令和4年4月avril.2022 le 30 samedi 土曜日 //今年は//去年の四月は一か月が長く感じた。相当の長さのあとに連休のスタート。今年は、あっという間です。なれているのでしょう。でも、来年は長く感じます。慣れた日々も次の3月1日で終了なのです。 さて、妄想は続く。私の新食生活。 ●昼食を断食明けとするなら、正午に禅寺の食事。食後のあと茶菓。15時にも茶菓。17:30-19:00に贅沢な夕食と茶菓と酒。夕食の準備は16:30から。ただ、午後の作陶時間は僅かになってしまう。夕食後に如何に頑張るかだが、酒をたしなんで、それが出来るだろうか。と、言って前日のプランだと昼に酒を飲むわけにもいかず。妥協点として、晩酌は週に二回というあたりか。 4時に起床して昼食の仕込み。洗濯なども。30分ほど。健康体操などして、それから11:40まで作陶。それから正午まで仮眠。正午より一時間の昼食と茶菓。13:00-15:00まで作陶。15時から20分ほど茶菓の時間、もしくは午睡。それから買い物に出かけたり掃除など。16:30から夕食の準備。17:30-19:00まで夕餉の時間。(片付け込)19時から21時まで作陶。22時に就寝。 le 29 vendredi 金曜日 //休養日//連休初日。朝から両親を瀬戸市美術館にご招待。 正午過ぎには帰宅して、それから4時間の昼寝。冷たい雨が激しく降る金曜日。本日は、石膏型の微調整をした程度であとは何もしない休養日としました。 さて、一日二食生活を考えるなら、どの様に時間を区切るのか。 ●朝食を断食明けとするなら、少量で優しく。昼に豪華に。そして夕食は取らない。この場合、11時ごろから調理を始めて正午あたりに贅沢昼食。朝食は以前、禅寺での座禅会で頂いたそれを真似たい。おかゆさんに香の物。梅湯は梅肉エキスを溶いたものとして薬湯にしたいです。おかゆの準備は寝る前かな。 ●間食の楽しみは持ちたいもの。ただ断食時間を考慮すると、朝食後と昼食後に二回かな朝食は6時には頂いて8時ごろに小さめの間食。正午からはじめた昼食は甘いものを含めて13時には終了。10-15kgは痩せて健康を持続させたい。 le 28 jeudi 木曜日 //健康と時間のために//断食をすると、体内にあるもので生きようとし、何かと体に良い。昔は、金曜日の朝ごはんを食べたら、次は土曜日の朝まで断食をしていました。 さて陶芸を生業としたら、工夫するべきことが沢山ある。時間は24時間で、その中でより良き工夫を。まず蹴ロクロを買う理由が、座ってばかりの陶芸家、その足腰対策。足腰を強化するために割く時間はないと思っているので、作陶が筋トレになるよう手回し轆轤と併用で蹴ロクロも。 次に、一日二食にしようかと考えている。三食の準備に回す時間が無いのと、無理しカップ麺で代用したなら、のちのち不健康になり生産できない。そして2食にするなら、日々プチ断食ができるよう16時間の空白を何処かに設けたい。 それは明日の日記にでも。 le 27 mercredi 水曜日 //2017年9月//6日の日記は面白い。生きる指針だわ。 芸であるというのに、40代残りわずかというのに、全く活かそうともせず誰とも会わない。会うという意味において会いに出かける感覚が全く無いので、言い出すこともなければ受け入れることもない。人が出向き人に会うということは、何かしらの学びというか良き改善や向上、充足があるべきで、そのような意味がないのに時間を割くという感覚が、まもなく50になりますが芽生えることはありませんでした。 時間は無いのだ。陶芸の道に専念するという決断が50を前にしてのこと。老いは早々に到来するので、無駄な時間は全くないのだ。今は勉強に専念していますが、その時間も残りわずかなのだ。 慰めとしては、誰もが迎える定年後の在り方を10年20年前倒ししただけなのかもしれない。