décembre.2013 le 31 mardi //2013年私的10大ニュース// 順位なしの10本 ●枠組みの変化(父方の祖母と叔父さんが亡くなられる) ●年収の減少(アベノミクスは僕には及ばず) ●交通社夫妻とtaroさんとの季節折々の旅(南紀の旅 鳥取と北近畿の旅 鹿児島の旅) ●陶芸に没頭の週末(大型の旅行以外はほぼ全て作陶に) ●解雇と綱紀粛正(協議のうえ大鉈を振ることに決定 正義は人の頭数だけあるけれど社員は会社の正義に従わなくてはならない) ●敬虔な日々 お仲間と二年以上手さえつないだこともない。そして折々に祈りを捧げる一年でもありました) ●南信州新聞を購読(日毎郵送されるこの地方紙に学ぶべきところは実に多い) ●急須作り(陶芸からもう一本。今年は急須作りに熱をあげ、それなりの評価を頂くにいたった) ●倹約の強化と弛緩の繰り返し(老後資金と年収の目減りを考慮し打って出るものの長続きせず、また意識を新たにする) ●健康への不安(人間ドックで気になる数値) 一年間、どうもありがとうございました。 僕に出来ることと言えば、思いを巡らす全ての人に祈りを捧げることです。 その時間は大切にこれからも持ちつづけます。人は勢いで生きているわけではない。 生き生かされる仕組みを祈りの中に見出します。 40代は枠組みの変化を受け止める時と去年の日記に書いてあります。来年もまた、きっと何かしらの枠組みが変わっていくのかもしれません。どれだけ平穏・安寧を祈っても、避けることのできない何かはあるのでしょうが、毎日を大切に生きてゆけば、きっと、それなりの中に新たな道も見えてくるのでしょう。 今年は後半から思うところが湧いてきました。その思うところってのは、もう少し自分に欲を出しても良い。祈るのなら自分のことを願えば良いと。その思いはふつふつと日毎強くなっていきます。 祈りの整合性は実に大切な事柄で、我欲との調和を祈り文句に織り上げていかなくてはと思う。自分を愛おしむ先に、愛おしむ結果が思いを巡らす全ての人に繋がるような、さらさらと流れる清らかな水のような祈りの文句を、来年の早い時期に僕は見つけだしたいと思っています。 le 30 lundi //連休三日目//陶芸を始める前、三連休を遠出もせず過ごしたなら、こんな時間なのかと、今日でお休み三日目です。本日は都市生活者。昨日同様、南信州新聞を持参してコーヒーと共に過ごす。 この三日間、体を休めるという意味では、真にその名に則った休日でありました。 le 29 dimanche //大四日市// 今日は朝から四日市に赴き地方都市生活者。四日市は名四国道を通り抜けることはあっても、その街を歩いたためしが夜にほんの少し。実質皆無。 いや、三重県最大の街、四日市。なかなかの都会ぶりで驚きました。その昔は松坂屋もあり百貨店を二つも擁していた街なのも納得。今はアピタですが。 近鉄の車窓から雪を頂いた御在所や養老山系が間近に見えるの素晴らしいロケーションだし、なんか阪急か阪神に乗って神戸に行く感覚でもあります。 駅前に高層ビルもないのに四日市が大四日市なのは、駅の表と裏が整備されていて、どちらも「表の顔」 駅裏の旧松坂屋から始まって表の近鉄百貨店、さらには諏訪栄町と500メートル四方は十分に都市生活者として楽しめれるエリア。つまり車に頼らず徒歩の移動のみで半日程度の時を潰せれる街ってこと。 そして中部近鉄百貨店の規模の大きさと賑わい具合には、これまた自立した街の自信が伺えます。それは岐阜の高島屋を遥かに凌駕し、丸栄本店よりも秀でていると思う。最上階の喫茶店でお茶をしましたが、四日市は海の見える街。海の向こうに知多半島もはっきりと。駅前に高層ビルが出来たら素晴らしいロケーションだと思うのですが。建設の余地十分にありけりだと思う。 le 28 samedi //明日を知る// 今日は大掃除などで時を過ごし、家から一歩も出ず一円も使わず。 ってことで明日を知る。陶芸はお休みだから美術館とかも閉鎖かしら??? 明日は朝から都市生活者。ようはどの街で南信州新聞を読むかなのです。そのついでに美術館でも寄ろうかなって。 明日は岐阜市で時を過ごすのも面白いかも。 いやいや四日市かな。四日市の街って、まともに歩いたことないし。 le 27 vendredi //まあまあまあ、//思うところ多々ありですが、その方面に言及は避けましょう。 仕事納めです。ところがいつもより遅くまで会社に。なにかパーっとしようかとも思いましたが何もせず帰宅。そして何もせずこのまま寝る。 今年は年の瀬の実感がない。最後の最後まで11月の延長みたいな感じでした。 2013年7/13の日記より //残す// どうして僕はいつになっても人恋しくなれないのだろう。誰とも付き合ったことのない芸なんて僕くらいだし、一年を越えて手さえ握ったこともない。それに焦りはなく、憤りがあるとすれば平気である理由が精神的な何かの欠損にあるのかとの疑念。 でも、晴れました。昨日の続き。 僕が平気である理由は、、、、たぶん誰よりも心強い。 生物の根本は子孫を残すこと。 僕らは何らかの理由で男女の関係にはなれませんが、特殊かと言えば人恋しくなる自然作用も働き、僕からすればそんなに特殊でもない。さてと、僕は特殊ですよ人恋しくないのですから。でも平気。何故でしょう。 同性愛は、疑似異性愛と見ている。そういう真似事はしたいのだ。 同性愛は、疑似異性愛。愛は求める。そもそも生物の愛としての意味は子孫を残すこと。 同性愛も、言うならば子供が生まれるまでの夫婦生活のようなもの。結局は産まれないのですが、新婚夫婦に何か焦りはありますかな?? ここからは少し不快に思われるかもしれませんが、人は生物。子孫を残す行為に何らかの理由で脱線してしまった場合、その代償行為は必ず見つけなくては、いづれ深刻な焦りが生まれると思います。特に同性愛は疑似異性愛どまりなので、100%不安に淵に立ちます。