février.2008


le 29 vendredi
//ウーマン。ケチケチ講座二日目// 身の丈にあったケチ。
//30%の技術// 昨日の話を小市民的な対応策として考えましょう。
●車での外出は控える 
僕が、もっとも効果的に出費を抑えることのできる項目は車関連。
慣れてしまった便利さを放棄するのは都落ちのような気分ですが、都心でのお買い物に、定期を使って地下鉄を利用する。車は週末のドライブに特化させ、それ自体も回数を減らす。
完全土日祝日休みの僕はドライブの回数も相当にありますが、ハンドルを握らない週末を2回は設けるべきだと思います。
ドライブするなら単独行を控える。

これらを実践すれば、ガソリン代、高速代、行き先での諸々の出費、都心での駐車料金などを確実に浮かせることができます。

●ある物は買わない
実に難しいのですが、お酒でもコーヒーでも茶葉でも、僕は家に沢山あるのに目に付いたら買ってしまう悪弊がある。それを絶つ。新しく買うときには、価格も高騰しているかもしれませんが、やはり総体的に見て在庫は減らすべきでしょう。これで数ヶ月間のその手の買い物は浮かすことができる。

●背筋を伸ばし颯爽と
これが最大の懸案だと思う。倹約の結果、他人から哀れを催されるような姿に成り果てるのは本末転倒。貧しさの滲み出る者に、誰が楽しい話を持って来ようものか。この具体策は明日。

le 28 jeudi
//ウーマン。ケチケチ講座第一日目// 連続シリーズです。
//絞った雑巾を絞る// 世の中の物価が10%程度上昇するのは織り込み済みでした。ところが誤算も誤算、今後30%前後は値上がりするでしょう。これでは大半の国民の貯蓄率も下がるはず。

バブルが崩壊し、国民が辛酸を舐めたころ、救いの手は中国製品などの格安アイテム。 ボーナスも出ないのに、何とか生活できたのは、中国で製造した安価な製品が潤沢に入ったから。
実に皮肉ですが、新自由主義を忌み嫌うのに、あの頃の救いはまさしくグローバル化の恩恵。

この流れが永遠に続くかと思っていました。

しかし、原材料そのものが高騰する昨今において、それは中国製だろうが値上げの対象になってしまう。
ここに国民の貯蓄率の低下が如実になる。

その上げ幅が5-10%ではなく、今後、30%は進むでしょう。
簡単に言えば10万の月収が13万になって、初めて天井と床下の空間が維持できる。  もちろん、そんなのは夢物語。
非正規社員が大量に生まれ、団体交渉力に欠ける働き手の実に多いことよ。

よって、物価の上昇を上回る賃金の上昇を勝ち得ることのできる極一部を除いて、工夫無き者に、その生活は確実に低下する。

従前の生活を享受すれば将来の蓄えは確実に減る。
将来に重きを置く者は、現状の生活を絞り天井と床下の空間の保持に努める。これが5-10%の倹約なら、さほど難しくはないものの、30%となると相当の困難が生じるはず。

しかし、倹約を説き、国民全てが「欲しがりません勝つまでは」を実行したなら、例えばケーキ屋さんや、ケーキ屋さんに卸す乳製品業者などは大打撃をこうむる。

個々人の生活防衛と、経済を活性化する潤沢な金の流れは往々に背反し、前者があるレベルを突破すれば、それはご主人のボーナスが昇給が確実に減るというわけ。

嫌な話、大半には、将来の蓄えを減らしてでも従前の、それを上回る経済活動をしてもらい、自分だけは倹約に努める。そうでもしないと話の辻褄が合わない。全国民が倹約してはダメなのです。

幸か不幸か人間は慣性の生き物だと思っている。一度知ってしまった贅沢は、生活が困難になっても放棄したくない。物価は30%は値上がりしますが、国民を平均しての倹約率は決して30%は上回らないはず。根拠はありませんが、せいぜい10%程度でしょう。よって今後もさらに貯蓄率が下がるのは決定事項のようなもの。