人によっては旅行三昧なのかもしれませんが、私は趣味に没頭というわけです。その勢いが趣味の域ではなかったと。 le 26 mardi 火曜日 //物価高について//長いこと日記を続けていると倹約の工夫とか実に多く書いている。例えばボーナスが少なくてビックリした反動で、如何に工夫するかと。しかし、あの頃は物価は安定していた。強い円で外国から程度の良い品が安く買えたものです。だから倹約していても、無駄使いを改める程度で好きなものは何でも買えました。 ところが、ここに来て物価高の洗礼。それを陵駕する収入があれば良いのですが、今の身分では如何ともし難く。工夫しても好きなものが買えない現実にぶつかりそうです。ですが、私は今以上に知恵と工夫を総動員しなければならない。 これから買い揃える大量の資材の割高感は痛い。それは黙認するとして、さて、私はどうすれば良いのか。 脳裏に浮かぶのは、物価高から縁の無い時間を如何に長く持ち得るかということ。つまり買い物を忘却させる夢中を全身にまとい、割高の不愉快など感じ居る隙間を与えない生き方。 もちろん、答えは陶芸に行きついてしまいますが、人生初の前例のないインフレにおいて、この嵐が過ぎるのを陶芸に専念して待つ。そのための環境は割高で設えるとしても、完成したら、とにかく造形に鬼気迫る凄味をもって逸品を完成させる。大量に作って大量に焼くという行為は、インフレにおいては避けるべきで、少ない原料や資材を真心もって価値ある造形に作り上げ、対価を得る、そのような宮大工の様な作家活動で暫くは様子見かと。自分の価値を貶めることなく、いやいや名声を高めてしまうような、凄味を形作る時間に当てるべきだと思うのです。 肝要な点は、窯の稼働率を低く、原料や資材の使用料を少なく、ですが凄味ある造形の逸品を着実に作り出すこと。そのための時間は幸いにして沢山あるのだ。 le 25 lundi 月曜日 //ミストは涼しい//ビックリな気象現象に遭遇。瀬戸の街に降り立ち南側に猿投方面から尾張旭に向けて霧の河が町を流れる。それもかなり密度濃い霧。瀬戸も東部は美濃境。三国高原辺りの冷たい空気の塊が朝霧となり溢れ出して低地に移動する。 その霧の中に入るまでは、今日は暑くなるのかな?と思わせぶりな気温でしたが、入ってしまうと一気に涼しくなる。太陽光線も半減するほどの濃霧で、湿度あっても涼しい。 さて井戸水をミスト状にして常時噴霧する。それと扇風機の併用で工房の暑さ対策にしようかと考えています。クーラーは、ヒートガンや電気窯を使用してそれを使う背徳感が拭いきれずダメ。おまけにフィルターとか汚れそうだし、密室にすると粉塵の害も怖い。 le 24 dimanche 日曜日 //紆余曲折//おそらく、変更が何度も重なって思い描くのとは違う姿になるのかもしれませんが、それでも全くの白紙状態から、ここからここまで何メートルとか寸法を測りながら、アレコレ線を引くのは楽しい。 私にとって窓はとても大切な存在である。その外に緑の葉末が見えるからである。自分の目線の先に緑があるとしたなら、その中間には窓が必要である。 今は収入無き身分で、これから先も未確定の世界が続く。それでも、私がいてロクロがあって、それから窓と、その先の庭の緑がある環境で作陶が出来たとするなら、きっと心地良い気持ちで轆轤を回すのだろう。私の手から創り出される作品は心地良くて素晴らしき御縁を導いてくれると、そんな気持にさせてくれる、その先の緑の葉末。 でも、それと同時に私は笑われてもいると思う。面白おかしくではなく嘲笑。全く少女漫画の主人公の様な夢見心地な物語を50を前にした男が生活の基盤を投げだしてまで選ぶという行為は、嘲笑されても仕方ないと思っています。偏屈とでも言いましょうか、それで良いと思っている。むしろ、そう思う人が多ければ、それはそれで良いことだと考えてもいます。