しかし、その淵は若い同性愛者には訪れませんが、生殖の機能が終了し生物として不自然に生きるとき、甘受しなくてはなりません。子孫は残せず、でも、どうして生きているのだろうかと言う自問自答は、子や孫を見れない者に強烈に訪れると思う。 生物の根本は子孫を残すこと。この義務感を達成した者には、僕らが感じるだろうある種の焦りは達成感でもってきっと感じない。義務を果たさず生きる不自然さを、人は知恵で解決しなくてはならないのだ。 子孫が残せない者には、生きてきた証を残すべきと。 生物は朽ち果てるが生殖行為は移管の永続で生きながらえる。でも、僕らはそれが出来ないのだから、自分が生きてきた証を、墓石ではなく今から残す作業に勤めるべきだと思う。(それが人生後半の精神の安定) 生きてきた証が朽ちることなく残る「確立」の出来たものに、愛だの生殖だの子孫だの孤独だのと言う不安も払しょくできると思う。 子孫を残せないものは、否が応でも孤独の大気圏再突入は免れない。ここに人の知恵があると思う。大げさに言うなら歴史に名を残せ。 まあ、そんな大げさでなくても、アナタの努力が村の小冊子に記載される。ちょっと珍しい木の並木を育てて地域に愛され紹介されるなら、それこそ生きてきた証。いやいや、未来の村の名産品を当地に紹介してくれた人として語り継がれるのなら、それこそ立派に生きてきた証。 僕は陶芸のことばかり並びたてていますが、最終的には焼き物であるモノをたくさん作りたいと思っているのです。 人生はリンクしているのかも。あれだけ通った斜面集落探訪にそういう意味があったとはね。 焼き物で、仏様を作りたい。瓶子を作りたい。 山奥には、もはや管理の出来ない祠や、それでなくても不貞外国人からの盗難をおそれ撤去されてしまったお地蔵さんの礎石をたくさん見てきました。 その昔、ここに苔むした地蔵さんがあったのは、その土地に何か慰める理由があったから。それが上記の理由で断絶してしまった。なんと悲しいことか。 定年してから、僕は、もはや廃村となってしまっただろう、そんな土地に、新しいけれどプラスチックでもない長らえる陶製の仏様など、いろいろに置いて残していきたいのです。 100に一つが、未来の信仰の対象の、そう手向けられる地蔵さんになったとしたら、僕は立派に生きてきたのです。その確信が既にあるから、僕は今の生き方に全く動じていない。 音楽が好きなら、ヒットに関係なく一つ曲を作って音符にする。 と、後世に残る何かを作り上げるのですよ。子育てをしないのだから、時間はあるし、そういう霊長類のクォリティーの高い知の何かを残す。 僕が長々と日記を書くのも、いつか、それはそれで芸の一代記として後世の読みものになっているかもしれないという期待感。この期待感は知の子孫。大いなる安堵。 これは芸として生きる僕の陶芸に身を挺する僕の理論武装でもある。 僕の生きるスタイルの説明書き。 先細る未来は絶対の要素なのだから、そこに哲学と美学を添えなくては精神の安寧にはつながらない。 le 26 jeudi //ようやく年末って感じがしたら//明日は仕事納め。。。。。。今年は9連休ですが、もし9日間連続して作陶が出来たらと思うと、楽しい想像がつきない。ところが出来るのは一日のみで、非作陶の休日が8日間という、まあ何と特殊な毎日か。 でも、それも楽しみであるのです。 2012年1/27の日記 //俺に生きる、サバイバルの系譜// 我が父上の生まれ育ったところは、例えるなら長野県飯田の大平宿。 昭和の50年を前にしたあたりで廃村し、下に下る。山奥の山奥。 父は、その村落の開祖の家系で、下りたのも最後。 父上の言からは驚く内容もある。 囲炉裏や五右衛門風呂は可愛らしいもので、 父上の祖母は、お歯黒(鉄漿)をしていた。 焼き畑をしていた。終戦直後は、違法ですが酒を、どぶろくを作っていた。 何かの草木の液を川に流し、魚を一網打尽にする漁をしていた(違法)。 今でも、思い出すように語るのは、イノシシの肉が旨かった、と。 親孝行しなくては。 一応、それ以来、猪肉はジビエとして買い求め、たまに猪肉鍋などして父上に味わってもらっています。 le 25 mercredi //バターケーキ// 昔、日本が豊かでない頃、バターケーキと言うモノがあったらしい。これが無性に食べたい。どこに行けばバターケーキって食べられるのでしょうか。。。 2011年、5/31日記より //友達は大切に、、、// ふと思いましたが、 何かその釣り糸のようで細いのですが一本筋の通った思い。 芸活動を休止しようかと思うのです。 もともと10年ほど休眠状態だったので、それは日常の延長ですが 意識しても絵空事なら、意識しないようにしようかと。 もちろんmixiなど素晴らしきお仲間に巡り合え、それはありがたく思う。 彼らとの交流は今後も継続し、人間的に実り多いものにしていきたいと思います。 そう、友達は大切に。 意識しても絵空事。 なかなか上手く言えたものです。 粘土をこね、地方都市を巡り、斜面集落に魅了され その折々で出会う人たちとの時間を、僕はより大切にするべきなのだと。 もちろん、それがお仲間であったら、とても素敵なことですが 思うのは世の中は360度魅力あふれる人間味があるというのに どうして性癖に拘り狭い世界での右往左往で四苦八苦していたのかと。 性癖から入るのではなく、結果的に同じ偶然だとしたら それは神様の贈り物だと思うし、 それじゃない同じ波長だとしても新しい世界の扉だと思う。 だから、僕は もっと素直に、粘土をこね、地方都市を巡り、斜面集落に行くべきなのかと。 同じ芸での陶芸の出会いがあれば最高ですが、芸の枠のみで切磋琢磨しても所詮知れている。実に素晴らしいと思う人たちは僕らの世界に満ち充ち溢れているのだから、変な国境線を引いたら、それは自身の成長に蓋をするようなもの。要は、未だ結婚しない質問攻めを平然とかわす術を持っていればノンケ世界も心地良いのです。 le 24 mardi //絵に描いた//僕より一つ年下ですが、絵に描いた素晴らしい生活をしている人がいる。 