易してしまうことが多いのですが それでも暫く格闘しているとスラスラと読み進めれる境地に達する。 割とどうでも良い病は、つづく。 なんでしょうね、隠居じみた物いいですが、幸せは穏やかな生活で 眼をギラギラさせあれこれ射程圏内に収めようとする「欲」が全く湧いてこない。 たまに、良いな!とは思っても、それらは長続きせず、 結局は、割とどうでも良いと忘れ去ってしまう。 既に十分すぎるほど情緒的な生活を送っていますが、 それでも更なる情緒生活を渇望するのは、 不足していた時の感覚を忘れていないからなのでしょう。 le 21 dimanche //1kg//粘土は一キロ単位で購入するのですが、僕は以前にも1kgでどれだけ多くの作品がつくれるかと自分に何かを課してロクロを回していました。 今、課しているのは、1kgの粘土で、お茶セットを作り、残った粘土で茶碗など。 陶の盆に急須、湯のみ、豆皿をセットとして造り、残った粘土で飯茶わんなど。 昨日も今日も、コレでした。 次の連休も伺えば、必ずこの課業ですが、自由を得るためにも、スラスラと作れる技量も身につけたいのです。 礼服を一つ新調しました。先月はタイヤで再来月は車検。 まあ、生活を維持していく上で、できることなら後回しにしたい出費ってのは実に多いですね。 と、申しましても、GWを作陶中心の慎ましい日々で過ごせたなら、全額とは言いませんが 海外に旅行したと思えば、トントンでしょうかね。 le 20 samedi //黄砂ベトーーーー//日曜は雨が降ると言うのに、あまりに汚れていたので朝から洗車。 今日は、たぶん明日も終日陶芸。 ここしばらく作陶時間が減少傾向だったので、これはこれで充実しているのです。 瀬戸のおまつりは今回は見合わせ。 さてと、GWの予定ですが、今のところ座禅が一つに法事が一つ。これ以外は作陶で、どこか素晴らしい快晴の日があれば南信州にでも行こうかと思います。 一番の楽しみは座禅のあとの美濃焼ミュージアム。 この日は作陶は一切なしの陶芸の勉強。 あちこち巡り歩いて、そうですね、多治見⇒土岐⇒瑞浪⇒瀬戸かな??? le 19 vendredi //不安の種を抱えて//週末です。でも、その不安の種も心をこめて祈る時間を設けて、今回も須らく解決するのだから、まあ、なんとありがたいことか。 昨日は早く寝たと言うのに、金曜日に緊張の糸が解けると、これはこれでね、また眠たくなる。 冷たい心を持てば、自暴自棄になれば、そんな悩みなんて湧きもしないのに 人間ですからね、歯車に小さな精神の石を置かれてしまうとガタンゴトン。 le 18 jeudi //早く寝る寝る運動// 以前に比べて労働環境も改善され帰宅するのが18時。十分に文化的な生活ができるはずですが、僕はどうしてこうも眠くなるのだろう。 思うのだ。人は寝ている時、その脳は休んでいると言うけれど、 意識ない時間に、別の次元で脳から飛び出したもう一人の僕が動き回っているとするならば、どうやらあちらの世界では人気者なのだと。 あちらで呼ぶ声が聞こえますので、寝ることにしますわ。。。 le 17 mercredi //鼓膜の欲求// たまにある。何か聞きたいのだが聞くに煩い。では何も聞かないとなると、なんか寂しい。そんなとき、今もそうなのですがデジタル録音機で録り溜めた【音の風景】を再生している。愛知県は足助の奥で、かなり良い条件のもとヒグラシの音を一時間近く録音しました。 夏には早いけれど、良い時間。 le 16 mardi //嫌われる存在感//変わり者は昔からで、こういう信念を持つにいたったのが小学生の頃ですからね。強く嫌われれば、その個性ゆえ、また強く好かれる。嫌う人間が多いのは、その数だけ好きな人間もいる。 可哀そうと思うのは、無関心。嫌いでもなければ好きでもない。 あの人のことは、話題にも上がらない。 le 15 lundi //南信州新聞// 少し溜まり始めてきた。二月に契約して日毎郵送されます。数日溜めこんでいますが隈なく読み続けて、いろいろと豊かな思いにさせてくれるのです。 ダイエット闘争に突入しました。 晩御飯は、このお膳に乗る範囲内で。 前回は動物性の食材を排して1-3の膳までありましたが、今回は食材は自由で総量規制。 まっ、こういうことですが、、、 見てはいけない、見てはいけない。食べたくなるのだ!! 正座して、ゆっくりと噛み食べる行為を大切にして痩せようと思います。 le 14 dimanche //伊賀上野//で僕がしたことと言えば公園で新聞を読む。ま、両親が法事で、その送り迎えてってことですわ。 le 13 samedi //多治見陶器まつり// 楽しかったです。