理由は語れませんが、一方に強烈に存在する感情の確かさは、私の夢見る存在の証明でもあるからです。 世界は、そう思ってみても、必ず隣接する世界も存在するからです。存在しないことが恐ろしいのであって、強烈に思われることは、また別に意味で強烈に存在するからです。 嫌われるくらいがちょうど良いとは、言い得て妙です。 le 23 samedi 土曜日 //極める//本日、某テレビで「山の神」と信頼されている人の番組を見ました。その人とはお話したことがあります。もう15年ほど前になるでしょうか。彼は、その時からその道で、その時には既に尊敬されていました。凄い人だと。そして彼は篤い信念を持っていて、逸れることなくそれからもその道を進んでいたのでしょう。 私も、陶芸の道を選びました。陶芸家は数多といますが、私は私の美を極めて表現していきたい。そのためには、篤い信念をもって逸れることなく。残された時間からすると、進む道を定めたら狂気にも似た鋭敏な感覚で挑むべきだと。もっともっと美しいもの。凄味ある美を創出したい。 le 22 vendredi 金曜日 //お野菜直送便//今年初めてのお野菜直送便の日でした。今回も物々交換。2時間ほど話していたような気がしますが、あっという間は毎回の事。いつもありがとうございます。 そうそう。西条さんと言う人で南の方の試験場で、海苔は聞き間違い。ワカメとかエビの研究をしていたそうです。出身は三重大。 le 21 jeudi 木曜日 //雨音//来年の今頃に聞く雨音は、どこなのでしょうか。只今、22:15。流石に寛ぎの時間だとは思いますが、雨音の蛙の、遠く近鉄の走る踏切の、そんな声を聴きながら作陶する心地。それは長いこと夢見てきた理想の姿。 le 20 mercredi 水曜日 //心配事がありました//人からすると心配な生活をしている私ですが、それに関しては全く不安を感じていません。ところが、ここにきて大いなる不安の到来。 これから私は数百万円からの買い物をしなくてはなりませんが、資源高に加えての円安で、追加費用に1-300万とか、見当もつきませんが、以前に増して相当額の金額が必要になってきそうです。 炭酸ストロンチウムとかニッケルとか沢山購入たいのですが、もうビックリな価格ですよ。 知恵と工夫で乗り切らなくては。 le 19 mardi 火曜日 //夏の前の//最近、眠くて眠くて仕方がない。これは季節の変わり目、新しい季節に順応するための睡眠調整なのかと思っています。間もなく暑い日が到来します。その気温の衝撃波に耐えうるように寝ることによって抵抗力を付けよと。 妙に眠い日々が続くと、それは季節の変わり目だったりする。 le 18 lundi 月曜日 //憧憬//雨がしとしと降ると、何故か思い焦がれる心の景色がある。憧憬ですね。それは雨音を聞きながら、工房で一人作陶する心地。何かしらの寂しさみたいなものが隣接する、その時空は憧れです。話す相手もいないけれど、雨音をひたすら聞いて、窓の外の濡れる葉先を見ながらの作陶。少し寒ければ、季節外れに火鉢などを熾して熱いほうじ茶でもして一服。 その雨が嵐でも、同じことをしていれば私は幸せである。寂しさとか不安とかが隣接するのに、何か一枚で守られていて、その内側を大切にして好きなことに励む。 今は、そのような季節の折々を楽しむ空間を手にするための準備期間です。ただ出遅れが痛い。ここに来て何もかもが値上げ。 le 17 dimanche 日曜日 //たぶん緊張感//この週末の作陶は微々たるものだった。水汲みの疲れが取り切れなかったのと、本日は肌寒い雨。 そうなのです。この週末は特別に迫られるものが無かったで、緊張感がないとでも申しましょうか、ダラダラとしてしまった。 これは危険な兆候だ。私は怠けてしまった時、人生のゲームオーバーになる。そして怠ける自由が両手にある。𠮟り飛ばす者を排除した人生を選択した。