彼のブログを見ていると、本当に羨ましいし人格者だということが伝わってくるし、そもそも何年も続けているブログで人の悪口を一切書いていないのは称賛に値します。 人格者だからこそ、人も羨む生活も後から付いてくるのでしょう。 陶芸作家のことよ。 2010年、7/8の日記 //投票先が決まらない。。。// 僕の政治的軸の右左を書いてみましょう。 憲法は現行のまま もちろん九条もそのまま。 現在でも運用面で立派な自衛隊があるのですから この方向でもっと立派に。 自衛隊の装備を高度に、そして拡充することは大切。 経済的軸足 小泉構造改革には断固反対。派遣労働は抜本的に見直し 公務員は失業の恐れがないのだから、 給与体系は民間の平均以下に導いて相当。 特に求められる高度な専門職には、手当てがあって相当。 ただし平均を大幅に上回らない。 税と供出と見返り 消費税のupはやむをえないでしょう。 食品に関して非課税は可能であるなら、そうすべし。 低所得者に対する配慮は、所得税でみるべきであって 消費税率は国民が等しく甘受すべし。 10%までなら容認できます。 国旗-国歌 この論争には決着がついたと思っています。 ただし、国旗-国歌を高く掲げれば教育の問題は解決し 国家が繁栄するなどという安直な発想には嫌悪します。 外国人参政権⇒反対 夫婦別姓⇒反対 政教一致⇒反対 憲法を堅持する立場なので やはり不足する防衛力は米国に頼らざるを得ない。 米軍基地の価値は認めるところです。 基地の返還を論ずるのなら、自立的な防衛力の整備も進めるべき。 仮想敵は中国と認識せざるを得ない。 刑法を改正し、厳罰主義へ。 厳罰主義こそ、新規に警察官を100万人雇うに 匹敵する効果があると思っています。 死刑執行は、躊躇してはならない。 僕は、伝統的な価値を守るために 自由が制限される考えに理解があります。 これは保守的な立場でしょう。 問題は、保守主義者は新自由主義を賛美するものではないと。 小泉構造改革は、伝統的な価値を自由の名の下に破壊してしまった。 今となっては若干変わっている個所もあります。社会帝国主義とソビエトを罵った中国が、まさに帝国主義的膨張政策を、日本に躊躇なくする現実を見て、9条の改正もやむなしと。 le 23 lundi //作陶納め・道具改め// 本年最後の作陶日でした。 今年の作陶は、また日を改めて振り返りましょう。実は二回目のことですが、たぶん、年中行事になることでしょうが、最終作陶日は作陶納め。そしてその日は道具の一切を洗い清める道具改めの日でもあります。二時間かかりました。二日ほど干して、またしまいましょう。 2009年、6/16の日記 //僕の勘は鋭い// 工場には古い白黒の写真が飾ってあって、その一枚はある建物のズーム。ほんのほんの極一部しか写っていません。 たった、これだけの情報なのに、僕はその写真が長野県伊那市の旧街道のある建物前であると、ピンと来ていたのです。 ただ、これを確かめる術もなく胸の奥にしまっていました。 ところが、昔、会社の写真クラブに入っていたという人と話しをして 工場のあの写真は「伊那のあの場所の写真ですか?」といったところ ビックリしていました。 特に最近そうなのだが、こういう鋭敏な感覚がますます顕著に。。 その実例を挙げると、あり得ないと人は言うでしょう。自分でもそう思う。 le 22 dimanche //座禅会の辱め//僕は体が硬い。特に股関節の硬さには閉口。相変わらず座禅では無の境地になれない。痺れが酷過ぎるのです。今日は、正座になさいと言われました。姿形が見苦しいらしい。。。。。。。 それから多治見の美濃焼ミュージアムに寄り、昼から四時間のみ作陶へ。 2008年、10/28より //そもそも、、//愛の最高形態は結婚で子供を生み育てる流れ。 産まれてくる子供にとって、それは愛の結晶だと理解する日も来るでしょう。 そこに夫婦愛が問いかけるのです。 愛の結晶として産まれた私の両親の姿は、互いに敵対しあっている。 どう合理化すればよいのでしょう。 未だに答えが出てきません。 ただ、愛が馬鹿らしく、結婚があほらしく。 それは私が裁判官になる日々でした。 不和の原因は相手方にある。いかに相手方が不当かと目の前で訴えかけられた日々。もう、すっかり大人になった夜でも涙を流す日々でした。 訳が分からずベッドの中で鳴いていて救いを求めたとき、ある考えが浮かび、僕は解放されました。 「私の苦しみは、私が結婚しない現実が到来したときに理解してもらう」 流す涙もぴたりと止まりました。 相変わらず裁判官になる日々でしたが、あの時の、「この不当を私は未婚で訴える」解決策が私を救ってくれまして、以前ほど混乱する日も少なくなり強くなった思いがしたのです。 そして、そんな日が来ました。 どうして結婚しないのかという度重なる問いに答えたのです。 それ以来、一切の夫婦喧嘩は僕の前から消え去り、本当に心穏やかな日々になったのですが、一方で腹立たしくもある。 私が身を持って訴えて、初めて我に返るなんて。 それはあまりに長い日々でした。 物心付いたときから、31歳まで。今更、この恐怖感と馬鹿らしさなんて消えはしないと冷笑するのです。 今、36歳。 あの夜の奇妙な決意を覆せるのも今で最後だと思っているのです。 ただ、やはり僕にとって愛は、とても怪しげな存在。 そんな怪しく輪郭のはっきりしないものに、自分の人生の相当な時間を与えても良いのかと疑問に思う。 世の中には、恋の歌が腐るほどあるのが不思議で仕方ない。 私のオリジナリティの基礎となる何割かの心象・事象。 僕の行動規範の、道徳の、礎。 le 21 samedi //三連休初日//終日、陶芸。 ただそれだけで終わった土曜日です。 今年行けれるのも今日を含め三回だと思うと、もう愛おしくて愛おしくて。 2007年、12/28の日記から一部抜粋。 昔は、勤労は、報われるものでした。よって働かざるもの食うべからずという論法も成り立っていました。