この楽しさを実感するとき必ず思い起こすのは、今から4-5年前の話でしょうか。 行きつけのお茶屋のマスターが、そういうクラフトものが大好きで、その情熱を聞いたりしたのですが、イマイチ良く分からなかった自分がそこにいましてね。 さてと、多治見陶器まつりの僕の区分け。 長瀬商店街⇒陶器以外にも各種クラフトのお店が多々あり一番面白かった。 銀座商店街⇒陶器に関して手作りの若手作家が並び、その分野では見ていて楽しかった。 本町おりべストリート⇒陶器に関しては型出しの工業製品の大売り出しで見るに値せず。ただし骨董に関して面白い店がありまして、その分野では一番楽しかった。 このあと帰宅して、すぐに外出。 5年ぶり二回目の人と会う。 これがネットのやり取りで全く違和感ありませんでした。 実に良い男になっていたではありませんか!!! 翌日の伊賀上野がなければ、もっと時間とれたのに残念でなりません。 次の機会を待つとしましょう。 わざわざのおこし、どうもありがとうございました。 le 12 vendredi //半休//午後から半休取得して作陶に。と、言っても釉薬掛けですが。 明日は多治見で明後日は伊賀上野なんで、無理無理に突っ込んだというわけ。 あの静かな雰囲気での作業は平日の醍醐味ですが、実に良い感じ。 le 11 jeudi //12km//を2時間20分。会社⇒自宅をエレガント・ウォーキング。 これに限らず長距離エレガント・ウォーキングをするときには必ずある種の期待をする。 それは勝手な妄想に浸る一時。 ですが、無理。成し遂げられません。 ひたすら歩いても現実の法規の中でのルート。ベッドの中のようには行かないのです。 le 10 mercredi //どうでも良い割には//眠気だけは妥協できない。寝るのだ、俺は。 目に見える世界の中で生きているけれど、 目に見えない世界の中で生かされているのだと、と、昨晩、ベッドの中で思いました。 le 9 mardi //疑惑の色// 抹茶は一人で点てて夜の活力にしています!? と、いうのは僕は気が抜けるのと眠たくなるのは同時進行な人間で帰宅と言うのは布団に入るのとほぼ同義。 文化的な生活のためにも少しは起きていなくてはならないと思い抹茶にて目をパチクリさせる。 普段使いの抹茶は決まっていますが、今は品切れ状態。当面のつなぎとして安ものを買いましたが、その美しい色合いにクロレラでも混ぜているのではと、疑念が。 数多とあるマダム焼の中でも当代一の抹茶茶わんが、 マダム宝にも登録されている【朧月夜】 le 8 lundi //週末の楽しみ// 土曜日は朝から多治見。多治見陶器まつりはブラリ歩いているだけで楽しい。名古屋に戻ってからは夜にお食事。週末誰かと会うなんて、なんて珍しい。今年に入って三回目だと思う。。。。 凄いでしょ!! 毎週末、誰かと遊び歩く人もいると思うけれど、僕は今度の土曜日で三人目。前に、僕は季節に一回誰かと会う程度とメールしたことがありますが、当たらずとも遠からず。 土曜日にお渡しするマダム焼をどれにしようか、眺めては思案するのは実に楽しいのです。 さてと先日、NHKラジオで円安における物価高についていろいろと話しているのを聞きました。そこで企業の努力も限界という一つの例に、【お値段そのままサイズはダウン】云々とありましたが、それはおかしいのではないかと。確かに輸入材料高騰の対策ですが、身を削ると言うより、ちゃっかり使用量を減らして対応している。お腹は、以前、100円一袋で満足していたものが、1.5袋食べてようやく満足になるのだから、身を削る努力の一例ではない。 包装形態変えて対応したなら、もう限界でも理解できますがね。中身減らすのは実質の値上げ。 le 7 dimanche //平和・セックス・麻薬・音楽//と並べればまるでヒッピー。甲府の旅で強烈な場面がありました。一人で旅すると、変なところに目が行って、あとは勝手な物語が始まります。 祭り会場では、地元のバンドが何組も出場していますが、それはフードコートの一角。特に見ると言うよりも目に入る内に彼らが演奏している。 そこに一人、ノリノリな高齢女性がいました。 肌の色からすると肝臓が調子良くないのでしょう。 あと、痩せた体格と、なんとなく伝わるものから大麻の常習者と見た。 彼女は踊る。最初は身内の出場に一人調子を取っているのかと思いましたが、それは見当違い、どのバンドが出ても彼女は舞台の前でご機嫌に体を揺らす。 一人旅する僕はビールやワイン、そして屋台で仕入れたものを口にしながら、彼女を見ては思う。 彼女が若かったころ、そう、彼女は社会の規範に対峙して自由を謳歌し、その証左に大麻を使用し家庭に入らずフリーなセックスを楽しんでいたのだろうと。 