全ての責任は私に降りかかる。 やる気が湧かないのは、そんな時もあるだろうし、認めるにしても、静かに過ごす在り方は在るべきである。釉薬の研究をするとか、何かの構想をするとか。 疲れているから休むのは素直になるとしても、休むと怠けるのは雲泥の差。休みながらも、私は心のどこかで凛としていなくてはならない。それが無かったのだ。 le 16 samedi 土曜日 //写真は後日//自分の作品を美術館のガラス越しで見る心地は至福に尽きる。一眼レフを持参しましたが、写真でのご紹介は後日とします。よくよく見ると蓋にズレがある置き方。本日の終了後、処置してくれるそうで、改めて撮影してご紹介致しますね。 錚々たるお名前の中に私も存在することができたのは、今後の励みにもなります。 ただし、陶芸家として食べていくには、やはり入選ではなく入賞の域に。その程度の技量は兼ね備えるべきだと。 le 15 vendredi 金曜日 //水汲み//久しぶりに南信濃まで水汲みに出掛けました。瀬戸からスタートなので、それが15:20でも帰宅したのは23:15。途中充電の総時間は90分。 今回は酷い濃霧に襲われました。我が運転人生の中でも10指に入る濃さと広がりでした。 le 14 jeudi 木曜日 //私の幸いとするところ//特技というか、なんなのでしょうか。それは、毎日、どんな天気でも美しいと思える感覚がある。 春の嵐は、例え桜が散っても、その風雨の音を聞くだけでも楽しいし、内に籠る感覚は何かしらの情緒もある。夏は、異常に熱くても、これをどうやって乗り切るべきかと知恵や工夫で楽しい。寒さ厳しければ火鉢が楽しい。 今は仲間に恵まれている。話し相手に困ることもない。でも、一年後は、聞こえるものは笑い声ではなく自然の音。きっと毎日の美しさをより鋭敏に受け止めると思う。 新緑の透ける緑を窓の外に、作陶する心地の素晴らしさは、人生を豊かにしてくれるのだと思う。 le 13 mercredi 水曜日 //陶説のある本棚//本日は何度も、そんな妄想をしていました。新しい生活は何かの組織体ではないので、話さない日は誰とも話さない。これが続くと思うのです。その変化は大なるものだと想像が付く。慰めに憩いの一時に毎月届く陶説に目を通し、風を感じ、庭の緑を眺めるふとした一瞬、人生の豊かなひと時に感動するのだろうと。 残りの人生が、どのくらいの長さであるのか分かりませんが、そういう味わいのある時間が流れることが、どれだけ心を豊かにするのだろうと。 le 12 mardi 火曜日 //卒業する日//南信州新聞を定期購読しています。半年で13000円ほど。もう何年も前から。 本日、それを解約する考えが湧きました。と、申しますのは代わりに「陶説」という雑誌の定期行動。正会員になれば年会費15000円で、一冊1500円のこの雑誌が毎月送られる特典が。 新しい工房では、陶説を一冊一冊本棚に入れて増やしていきたい。その頃は、日常喋る相手も激減なので、慰めとしても良いのかと。 le 11 lundi 月曜日 //確かに//モテ期というものは到来する。そして実に下らないと物語は終了になる。 そもそも、一時的に浮いた話になったとしても、そういう関係が長期になることを実のところ避けている。全く冷めている自分がいて、そんな浮世話に時間も情熱も傾けるなんて!!と考え、これは人生の損であるとの結論を出す。所詮、婚姻でも家庭の構築でもない、国が変われば非合法の浮世話。 そんな得体のしれない雲のような存在を掴むような行為が幸せであるとの感覚は生涯生まれないのだろう。これを三つ子の魂百までとするのなら、そういう三つ子は現れてほしくないものだ。 私に出来ることがあるとするのなら、生い立ちの不幸な子供に罪は無し。今後、所得の一部は、そういう子らに何かしらの幸せが到来するような支援なのかと思う。