ところが現在は、働いても報われない。不安定な身分から生じる精神的なストレスも、相当なものだと思います。 報われるから厳しい労働にも立ち向かった日本人。その果実なくして、ガンバレと言うなら、まるで機械が壊れるまで働けヤと言っているようなもの。 僕が思うに右派におけるヒューマニズムの欠如が、根にあると思います。今、産業界でこのようなことを唱えれば、古臭い親父の感覚と一蹴されるのかもしれません。 もちろん、経営者に富が集まる流れは右派として否定することはないでしょう。しかし、それにもかかわらず、労働者の福祉を考えていた、言い換えれば経営者としてのヒューマニズムが以前はあったと思うのです。ところが労働者派遣制度として赤の他人の参入により、考える素地もなくなり、救われることもない最下層が産まれる。 我が社に来るアイツは向こうの会社が面倒見るべきで、もはやヒューマニズムの対象ではない。ところが向こうの会社は、ヒューマニズムを持ち合わせれば経営が破綻する殺伐とした業界。いやいや、向こうに会社としても、生身の人間は手元にいないのでヒューマニズムは産まれない。 「愛」 働くにしても学ぶにしても、社会の中で生きていくうえで「愛」を感じることができるか? 愛の対象にさえなれば、我が社で働くアイツが、実は働いても報われない現実を社長は座視しないはず。 社内にいても別の人。これこそが愛の断絶で、彼を孤独に追いやる。 働くということは、生きていくうえで根本を成す。労働なくして、人は長く生き長らえない。 話を進めれば、奴隷制度まで飛びそうですが、雇用する側(A)と、される側(B)は、やはり目の届く範囲ないでなければ、人は単なる機械に成り下がるのかもしれない。A-Bを結ぶ直線に、新しい不真面目なAの参入(奴隷商人)により、Bを深い孤独の淵に追いやる。 もちろん、奴隷商人ではないAが、その働きを認めて、直接雇用となる例もあるでしょうが、そういう例外を持って多数の孤独を黙認するのは、やはり法制度としてのヒューマニズムに欠けると思います。 素行不良になったり家庭内不和とか、虐待など、これら社会の諸問題の根底にあるのは愛の欠如だと思う。しかし、貧困に愛は芽生えない。愛を唱えて貧困層に普通を求めるのは、あまりに難易度が高い。貧困は罪であり嫌悪の対象である。 現在の社会が、富の再分配による貧困の撲滅を放棄してしまった以上、我々の努力は一層求められるわけですが、努力に盲目となり愛を忘れては、もはや片足は貧困に突っ込んでいる。 貧困は実に恐ろしい。避けたいし避けなければならない。努力や競争だけでなく、心のどこかにいつも愛を。 le 20 vendredi //毎年、12月には//道路のあまりの混みように閉口する日があるのですが、今日がまさしく、その日でした。 //あらまっ// 会社の近くに、こちらの飲み屋が出来ましたぞよ。顔出しました。あれまあれまの昼飯エリアの夜の顔。 2006年12/24の日記より抜粋 夢を見ると、夢の中の相手は、必ず僕の左にいる。例え一人であっても夢の中の出来事を、僕は、左の方面にそれが展開していて、眺めている。 一人妄想する時がある。 いやいや、あえてそんな想像をするのが楽しい。ドライブをするとき、冬の晴れた北風の一日、青年は必死に坂道を自転車でこぐ。 こんな光景を見ると、僕は必ず彼には帰る家があり、その部屋には窓があって何が見えるのだろうかと、全くヒントもゼロなのに勝手に想像する楽しさ。 窓を開けると、田んぼの向こうに、穏やかな里山。 窓を開けると、国道の絶えることのない車の流れ。 窓を開けると、隣家の壁のみ。 窓を開ければ、視界は半分だけれど、遠く通っている学校が見える。 窓を開ければ、町工場の機械と油まみれのおじさん。 窓を開ければ、無機質な集合住宅の波。 窓を閉じても聞こえてくる歓楽街の喧騒。 窓を閉じても匂ってくるドブ川。 例え、大阪の阪急東通り商店街の初詣のような人並みであっても、皆には帰るべき家がある不思議。 帰るのも幻滅する隣家のアル中患者のうめき。 安住の家は両親の不和に満ちている。 毎日車ばかり洗っている定年の紳士。 でも、そんなことは、そ知らぬ振りして明日もまた巡る月曜日。 人は、曝け出せば実に面白みに溢れるドラマに満ちている。それはアナタであり私。読むものに飽きさせない、驚きの連続。 私生活は曝け出せば、たった一人で映画の百や二百は製作も可能。 こんなに魅力溢れるアナタと私。 人の生活は覗き見しても知りたい。でも、それは許されないことなので、誰かをモデルに、時に自分をモデルに書くのだが、どんな力作でも、それは本人の湯葉のような表面の一枚。 この感覚は今でも持ち続けています。知っているようで全然知らなかったりする人とのつながり。無数の人に、それぞれの寝どこがあり、彼の彼女の時間割があり、誠に勝手な夢をみな頭の中に持ち続け、明日も上司に媚び諂う。。。。 知れば驚愕の世界だろうし、知らないだけで人を驚かすアーティストだと思うのですよ。この世の全ての人は。全くもってアナタも私も個性的すぎる。 le 19 jeudi //歳とともに// 風邪は薬に頼らずとの方針は今も堅持していますが、やはり治すに時間がかかり過ぎる。未だ、完治には至らず。熱とかはそもそもはいのですが、痰がからむ。肺に異物がある感覚。 先日の日記で、老いて僕は肺炎で死ぬと書いたのは、こういう観察があるからなのです。 2005年9/5の日記から抜粋。 //不気味。それは深い味わい// 仕事帰りの地下鉄。仕事に行く「お姉さん」をたまに見かける。夜の商売に女の一生を捧げた彼女達。 その中で特に味わい深いのが、鮮度に欠ける年齢層の方々。年功序列で、歳をとったなりにマダムの風格もでて着物の似合う夜の女なら、その道の成功者かもしれない。 ところがそんな管理職的な夜の女は一握り。大多数は鮮度を売りにお酒を勧める。 そしてその大多数は鮮度も欠け始めた頃に卒業して業界としての新陳代謝が保たれる。 ところが昼の生活には戻らない・戻れない夜の女が居る。