踊り疲れた彼女はフードコートの長椅子に座り、となりの坊やに何か親しげに話しかけるものの、坊やは警戒し逃げてしまう。 彼女はまもなくフードコートをあとにし、次に見たのは近くの歩行者天国、歩道の上で何個かあるバックとともに何をするともなく体を揺らせながらだらしなく座る姿は、女浮浪者そのもの。 ただし匂うわけでもないのでアパートはあるのだろう。 ただ、ただ単に彼女は寂しいのだと思った。 どんなに明るく野外で踊りセックスを楽しみ、酩酊し、人との壁を壊し自由を表現する先頭集団であっても、昔も今も世の中は冷たい。 le 6 samedi //甲府日帰り// なかなか良い思い出になりました。偶然にも信玄公祭りで昼間からワインを飲める街に変貌。 この町にすっかり魅了されたのは、その構造。 名古屋のミニ版。名駅と栄に当たる地区が確かに存在しているし、地元資本の百貨店が二つも。それと歩いているといかにも旨そうな店が多い。飯田の様でもある。 甲府日帰りの電車旅で、すっかり孤独に嫌気がさすのかと転地療法的期待もしていたのですが、この時間がますますのお気に入り。いつまでたっても、どこまで行っても一人でいることに気が滅入りません。 こんな僕が存在するのだから、逆の人、誰かとサヨナラしたとたん寂しさが襲うとか、一人でいるだろう週末が嫌で嫌で、平日の枠の中でいたい人とか存在するのでしょう。心から同情いたします。 le 5 vendredi //何に闘っているのか// 北朝鮮。勝手に戦争の危機を煽って、まあ、それでもって話し合いをしたいのだろうが、米国は瀬戸際外交には与しないスタンスをとっているため、下らない一人芝居を続けている。 それでもってアノニマスが北のサイトを書き換えたり親北名簿を公開したりと。 もう誰が本当の敵なのか、収めようにも大義名分も見つからない状況になってしまって、まさしく墓穴。自ら墓の穴を掘っている。 そんなことより、国民を農業や生産活動に従事させないと大飢饉が発生すると思う。 le 4 jeudi //雨を楽しむ// 土曜日は雨だとは最近当たる週間天気予報で織り込み済み。 長い電車旅は雨音を聞きながら読みものの時間。 ですが、上品な雨ではなく嵐らしい。 土曜日だから、最悪、月曜の仕事には間に合うけれど、 なんか甲府日帰り、順調に運ぶだろうか。 まあ、雨なので乗客も少ないでしょう。 空席の心配もいらないし。 こういう時ってのは寂しいくらいが丁度良い。 le 3 mercredi //25年前の//スピーカーを久しぶりに鳴らしています。元気で良い音!! 音の贅沢、音の黄金期ってのは1980-90年代かもしれませんね。あの頃の贅沢な作りのオーディオは今も健在で良い音のために各自奮闘しています。 音楽を聞くに今は最も便利な時代ですが、音質が秀でているかと言えば劣化甚だしい。 さてとさてと、水曜日も終り。今度の土曜日は甲府日帰り。 保守派の改革じゃないけれど、この前の延長にある街が甲府。 これまた読みものに特化した時間のための電車旅。 二回目は慣れたということもあり、あまりいろいろと食べ物飲み物買いだめして重たいカバンにするのは止めるように。 南信州新聞と、あと何かを一冊か二冊。この書選がひそやかな楽しみ。 合理化するところがあるというか正当化の達人と言うか。 自由がなければ自由奔放の顛末を述べ、 学がなければ学ありても何かが欠けている人のことを書き、 金がなければ金持ちの醜悪さを暴露する。 それは果たして解決なのだろうか。 自分も、そんな世界の一員になりたいのではないか。 それが出来ない現実を誤魔化すための方便。 正直言えばしばらく前からずっとモヤモヤしている。 le 2 mardi //富// 禅問答のようですが、たまに考えるのは、世の中の富。富と労働。 大地を耕し実りを得る。生きていく上の必要最低限の穀物は、たとえ秋の実りであっても、それは富とは言えないような気がする。勤労の、つまり勤労諸々に消費されるカロリーに見合った炭水化物であり、±ゼロの関係。富とは、農耕の実りが生きていく以上の収穫を得て初めて存立する概念だと思う。 でも、不思議ですよね。その大地は、人の手が加わって初めて秋に収穫できる。何もない土地で何もしなければ何も得ることは出来ないのだが、何もない土地でも何かをすれば何かを得られる。 ここに勤労の尊さ、まさしく神の御業のような奇跡を覚えてしまう。 現代は、高度な操作によって、勤労せずとも富が派生するのだが、世の中の、森羅万象、つまり富とは労力の結実であり、不労な富の存在は、世の中に働いても働いても貧しきままの階層を生み出す遠因だと、なんとなく思う。 つまり、富の大原則は、労働の成果であり、その労働とは人が長い時間をかけて取り組むもの。