ここに自分だけが「絞った雑巾を、さらに絞る」ことに黄金の意味合いが出てくると思うのです。

le 27 mercredi
//ウーマン旅行社の真髄// 好きな分野の、特に得意とする部分。海外旅行は好きだけれどスイスなら負けない。そんな感じ。

僕は名古屋の日帰り&一泊圏内のドライブコースを語らせれば、尊大な物言いですが、まっ、平均より多くは語れるはずです。
そのなかで一番好きなのが【斜面集落】
民俗学的なことまでは詳しくないのですが、僕の関心を寄せるラインはマイナーすぎて、コレより先は学者と共に・・・
つまり、学者くらいしか詳しく調べないような気がするのです。
長野県天竜川沿い、最南端の斜面集落。


早朝の田舎は、まだ名古屋から馳せ参じる風変わりな人も来なくて、
朝靄の中に、かまどの煮炊きする煙の香り。
これが日常の、彼らにして、なんと贅沢なことでしょう。



只今、新日本紀行のCDを聞いています。

le 26 mardi
//何して過ごそう。土曜-日曜// 歩きたい。どこまでも。
少しは違う休日の過ごし方として、恵那から中仙道を中津川まで。
そこで地方都市に泊り、翌日電車で帰る。

でも、快晴と読めるなら焼津。
週間天気予報では、芳しくありませんが、本日のような大外れ予報も期待できるし。

//権力は理想を狂わす// そもそも社会主義陣営は同族間の権力移譲は、誰よりも忌み嫌うのが正道だと思うのです。某テロ国家はその似非さ加減に語る素地もありませんが、キューバ、お前もか!です。こちらは弟なので長期の権力保持は難しいと思いますが、やはり社会主義の大義として同族間の権力移譲は問題だと思う。

そもそも、その心理を紐解けば人民の反旗が恐ろしいだけ。権力を集中してやりたい放題のシステムを築いたのに人民大衆の生活は改善できなかった。その報復が恐ろしいから、頼れる身内に権力を移譲。

le 25 lundi
//良い曲は千回万回聞く//連続して。昔から、この旋律は大好きでした。そのCDを買うことに。

僕らの先祖のリズムなのでしょう。東海道でも中山道でも。ひたすらに歩く。歩くことが移動の全てだった日本人のリズム感。傑作です。

何に感動し何に苦労したのか、今となっては、
その輪郭はあいまいだけれど
日本人の遺伝子に組み込まれた工業化以前の
体を駆使して生きてきたあの頃の、リズム感。傑作です。

想像は膨らみます。
峠道。どれだけ登っても、まだ峠に差しかからない。
そんな折、木々の切れ間から、眼下に小さく見える宿場町。

都会人だから、現代人だから、たまの田舎が憩いになるのではないと思う。旅人は、その見晴らしに少し腰を掛け、山を吹き抜ける風の心地と、トンビのヒュールーリーと鳴く声を聞き、握り飯など食らう。

都会の生活に疲れて思うのが、そんな古の、それが無理なら田舎暮らし。不思議なことです。そちらの生活の方が、はるかに疲れると思うのに、癒されると思う心地。
何故でしょう。僕らに残る感覚の趨勢は、実は工業化以前のリズムで、この現代のリズムからはやく脱却したいのでしょうか。

それとも春先の、十分に水分があり前年の草が分解され肥料となるような黒光りする栄養ある、あの田畑の土の臭いを、無性に求めているのかもしれません。

新日本紀行。冨田勲。

le 24 dimanche
//何故、死んではいけないのか??// この問いは、以前マイミクさんが、自殺願望のある知人から相談されたとき、返答に困り、皆さんならどのように答える?と日記に質問したのが、今から半年くらい前の出来事でしょうか。

漠然として、残された者が悲しむから、地獄に落ちるから、明日はきっと明るいから、、、と自殺願望のある者を引き止めるにはインパクトの弱い回答しか浮かび上がらない。

これは野菜の嫌いな者に、野菜を食べてもらうように納得させるほどの難しい問答だと思う。一方は、そうしたいのだから。

しかし、事は切羽詰っている。

そういう死生観というか、生命倫理というか、やはり常に自信を持って答えられる観念の醸成は必要なのだと思う。

僕が思う答えは、以前の日記に書いてあります。

公教育の場で宗教を流布することは禁止されています。
田舎の大家族ならともかく、新しく都会に住み着く核家族。
先祖のお墓など、その場所も知らない。
手を合わせるのは初詣のときくらい。