彼女は管理職的な夜の女にもなれず鮮度も欠ける。 そんな女に深い味わいを覚えるのです。 彼女達の若作りは、「あってはならない法則」のように、一度目にすると何度も確認してしまう「あってはならない法則」。 成功者なら店からすぐそばのマンションでも借りるところを、そんな身分ではない。かといって若い頃のようにお小遣いをくれるおじ様も居ない。 本来の仕事に行く前に既に見世物小屋で働いているかのような、通勤のための地下鉄の車内。 仕事帰りの多くの人は仕事に行くだろう彼女の「あってはならない若作り」に不気味さを覚えるのですが、僕はいつも、チラチラと見てしまう。 そして彼女を知ったなら、二時間ドラマでも小説でも、何本でも面白い話を構築できるであろうと、どぎつい香水をばら撒いて車内を出る後姿に、やっとの思いで見入るのだった。 僕の美的感覚を端的に現わすものとして、【黒人女の化粧】という例を挙げます。 見ると、見入ると、味が出てくる。美とは、見入って初めて気がつく表層に無いところに輝くものなのかもしれない。 le 18 mercredi //割とどうでも// ロクロさえ回すことが出来たら、あとは割とどうでも良い。 土に魂が吸い込まれるような、、、、 あとは割とどうでも良い。 2004年3/30の日記から一部を //つまづきとは些細な精神の石// 自分が思うに、皆自由に生きているとしても、やはり何かしらの歯車に組み込まれている気がする。 ストレスを感じる人は、その歯車が些か歪。スムーズでない。 誰かが、僕の歯車に小さな精神の石を置いたとしても、それは顕著に現れる。 そう。誰かのペースを崩すことなんて意とも簡単なんです。 ちょっとしたイヂワル・非協力・無愛想・不親切は効果テキメン。 彼の歯車に意図的に小さな精神の石を置けば、彼はその日はギクシャクするはず。 //ニコニコ// では、それを防ぐにはどうすれば?? 潜在的な敵対勢力をあぶり出し追放処分にするか。 閉じ篭って、関わりを極力排するか。 それは一時的な効果はあっても人生の質を下げる副作用もある。 毎日の歯車は順調でありたい。そして新しいことにも挑戦して、それさえも順調な滑り出しであって欲しい。 //思いを巡らす全ての人に・・・・// やはり、最大にして最高の策は思いを巡らす全ての人と友好的であることでしょう。いつもニコニコ。あいさつ&ちょっとした会話。何事にも親切であり協力的。そして愛想良く。 物凄く単純なんですが、ムスッとした人には、レストランのタダ券を渡す気さえもおこらない。 隣の席のニコニコさんにあげたくなってしまう。 ムス子さんは、内心面白くなく憤慨するのだけれど、自業自得。 「蒔いた種が悪かったんだわ」とは例えに出される一節ですが、 良き種さえ蒔かない。つまり耕すことをしないのも心の大飢饉。 最もダメなのは、進んで悪態をつくこと。次ぎにダメなのは、情がないこと。つまり無愛想で不親切。これらは心の大飢饉。余裕ないと、しばしば判断を誤りますから要注意ですな。 つまづきとは些細な精神の石 この言葉はそれから数年、心に持ち続けたのです。2004年に書いていたのですね。 le 17 mardi //徐々にだが//確実に治っています。今冬の流行り病は痰が絡む。薬に頼らずの僕なので一週間を越えての付き合いながらの治癒です。こうやって僕は自然と抗体を身に付けていくのですよ。だから風邪の頻度が、本当に長い。年に一度あるかないかのレベルになりました。花粉症も、薬に頼っていません。目が痒くなれば掻かない心の持ちようとか、鼻が詰まれば、花が通るようなツボとかヨガのポーズとか。。。。 2003年3/18の日記 //結婚// 前にも言ったけれど、僕は結婚というものは、親を見ている限り、闘争の日々って感じで、心の平安とは全く無縁なものと感じています。今更、結婚を促されても、良いイメージが全くない。特に母親は結婚して母方の家系を名乗って欲しいと考えているのだけれど、僕は心の底にある条件を提示している。それは母親が父親を愛すること。って言うか、許せる心を持つこと。こういう日々が訪れるのなら、考えても良いけれど。。。今のままでは、全くのエゴにしか思えれない。 //それでも考える結婚// 結婚は老いる命を新しい命が支えてくれる生命の大循環の大前提。結婚しないと、極端な話、ロウソクの炎は細くなって行くだけ。ただ、若いから、そんな話は後回しにすれば良いと、後手後手の繰り返し。 ただね、何時の日か、生命の大循環に参加したいと考えても、その時は若くない。自分でも思います。結婚とは、波乗りと同じだと。乗り過ごすと、乗れない。 //理論武装// もちろん、自分に自信があり、ゲイの人生を歩むのも素晴らしい事です。皆、それぞれに思うところはあります。ただ、ある時期を過ぎれば、結婚という選択肢は消滅することだけは覚悟すべきです。 //考えたくないから後で考える// これも立派な理論武装だと思う。とにかく、歳を取れば体さえいうことも聞かない。(まぁ、社会システムで老後を支えてはくれますが) 僕は、ゲイとして活動したときから、ある考えを持っていた。この道で生きるのなら、一人でも生きていけれることが前提だと。孤独を愛せれることが前提だと。幸い、一人でも平気で過ごせれる性格なんで、僕は。 一人であっても強い自分。そういう個人の出会いとか付き合いがゲイの世界なのかなって。そうであってほしいし、そうでなくては困る。寂しいから付き合うなんてのは、僕からすれば論外。好きだから付き合うのなら分かるけれど。何が言いたいのか焦点がぼやけたけれど、結婚という波乗りに参加できる期間は、確実に減ってきている。白黒ハッキリさせるのも、あいまいのまま過ごすのも、どれもこれも立派な答えだけれど、とにかく、結婚という選択肢は、そのうち消滅する。そのときになって、欲しいなんていうのは無理だから、どういう采配をするかは、いづれ考えなくては。 いや~~~~ j○○k'dのプロフは正直な気持ちですか、この頃から、そんな内容をきっぱり宣言していたんですね。