それを継続して行うために私の人生は、そういう道であったのかと思うのである。強く、その行動を選ぶ素地というものが、私には必要であったのだ。 だから私は早く50歳になりたい。もはや50歳で初恋なんてあり得ないし、あり得ないなら諦観するし、それ故、別な道も進めるというわけだ。よく耐えてきたものよ。50からは耐えるということはない。そういう対象からは没落したと思うからだ。恋愛という感覚は生涯持ち得なかったと50歳には宣言できる。死ぬ間際では意味が無いのだ。新しい生き方をするのだから。 le 10 dimanche 日曜日 //やっと決まりました//候補四か所を巡って、やっぱり敷地内に構えることとしました。理想は車で20分の所、街道筋の蔵付きの古民家。次に10分のところの日当たりの良い場所に一から。でも、ここに拠点を構えても5年以内に身動きが取れなくなると予想されるので、敷地内に新しく構えることにしました。 私が陶芸の道を選んだのは、私にとって大切な人の老いを面倒見ること。その道を外れて生きる考えはないのですが、伸ばしに伸ばした結果、そう遠くない未来に確実に到来すると。だから家から5分のところも、目が届かないので、候補から脱落。 まず既存の屋内に10畳ほど。ここは資材置き場になりそうです。それから幅3メートル長さ9メートルほどの縦長の建屋に、奥からロクロ場 乾燥場 窯置き場 施釉場 そして屋内の資材置き場兼素焼置き場。 次に、縦長の一方の壁は塀のように。要所に窓。反対側は庭に開放されるような造り、を考えています。これで当面は様子見で、順次、屋内の10畳を広げていこうかと考えています。 夢は、端に位置するロクロ場から、庭の緑を眺めての作陶。一方には手回し轆轤。そして隣接して蹴ロクロも。あと丈夫な作業台も置いて積極的に作り上げていきたい。 冬はロケットストーブでも置くかな? le 9 samedi 土曜日 //不安にならないの??//どうやら周囲がそう思うようで、当の私は何かに導かれるように動いているので、全くその感情が湧かない。その周囲も最近は慣れてきたのか、昔ほど不安は口にしない。 それは向いている方向は正しいのだから、あえて修正する必要はないとの思し召しだと思う。私が妙に急に強烈に不安を感じ始めるとしたら、努力が足りない時であろう。 本日は多治見で陶器祭でしたが、自宅で作陶を選びました。私の技術でできる素晴らしい注器の形とは何ぞやと思いながら。ある意味、出回っている形は、今の私では細部を格好良くできないし土の量もそこそこ必要。そして思いついたのはエレガンス徳利。こちらを突き詰めていきたいと思う。 le 8 vendredi 金曜日 //一年以上前は//退職してから一年以上が経過したので、去年の今頃は、、、と何度も比較していた生活の変化、その言及も無くなるのでしょう。一年以上も前の事を思い起こすなんてのは、俺の去年は何していたのか!!!になる。振り返るなら、去年の自分との比較であり、もはや純粋に陶芸の力量。 去年の今頃は、とうとう人生の舵を切った船出の瞬間で、まるで新入生の様な新鮮な毎日であり、そして同時に、徹底して無駄使いを戒めていた。 あれから一年。いろいろと実験したり試行錯誤できるのも、この一年と心得て自分なりの技術を徹底して高めていきたい。 le 7 jeudi 木曜日 //手際の良さ//午後から役所に手続き。この時期、夜まで帰れないと覚悟していましたが、なんとなんと素晴らしい手際の良さで、相談兼手続きだったのに、あれよあれよと片づける。 夕方、久しぶりにロクロ。90分で10個でした。もっと生産性を上げねばと思う。一時間で10個は作りたいと。さて、私の作るというのは完成品です。とりあえず挽いて乾いてから加飾ではありません。その意味では90分で10個も、それなりだとは思いますが。 次に、この位の生産性で、別な形状も二つくらいは欲しい。 良きものを造る。