宗教の流布は嫌いです。人それぞれに思うところがあり、思うところに落ち着き、安らいでいるのだから他人が口出しするべきではない。

ただ、その安らぎのない人に、だからといって他人がしたり顔で勧めるのも如何なものかと思う。

現実は、積極的な流布を行う者たちはカルト信者のように思われているし、そういう現実が後押しして、大多数の人たちは宗教的な発言を他者にするのを控えるのが趨勢です。

やはり常日頃から、心に余裕のあるうちから、死生観というか生命倫理を身に付けるために、自ら進んで研究を深めるべきなのでしょう。

唯一、進言できる事柄いとえば、訳の分からない老人の変な宗教ではなく、丸善とか大型の本屋に売っている、聖書なりコーランなり仏典など。人が何百年何千年と信じてきてコレは間違いはなし!と認定を受けた、歴史を生き抜いてきた宗教書の翻訳は、いづれ死に行く我々にとり、生前なすすべきことの一つなのだと思っています。

le 23 samedi
//国破れて山河あり//杜甫の春望


         国破山河在
         城春草木深
         感時花濺涙
         恨別鳥驚心
         烽火連三月
         家書抵萬金
         白頭掻更短
         渾欲不勝簪

    国破れて 山河在あり
    城春にして 草木深し
    時には感じて 花にも涙を濺ぎ
    別れを恨んでは 鳥にも心驚ろかす
    烽火三月に連なり
    家書萬金に抵たる
    白頭掻けば 更に短かく
    渾べて簪に 勝えざらんと欲す

国破れて山河あり。高校の頃から名文句だと思っている。
詩の全般の解釈は別としても、最初の一行には雷が落ちた衝撃。
「泰然」といえば良いのか、何と言うか、
我が身に降り注ぐ一大事でも、山河に一片の変わりもなし。

例えば、会社が破産しても、自己破産しても、大地震が名古屋を襲っても、、、、それは目を覆う事実なのですが、山河に一片の変わりもない。

特に中国なんてのは、国の滅びる繰り返しですが、それは人間界の大事件であって、山河に一片の変わりもない。飛ぶ鳥は何の変化も感じない。

le 22 vendredi
//事実として、、// 訃報をもらう。お悔やみ申し上げます。

//台風が去ったら// その晩は恐ろしかった。家はがたがた揺れ風の音。
翌朝、台風一過。村人達は田畑に赴き復旧と耕作に汗を流す。あの台風は恐ろしかったとは、鍬を持つ手に会話するであろう。しかし、人は明日に向かって田畑を耕す。
玉音放送が流れ、大日本帝国が消滅するかもしれない!占領されるかもしれない!と思っても、農民は間を空けず田畑を耕す。その繰り返し。

le 21 jeudi
//音の風景// どれだけ選択肢があっても見たいテレビがない。聞きたいCDがない。こういう状況は僕だけではないと思う。

それは暇であり、眠気もないけれど、今は何も見聞きしたくない。これが本心なのでしょうが、暇で眠気もなければDVDなりテレビを見るのが癖になっているから、どんなに選択肢があっても見当たらないのでしょう。

退屈。これは一種の不眠に近い症状かも。寝たいけれど寝れない辛さ。

時間があり眠くないのにすることがない。

こういう場合、僕は録りためた「音の風景」を聞きます。
森の音など聞くと、そこに先を想像する旋律はないけれど
それが自然本来の音というか、落ち着きます。
そして横になれば眠りにつくので僕は退屈から解放される。

le 20 mercredi
//キッスは嫌と言っても反対の意味よ// 聖子女史が何かで歌っていました。名文句です。

ところが実際は、忌み嫌う言葉を並べる者に、確率として反対の出来事は、なかなか到来しない。

例えば、【好き】という答えを得るために、
A 嫌い    B 何も言わない    C 好き
このような三者がいたとするのなら、最も辛酸が長く続くであろう人物は、
誰が見たところでA。

プリンが大好物なのに、
「プリンは嫌いだ」「ナニモイワナイ」「プリン大好き!」、、、簡単です。
好きなものを手にしたい場合は、素直に口にすれば良い。


これは音声としての他者への発言だけでなく、
大半を占める自分との対話でも適応させるべきだと思う。


誰かからプレゼントを貰うとき、平素から好きなものを口にしていれば、
ソレをもらえる可能性は大。
これは、結果として、自分が買うべき過程が省略されるので貯蓄にもつながる。