見事に合致するところを太文字にしておきました。 le 16 lundi //目が回る//今日は10-16時まで少しの休みもなく働いた。マダムラマダン日にしていたのですが、そもそも昼食をとる暇もなかったので、それは幸いと言うことで。 2002年8/5の日記から一部抜粋。 //追加なり// 『爽やかじゃないスポーツマン』 今日は7:10には会社に着いていて仕事していました。月曜の午前中が勝負と思って、週末会社の車で帰った事もあり、早朝に車に乗りこむ。とあるデカイ交差点。早朝の街はジョギングを楽しむ人も多い。その中で服装もマラソンランナーのソレなんだけれど本格的に走っているセミ・プロランナーみたいな人がいた。調子良く走っている。そんな彼に立ち止まる意思なんてないみたい。赤信号なのに、調子よく交差点内に進入し、ちょっと手を上げ「ごめんちゃい」って感じで中央突破するセミ・プロおじさん。車が2台3台急ブレーキ。あまりの無茶苦茶に、目は、そのおじさんを追う。彼は次の交差点でも同じ事をして、車の急ブレーキ。夏の早朝に『爽やかじゃないスポーツマン』を見てしまった。 どうして、この日記を選んだかと言うと、もう10年前のことですが、やはり読みなおすと、そのおじさんを鮮明に思い出すのです。日記の効力って、10年を越える歳月を鮮明に再生させるのだから、ほんと驚いてしまう。僕は、この爽やかじゃないスポーツマンを生涯の記憶にするのだろう。。 le 15 dimanche //作った作った//今日も作陶。こういう週末を過ごせるなんて、なんて幸せなのでしょうか!! 毎度のことですが、轆轤を回しながら、その瞬間の衝動を大切にするので、今日何を作るかなんて、殆ど決めていない。何を作るにしても完璧な円柱から始まるのですが、それを作りながら、何に変えていこうかと、、、今日はマグカップを五つと急須と酒器が二つ。 あと、楽しいのが200gの粘土の玉をつくりまして、一個取りだしては、この制約でどれだけ大きなモノを、どれだけ軽量化できるかなど楽しい試行錯誤。これこそ僕が上達した最大の要因だと思う。 制約無く!というより、制約の中で如何にする!?方が確実に上達できるような。。 //先週は//マダムラマダンを実施しませんでした。風邪を治すことを優先するために栄養摂取に重きを置いたのです。月曜日にでも実施しようかな。一年52週ですが、50回と計算して、一回当たり1500円ですから、一年で75000円浮く計算になります。出る腹の対策として始めたマダムラマダンも、一年で7.5万円も浮くのですから、もうビックリです。 //明日から、、12日間//初日は2001-2002年から一本、翌日は2003年から一本。と、今もなお気に残ったり、良く書き上げたものだとか、まあ日記を一本選んでコピーします。相当恥ずかしい内容も書いていますが、消すこともなくあけっぴろげな僕の半生記になるこの日記。 le 14 samedi //無駄の告白// 朝、全線高速で作陶へ。一日の使用料も途中で切り上げ。高速使って名駅まで。そして帰宅。無駄・無駄・無駄。約3000円も無駄遣い。 無駄遣いって実にアホ。だってそれを取り戻すのは、購買欲求を制して取り繕らなければならない。その無駄遣いに購買欲求が無いのだから、実に悔しい。欲無くして出て行ったお金を欲を制して取り戻す。無駄は、実にアホな行為なのです。 晩秋から財布が緩みがち。質素倹約闘争哲学を再び日記に載せて戒めなくては。 支出を上回る喜びを倹約に見出せば、ストレスフリーにもなる。 世の中の充足の大半は貨幣の移動で手に入れている。それは簡単に、そして効果も明瞭だから。工夫せずとも簡単に脳内に充足のホルモンが分泌され幸せになる。借金してでも贅沢をする人の脳は、アル中に似ていると思う。満たされるために購買する、ほど堕落してしまったら、お金はいくらあっても足りない。 必要だから購入する感覚や事前の思慮も機能せず、買って手にする快楽が優先してしまうので、1-2回使用したら次の快楽を求めだす。買い物依存。 ところが、全国民が買い物依存になってしまえば、と願う人達は実に多い。世の中が買い物依存を追放しましょうと社会運動があるわけでもなく、陰に陽に蓄えの放出を。 ところが国民も対策を考えるから、切り詰めるわけです。業を煮やした政府は、税金や保険料の増額で強制徴収。 厳しい世の中は続きます。 貯蓄の倹約の勧めは、本人が強く認識しないと、そもそもその思考さえ脳内に確立しない社会になると思う。 戦時中は貯蓄の奨励もありましたが、今、お上が、そんなこと言います!? le 13 vendredi //内藤康子さん//流行り病で声がカスカス。それを会社で内藤康子さんになりました!と述べたら、知らない人も結構いまして歳をとったと改めて。。。。。 さてと、来年は陶芸作品をフリーマーケットにでも出そうかと。自分の作品が世に通じるものなのか。お金払ってでも手にしてくれるものなのかと、一度知ってみたいのです。 ただ、僕は気まぐれに作る。作りたいものの衝動は、まさに轆轤の回転中に浮かび上がり、それに正直でいるから、何かを沢山とはいかない。僕の売り場には、少量多種の作品ばかり並ぶでしょうね。 le 12 jeudi //死因// たぶん僕は、老人になって肺炎で死ぬと思う。場合によっては血管障害の麻痺が左半身を襲い、それを引きずって肺炎で死ぬと、まあ、なんとなく思うのです。 人間、何かで死ぬのだから恐れはありませんが、そう予見できてしまう自分が確かにいる。 何度も書くけれど、僕は風邪を治すのに薬には一切頼らないこと、10-20年ほど。 2日ほど前に風邪菌が入り込んだのを僕は知っているし、今、格闘中で風邪菌が未だ優勢なのも分かる。薬に頼らないと治すのに日数も掛かるし、まず自分自身をよく観察する。それで思うのが、僕の死因は肺炎なのです。 le 11 mercredi //感謝申し上げます//お礼参りっていうやつですか、こうやって感謝申し上げれることは、なんと喜ばしい事かな。 //風邪引き始め// 昨晩から喉がイガイガ。今晩は、特性マダムスープで体温を上昇させ、熱い湯につかり、そしてこれから眠ります。風邪は薬に頼らず、医食同源・民間療法で何年も治していますが、自分自身の症状から何を食材にしてどう処置していこうかと考えるのは実に楽しい。 le 10 mardi //振り返り// 今年も年末に私的10大ニュースを載せます。記憶に埋もれているだろう事柄の数々は、この日記が再び照らしてくれるので、たまに読み返すことありけり。 毎年、傑作と思ってしまう日記もある。それは出来事ではなく心の整理の術など、脳内回路の新規開拓。何度読んでも、ああ、そうしなくては。何故もっと早く気がつかなかったのだろうと、その日記は今もまぶしい。 10/9の日記をコピーします。 //誰でも歳をとる//場合によっては働かなくてはならない。 良く考えてみろ! もっとも不安なのは、その老人のはず。彼を責めるな。 僕も歳をとる。場合によっては働かなくてはならない。新しい職場に赴くのは不安でいっぱいだ。若い人間に、動きが遅いだの、モノ覚えが悪いだの責めたてられては不安の上に悲しみまでまといつく。働きたくはないけれど働かなくてはならない人の立場。しがみつかなければならない。なのに老いたという理由で責められては、そりゃ辛いだろう。 ただ、乗り越えなくてはならない仕事上のラインはある。彼にそれが無理なら、やはり正直に申し上げて、早い段階で別の職場を探してもらうのが良いとは思うのだが、世の中の雇用は彼に優しくない。 ある段階で、僕は彼に宣告しなければならないと思うのだが、その前段階で彼の今後に対する深い祈りは捧げなくてはと思う。 見えない部分であっても愛は醸成すべき。 機械的に出来る出来ないで人を分別し、コレといった人を探し出しては、また同じことを繰り返す。そんな世の中だけれど、去ってしまう人の背中に愛と祈りを捧げましょう。窮している人に、さらにアレコレ不足を言いたてない。窮していない人こそ、その不足を補ってあげるべき。それが具体的なものとして差し伸べることが出来ないのなら、窮していない人は窮している人に、今後の祈りを捧げる心の余裕はあってしかるべきです。 生活に窮していない人の、精神的な責務は、困窮者に対する祈り。 困っている人に、最低でも心のなかでは祈り助けてあげましょう。それは自分が窮しないための黄金律でもある。そういう祈りをする人は、そういう祈りが引き続き求められるものです。 窮しない者の自覚は、窮しないためにも持ち続きるべきなのです。 と、説教じみたことを書いていますが、僕の日記は自分に対する訴えかけなのです。 ここで、とことんまで書き、絶対の信頼を作りだし行動に移す。 僕は結婚するわけでもなく、恋人を作るわけでもなく、誰に相談することもなく、今に至る。 毎年、2万円を支払ってHPを維持しているのは、この日記を利用して自分との対話が何にもまして価値があると思っているのです。そうでもしないと僕は自分との相談にも疎かになってしまう。では、日記帳で良いじゃない!!!と言われそうですが、誰を特定するわけでもなく、でも確かに世界の誰かさんは見ている。そしてコメント欄もないので僕の一方通行なのですが、それでも確かに世界の誰かさんは、僕の赤裸々な日記を確かに読んでいてくれる。遠慮することはないけれど、日記帳だと場合によっては面倒で途中で書くのを止めたりするはずですが、HP日記の素晴らしさは、遠慮せずして完結させる、これに尽きると思う。 僕は、日記上に自分の納得を得て明日を迎えることが出来る。それはただただ僕の知らない世界の誰かさんの賜物でもあります。見ていて下さるのですから。 良く思うことがあります。アナタは誰だろうって!? 確かにカウンターは回る。その中の一人は、アナタです。そして僕はアナタを思う。 アナタの窓から見える景色は、どんな世界なのでしょう。外からは何の音が流れてきますか!? 空気は凛として寒いですか!? ご飯を美味しく食べていますか!? まもなく寝ますが、毎度毎度の祈りの時間です。今晩は少しアナタのためにも祈りましょう。 僕が明日を祈るその文言で、アナタのためにも。 感謝に溢れることは、まさに喜びに溢れていると同じこと。 読んで下さる皆さん、どうもありがとう。 le 9 lundi //何もない四畳半// 文机と火鉢一つ。そして床があれば僕は満足。 照らす灯りにも拘りたい。 年に一度の古窯焼成。江戸時代の技法と一切が寸分変わらず焼きあげる。その中の一つ、小天目。釉は剥げてしまいましたが、一番のお気に入り。山に松の並木を鬼板で描きました。ぼってりとした感触で手に収まる。貫入に渋が入っているのは用の美としましょう。もう使いまくっています。生涯共にする碗です。 いつか老いたら、この碗を、四畳半の和室で味わいたい。 老後は、とても楽しいものかもしれません。 le 8 dimanche //限りない宇宙に、限りないエネルギー// 戦えば勝つ、必ず!!! 脳天劈く歌詞です。 この週末もどっぷり作陶。残すところ今年もあと5日。年末、一切の陶芸用具を洗い清める【道具改め】も、二回目になります。いろいろ揃えたけれど、結局のところ使うのは決まっているのです。 さてと明日から月曜日、お仕事です。気になることもありますが、心静かに祈る時間を設けて寝るとしましょう。 le 7 samedi //大皿四枚// 陶芸の8-9割は、その時の思いつきで作り上げる。本日は何を思ったのか、最も苦手とする皿を、それも四枚作りました。焼き上がり歪まなければ良いのですが。 僕は、極限まで粘土をケチる・軽量化します。皿は、構造上、軽量化すると「花が開く」可能性があるのです。腹筋を20度でキープする不自然さを腹筋なく維持するのは、やはりヘタれる、花開く。その限界の頃合いが、未だ掴めていないので失敗率も多く、そこが二の足を踏む原因でもあるのですが。 ただ、皿は一番使い勝手が良い。