一日の半分近くを働き、つまり浪費する時間を持たせず、残りに食事や睡眠で、買い物など、まず出来る時間もない。このくらい真面目な日々を繰り返し、よくやく倉に溜まるのが尊い富。ところが、誰かが地位や制度、金融などで何かの操作や何かの文書の押印だけで、言えば瞬間の労働で膨大な富を手にしてしまったら、世の中に流れる富の不整脈が生じると。 つまりですよ、原始共産主義的な考えに近いかもしれませんが、富とは労働によって生み出されるものであり、富の総量は労働者の労働時間並びにその質から類推される。富の不整脈は必然とスラムを形成するのだ。 働いても働いても我が暮らし一向に楽にならず、、、と言う人がいるとすると、必ず対局の人物も存在しなければ説明がつかない。労働と富の関係は、とてもピュアなのだ。水のごとし簡単に流れる、怠け者を養う分、真面目な人間の取り分は少なくなる。 ただ、人間社会の階層を否定するなど、もはや無理に近く、今の豊かな文化的素地も富の不整脈から養分を得ているはずであるし良き面もある。 そう考えると、やはり税制でもって再分配を果たしていかなければと思う。 働かなくても贅沢三昧できる人が多く居るにもかかわらず、日本にはスラムが形成されていない。これは税による富の再分配が今のところ機能しているからだと思う。 今後、TPPで、新自由主義的な考えが跋扈するとしたなら、やはり一代限りの享楽であり税制での強力な修正力を期待したい。 と、考えるのですよ。 で、行きつくところ、人の一生、個人で見る。 働くと言うのは富を蓄積する。その富でもって働けれなくなった時に生かしてもらえる。自己で完結する富の時間移動。再分配。 現役の時にする貯蓄は、自分に課した税。その税は自分に対する福祉の源泉。 だから、貯蓄も出来ない働きと言うのは、冒頭で述べたように労力で消費されるカロリーに相当するものであり±ゼロの関係。 介護労働者が生活するのに精いっぱいとの報道は良く聞きます。 これは労働の在り方として全く成り立たない。つまり、介護労働者の老後を考える時、自己の資金によって自己の介護の問題を解決することが出来ないからである。 それは国の問題だと放り投げるのは世の中を知らなさすぎる。反対であっても日本国民であるならば新制度の流れに乗らなくてはならないのであるから。 つまりです。介護労働者や派遣労働者の悲鳴が存在する裏では、享楽の悦びを謳歌している人たちも同じ空を見ている。その数と規模が極端になってきていると想像がつく。 富がどうして生まれるのか!?を考えるのって、実に面白い。 機械のように、それも人間性を奪うかのようなラインでの仕事も説明がつく。 投資で生活する人が多すぎるのだ。 投資とは、誰もいない星にしては成り立たない。投資の先には人間が居り、そこには労働の姿がある。もしくは近々、その土地を人間が必要とする期待感。必要として勤労する人間の姿。 投資と言う応援は、実際に働く者に対しては、もう遠慮したい煩い応援団なのかもしれない。 機械のように働くのは、働いていない人の期待(投資)に応えるため、人間的であってはとても成せれないからだと。 昔は、一生懸命働いても労働生産性が低く、投資集団の規模も限られていたと思う。それが今では一大産業として存在しているのだから、実際、投資の受け手は、牧歌的に働いていては駄目である。 現実として誰もが感心するほど有史以来一番効率的に一生懸命働いていると思う。 それなのに、彼らが派遣のままで富を実感できないのは、 働かずに金を儲けている集団の存在なくして説明はつかない。 こんなにも働いているのだから、その富を実感できても良いはずだし、勤労と富の関係からみると、彼の働きは現実として富を生み出している。 その富は、【僕たち応援しているでしょ】と言う人たちが、声を涸らしたという理由で潤沢に持ち去ってしまうと思うのだ。 一生懸命働く姿には、富があって当然。もし、その富が実感できないのなら、アナタを応援する人がいると思って。 le 1er lundi //割とどうでも良い、春// 常滑や多治見でクラフトフェアが催される頃。ブラリ歩いて見る時間は好き。でも、それは湯葉みたいで表層に凝固しているだけの、生活のその時の関心事。なんか全体としては、割とどうでも良いのだ。 ほとばしる情熱とか、そういうものは無い。泣きそうな寂しさもない。 軽蔑できるほどの無関心も敵対心も自虐感もない。 悟ったと言えば不遜ですが、なにかその、全てには終わりがあるもの。 いちいち熱狂してどうするなんて思うのです。 |
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