そうなりたい。そうありたい。と、願うならば、難しく考えることなく口にするべきだと思う。

誰が、口にせず者に、便秘に効く薬草茶を紹介しようものか。

le 19 mardi
//100円ミニ簾(すだれ)// キーボードと手の関係。手の重たさが嫌で、キーボードの手前に、何かを敷く人が多いです。僕は100円ミニ簾。

色々試しましたが、熱がこもって不快であったり、高さ調節や形状の安定感などに不満があり、なかなか決まらず。そこで登場したのがミニ簾。

熱はこもらず形状は安定。好きな高さにも簡単にあわせられる。
お勧めです。

//分かって欲しいのは二の次// 文章を書く。日記でも良いし歌詞でも良い。誰かに伝えたい気持ち。そういう発信としての文章。
ところが当然と言えば当然ですが、文章化するというのは、自分の頭の中で一度整理して初めて可能。

le 18 lundi
//何もない贅沢// 大金持ちなら、大坂城の山里の丸のように田舎風情を楽しむ家を山奥に作りたい。
電気はなく、囲炉裏と火鉢と行灯と。薪で煮炊きする煙の香り。
朝靄と煙の朝の輝き。

それに近い体験は幼少の頃にあるので、やはり今になっても切望する。

寝る前、誰もが邪魔されることのない勝手な映画を上映しますが、
僕は、そんな日本家屋で、冬の夜、一人暖を取る姿をイメージするのです。


何でも手に入る世の中だけれど、
ほとんど手に入らず、それは秋の蓄えで春まで待つサバイバル感。


今年は、七月の連休に大白川に二泊三日のテント暮らしをする予定。
飽きるほどの孤独を楽しみ出かける大白川ですが、
やはり一泊二日ではダメ。
もともと単独が好きだけれど、人恋しくなるほど、孤独を楽しむ。
そういう感覚は、人より数段勝っています。

世の中は不思議で、人が側にいないと気が変になる人もいますが、
僕はその対極。その治療法として、対極の僕が、向こう側に行くために、
今の極端をさらに極めて「飽きる」感覚を持ちたいのです。

le 17 dimanche
//プレイガールとは別で// 大平に泊りたい。いや、泊るかも。 

//ちゃうちん// 提灯。 提灯が好き。興味が湧きます。
幼少の頃、山深い祖母の家では懐中電灯と併用して提灯がありました。細い竹の先に提灯を下げ足元を照らし、夜の戸締りなどをする。

大平に行くまでに提灯が欲しいです。
提灯をかざして闇の中を歩く心地は、日本人としての記憶の渇望なのかもしれません。

まず、観光用のポリエステル製ではない、古式な提灯をどこかで求めなくてはなりません。

le 16 samedi
//常滑から内海まで// 22-3キロを歩きました。こういう早歩きというかウォーキングは好きです。疲れないし、雑念が湧かないし。

知多半島と言えば知多四国。四国のお遍路さんを尾張でもできるようにと四十八箇所お参りするお寺を設けた江戸時代の観光参拝コース。

道中、そんなお寺を何箇所も通り過ぎました。

歩くことが大好きな理由の一つに、脳波。

ボーっとして、活動レベルは前を見て交通の安全に努める脳内活動と、あとは考え事を一つできるかできないかの低いレベル。

このできるかできないかは面白くて、論理的な思考はほぼできない。
では何ができるのかと言えば、念仏を唱えるようなレベル。

ひたすらに歩き、念仏というか家内安全などの願い事を念仏形式に何度も繰り返す。

この一種の恍惚感というか、低レベルな脳波の唯一の仕事としての繰り返し唱和は、坊さんが長い時間をかけて読経する心地に似ているのかもしれない。

ボソボソ言っても、言う本人は小さな声で通り過ぎる存在。奇異には映らない。いや、気にも留めてくれない。


一種の麻薬のような感覚なのでしょう。それを覚えているので、どうしても再現したい。去年の4月。早朝の寒い長野県の大鹿村で写真を撮るには早すぎて一時間ほど公園のベンチで座っていました。
座るにしては静か過ぎる環境で、これは瞑想に最適だと思い取り組む。
このとき味わった脳内の感覚が忘れられなくて、僕は家で瞑想したり22-3キロも歩けるのでしょう。