生産性も良く。そして素晴らしい釉薬をかけ、歩留まりを向上させ、多くの販売方法と販売先があり、原価は安く高く売れるもの。まるで欲の塊みたいな事を書いていますが、この全てを満たさなくてはならない。何か一つでも頓挫すれば利潤は落ちる。またまた欲の塊みたいなことを言っていますが、その利潤でもって何かしらの寄与や貢献を考えているのなら、神仏は「欲の塊」の全てを善きものとして今後も見守ってくれるでしょう。 だから私には二つの山がある。利潤の追求と、戒め。その利潤を私欲のために宛がう欲望への戒め。 でも、考えてみれば、この二つを守れば神仏の加護が宿ると思えば、なんと有難いことかな。決して難しいことではない。ただただ善きことは続けるべきであると。 le 6 mercredi 水曜日 //新釉薬の研究も//金系の豪華な結晶釉は数点産みだすことができるようになりました。次は、緑と青の中間色の背景に結晶を浮かべたい。とにかく美しいものを造りたい。 さて、若き陶芸家が自分の夢を語っていました。一人は自分の作品が美術館に収蔵されて展示されること。もう一人は、歴史に名が残ること。 がっぽり儲けたいとか有名になりたい、贅沢な生活をしたい、そういうものではなく、自分の表現の上限を純粋に夢見ている。 おそらく、そういう純粋な人は結果的に大衆の欲望も意図せず手中に収めるはず。 僕は、もっともっと美しいものを。金銀に頼らず高貴な輝きを表現したい。その方面の強烈な憧れがあります。 le 5 mardi 火曜日 //人の表に立つということ//欲深で通り過ぎる人を蔑み近寄る人はカモという心持で店頭に立ったとしたら、それは人を遠ざけるオーラを出しているのかと。近づく人からすると、本能的に、ここは汚らわしい避けよと防衛本能が働くはずである。証明はされませんが心の汚れた人を感ずるセンサーというものは皆に備わっていると思う。 商売は利潤を得るものであり、それは追求されるべきであっても、心清らかなオーラの出せる人間に。昨日の続きにもなりますが、そのあとの行為、つまり喜捨する心を持ち合わせ、自分の利潤追求行動が、誰かのためになる、その枠組みを構築しなくてはならない。 薄利であってはならない。1円と1万円では、出来る行動の幅が全く違う。幅が大きければ大きいほど、核心へのアプローチも可能なのだ。 自分が作り販売するという行為に立って、初めて一連の行動の道徳的側面、倫理的な哲学を考えるようになりました。これを確立しないと、正しい道に立てない。正しいからこそ迷いも恐怖心も無くなる。 le 4 lundi 月曜日 //最大利益の希求//先日も書きましたが、資本主義を維持する根底には、高い倫理観があると。詳述すればキリスト教的な倫理観なのかもしれません。利益の希求、利潤の追求は奨励されるべきであり、それは大きければ大きいほど、倫理観を具現化できる。つまり、利潤を得るものは喜捨もするべきであると。その喜捨も、怪しげな団体ではなく、何が社会問題の根底か、どこを手直しすれば最大の効果があるのかを見極めることも同時に必要であり、それは、最大利益追求への鋭敏な感覚にもなる。 単に金儲けでは、人間性が先に破たんし商売として成立しなくなる。つまり、商売は道徳があってこそ成立するのだと。 le 3 dimanche 日曜日 //結果です。//金曜日からの三日間、近くのお寺の花まつりに出店。 4/1(金)平日で閑散としていた。5点売れて価格帯は、1500円×3 5000円×1 2500×1の12000円の売り上げ。 4/2(土)晴れて賑わう。11点売れて価格帯は、1300円×1 1500円×4 2000円×2 2500円×2 3500円×2の23300円。 4/3(日)雨で閑散とする。6点売れて価格帯は、1500円×2 2500×3 3000円×1の13500円。 因みに売り上げの2割は主催者に。 