粘土の使用は多く目眩がしそうですが、出来上がりの迫力もまた皿には多いのだ。 le 6 vendredi //仕事帰りに//本山⇒大曽根⇒八事とブラリ歩き。 溜まった南信州新聞を読んでいたら、なんとなんと、11/30を最後に信州日報が休止になったと。 僕の飯田好きは相当なもので思い入れは強い。何が好きかと言えば、独自文化圏でしょう。 この小さな地域で、東京の世界の話題など一切載せない日刊紙が二紙も存在していたと発見した時は、その興奮、この日記にも何度か書いてあるはず。大都市の名古屋でも、緑区の話題なんて、半月に一度、A3一枚両面刷りの、新聞らしからぬ何かが中日新聞に添えられるだけ。ところが、この地域はコミュニティーFM局もあれば地元ケーブルテレビに地元紙が日刊で二紙もあり、豊かな言論文化に真に魅了されていたんです。二紙存在する特殊性は大いに強調されても良い事例なんですが、それも先月末までということに。。。。 今から思うと、僕が購読する南信州新聞に比べ、内容も情報量も、そして見栄えも後れを取った感が、特に近年増していましたが、全く持って残念なことです。 le 5 jeudi //悪魔博士の名古屋弁講座// どうして僕は、こうも寝れるのだろう。たぶん、脱力のポイントを心得ているはず。 今日なんて、最寄駅一つ手前からの最寄り駅までの一瞬に記憶の無い睡眠しているし。。。。 眠たくなったなと思ったら、次の駅を僕は知らない、のび太くんなのです。 le 4 mercredi //明日は木曜日//一週間も早いですね。 今日は濃尾平野西部水郷地帯で川魚料理を食べました。まさに地産池消。 鯰のかば焼き。鮒の刺身。鯉汁。ご飯。香のモノ。なんと1500円なる格安!!! 本来、郷土料理はその土地に住む者にとって、もっとも基本となる食事内容なはずですが、流通とがい食文化は、その郷土料理を著しく奇異な存在へと変えてしまった。川魚料理に関する熱き思いは、以前の日記に述べていますが、まあ想像するに木下藤吉郎(秀吉)。彼が中村にいた頃、泥にまみれて土の味のする川魚を馳走として賞していただろうとは想像がつく。浪漫じゃありませんか!!! 日本人の胆力は土の養分から来ると思っている。 le 3 mardi //この番組大好き!!!!//この音楽はもっと好き♪ パリの話でした。名古屋なんて20年もしたらがらりと変わるのに、ああ、なんて懐かしいのでしょう。変わっていないのですよ!!!!! 昔、足繁く海外に行ったのは、今から思うと正解だと思う。 昔、高級なホテルを泊まり歩いたのは、今から思うと正解だと思う。 昔、旨い食事を食べ歩いたのは、今から思うと正解だと思う。 昔、、、、、、、正解だと思う。 そのどれか一つでも欠けていたら、遅れてどっぷりハマっているから。 早々にある程度のことを語れるのは、やはり正解だと思う。 今、とても内向的な時を重ねていますが、 それもしばらく後に振り返ると正解だと実感するでしょう。 なんか、意図してもいないのに自然と先回りしてばかりいている。 昔、遊んでばかりいたけれど、ここ10年超、全然遊んでいないけれど、コレも正解。 12/1は世界エイズデーですが、とんでもない内容のメールをもらいました。薬物に頼る朦朧な営みのお誘い。ここ10年ほど全然遊んでいないのは、近々正解だと答えが出るでしょう。 もっと自分を表現する時間が欲しくありません!? 薬物に染まったら、それはドラム缶の中で表現する快楽だと思うのです。汚く臭く匂った錆びたドラム缶の中でも、恍惚で酩酊で朦朧な快感は、夢見心地なんでしょうが、現実は本当に汚い人なのです。 世界は広いのだし奥深いのだから、今生きている幸せを実感しましょうよ。それは決してドラム缶の中には存在しない。 薬物を常用する人は、おかしくない・正常であろうとする振舞いをするでしょ。 当たり前の姿を努力して表現するなんて、人間の表現力・生命力の無駄遣い。 各人、素晴らしい能力があるのだから、爆発的に表現して時を重ねていきたいものですね。 そのためのスタイルが今だと思うから、やはり正解だと実感するのです。 le 2 lundi //お勤め果たした月曜日//週に一度のマダムラマダン日を月曜日に敢行。 スポーツサロンも退会したし、この試みは効果的にカロリーを制限するし精神力も高めるし、実際、スマートになっているし良いことづくめ。 さてさてさて、秘密保護法案。僕が危惧するのは、例えば大阪にいるらしい、あのペテンな政治家が一瞬の熱狂で政権を握ったら、この法案には、とても助けられるはずです。一瞬の熱狂の後に、自身の不足は秘密にすれば良いのだから。。。。 と、中身は知らないのですが、時の権力者が安全保障とは別の次元で秘密を指定できるのなら、大問題です!!!! 特に小選挙区制度だから、時と場合によっては急進的な反対党が躍進し政権を握るかもしれません。自民党には、そこは危惧してもらいたい。仮に共産党が政権を握ったら、暴力革命の別働組織との関係性とか公安が調べ上げてきた資料もお蔵入りが決定するでしょう。 まあ別の見方からすれば、急ぐのは火急の要件ありけりなんでしょう。よほどきな臭い動きが中国にあるのかもしれません。公然の秘密として米軍の核を持ち込むことによる水面下の威嚇は必要なのかもしれませんが、これは秘密でなければならないので秘密保護法は必要でしょう。相対する国家は全体主義であり、機敏な動きが知る権利云々で遅滞する危機感を持つのは理解できます。 自由と民主を穏やかな空気で味わう時代は去ったのかもしれません。何かを犠牲に踏みとどまる時代なのでしょうか。。。。。 le 1er dimanche //あと7日// 今日は除いたとして、今年陶芸行けるのもあと7日。 そう考えるととても貴重に思えてきますし、今月は今まで以上に専念いたしましょう。 昨日今日と、基本の碗作りに集中しました。急須は一個だけ。 いや、本当に楽しい。 |
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