天候に大きく左右される業態。その他にも学ぶところは多かったです。これがそこそこ名の知れたマルシェとかなら、もっと売れたと思う。そういう意味で商品つくりのレベルは問題なかった。 あと、買い手は圧倒的に女性であった。少しは男性も見向きするような作品も必要かと。 次に、価格帯は妥当であったと。値札を見て去る人は、安くしていても同じことをしていたと思う。半値で売ったとして、倍売れたかと思うと、それはあり得ない。この観点からも最大利益を追及できたのかと思う。 さて粗利ですが、作品一個当たりでみると、95%程度だと思う。ただし、ここから年金や保険料などの支払いを工面しないといけないので、95%水準は高すぎることはない。維持していかなくては。 そして何より肝心なのは、美しくても原価は安くても、とにかく人が買わないと価値も富も生じない。そういう観点からすると、私は三日働いて48800円の売り上げに止まった。では、明日も明後日もあるかというと、そうではない。なので、このような機会にひと月や半月分の生活費が稼げるような、今の数倍売上なくてはならない。つまり、作品のレベルをもっと向上させなければならない。 一つ成功したことというと、豪華な雰囲気の結晶釉の研究は正しかったと。高価な雰囲気過ぎ近づきにくい雰囲気もあったと思うのですが、それを超えて値札を見ると、妥当というか安いと思う人もいたのかもしれない。 le 2 samedi 土曜日 //手応え//出店の作品や価格の方向性は正しかった。安くて多売することが基準になってしまうと、貧乏暇なしになって疲弊してしまう。価格は強気であって、それなりに売れると、利益の額は少量販売であっても、前者並みに、いや、それ以上に到達する。 それは自分自身の余暇や精神的余裕にもつながる。 今回は、強気の価格設定でも、買い手が現れる製品価値が付帯できていたことを確認出来て、大変に意味がありました。 明日は、雨。売り上げは激減しますが、そういう側面も加味したうえで、やはり価格は高めに持っていかないと。 兎に角、三つ子の魂百までではありませんが、安い価格帯が、そういうものだろうという錯覚を持たずにスタートできたこと、大変に有難いことでした。 あとは、このような出店の機会を、夏季に月に1.5回。冬季には一回は確保したい。 個展は、年に2回か三回かな。 分かったことは、売れるようなものは作っていたと。あとは、売れる場所の確保。そして利幅の維持向上。徴収の幅が2割以上になってくると、それを甘んじるのであれば、生産性において向上に努め回収に努めなければ。 le 1er vendredi 金曜日 //31日より//私の記憶として、去年の退職日よりも、その翌日の緊張感の方が記憶に鮮明である。もう、誰も戒めてくれないと。怠惰になれる自由を手にした恐怖。それは今でもあります。 さて、多治見の意匠研では、昔、一年後展というのを開催していた。卒業して一年後の作品を持ち寄る展示。まさしく、私の一年後展。 本日は三日続く出店の初日。初めて、私の作品が数点売れました。 まず、制作し販売するという循環の淵に立てたこと、心より感謝する次第です。 粘土の塊が、私の手により作品となり、そして私の手から人の手に移る。その瞬間、価値が生まれる。富が発生する。 この不思議の淵に立てたことにも感謝するばかり。 安定性や金額云々から言えば笑われる内容ですが、利益率から見ると望外の生産性。この淵に立てたことにも感謝申し上げる次第ですし、この偉大な資本主義の淵に立ち始めた私は、やはり誰かの救いとなるべきだと痛感する。私の資本行動が、私欲を超えた存在であるべきだと、その循環の淵に立てたことこそが、一番の喜びであります。 一年前の私と比べて、本日の私の記憶は、本当に嬉しい。 |
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