そう思うと麻薬は怖い。絶っても、やはり味わいたいと思うはず。


時間があれば何したい!?
瞑想したいです。本当に。

le 15 vendredi
//人には生活がある// 生活があるのに物のように扱う現在の派遣制度。生活があるから、それを中断させてはならない企業の倫理。

ところがよ、不法行為を生業とするものがいたら、生活が頓挫しようが止めさせるべきであります。

では、法的な不法行為までいかなくても、勤労に関して倫理的に不当である者に対して、彼が悔い改める素地も見せないなら、、、、それでも生活を頓挫させないための使命(忍耐)が必要なのだろうか。

できることなら悔い改めて欲しい。それが無理なら新天地を求めて欲しい。それさえ嫌なら、やはり勤労道徳を維持するために、必要性がないことを進言しなければならないと思う。ただ彼にとっては、そういう事態は忘れた頃にやってくるのでしょう。

しばらくは万全の代替策を考え、表面的には様子見。
もはや教育とか指導というレベルではなく性根の問題。

この「しばらく」の間に、事態が好転しないようなら、
やはり不要論を上奏しなければと思う。

le 14 jeudi
//制裁は誰が下す!???// 一方は善良で、他方は悪意に満ちている。それを評価する立場の人間に、聖書の一節は心苦しい。アナタの怒りは神が代行するのであってアナタが表現してはならない・・・みたいな一節。
これを曲解というか、何もしなければ善良な一方は救われない。悪意成すものがのさばるだけ。 正々堂々と、なんの躊躇なく処罰することは聖書の道理に反することなのでしょうか???  どうやら答えは出てきそうにないので仏典とコーランに助けを求めましょうか??

個人的に罵倒されたとしても、それを内部で忘れ去ることの術は、先ほどの聖書の一節。審判者とはおこがましいけれど、そのような立場になって、罰するという行いを果たしてしてよいものなのだろうか。  いやいや、それさえも神が代行してくれるのでしょうか??

願わくば、一刻も早く依願退職して欲しい。

アナタを罰したくはないけれど、アナタは必要ない。それを分かって欲しい。

le 13 mercredi
//棚ボタではない祈り// 新しい懸案が次々と現れる。これらを須らく最善の形で解決することを願う気持ちは、今も昔も変わりません。ただ、どんなに願を掛けても、自分が解決するために動かなければ状況は変わらない。
それだけは忘れてはならない。

//喉まで出かかっていること// それは、、、、
例えば、一度、溺れた記憶のある子が水に対する恐怖心を払拭するために、いったいどれだけの苦労が必要なのだろう。悩みに悩んで、でも怖い。

例えば、浮き輪をつけて、監視員がいるから、つまり生命の危険はないから泳いでみなと言っても、本人には他人には理解できないレベルの恐怖が遅い、足をつけるのだけでも心臓が止まりそうになる。

そんな人間に泳ぎを強制しても人生の質ははたして向上するのだろうか。
しかし、恐怖心もなく実際に泳げたなら、人生の質は向上するでしょう。

そんな境界に自らを立たせることが自分にできる精一杯。

人生を豊かに幸せに平和にするために、退却することも答えだし、
飛び込むことも答えだし、じっと考えているのも一つの答えだと思う。

le 12 mardi
//13枚の地図// オフ会で1/25000の地図を見て、地図の面白さを思い出す。大昔、父上が山を管理するのに1/25000の地図を購入。親としては、ココからココまでがウーマン山と把握したかったのですが、僕は、祖母の田舎の詳細な地図を食い入るように何時間も何日も眺める。

久しぶりに早く仕事が終わり、地図が強いといわれる本屋に直行。三枚買う。いや、三枚しか買えなかった。

それは僕が今後、重点的に行くであろう南信州の地図。
家に帰ってから、ネットで10枚買う。

数日後、13枚の地図になりますが、
週末が嵐になっても気にならない。

ただひたすら、じっと眺める週末になること、ほぼ確定。

le 11 lundi
//南大門全焼// とても悲しい事件です。こういう歴史遺産が灰になるのは、どこの国であっても胸の痛むこと。ソウルと言えば、ロータリーのなかにポツンと佇む南大門の写真のイメージなのですが、それさえも無くなるのは残念至極です。

一部の韓国報道では、事件そのものもショックだけれど、日本の建国記念日に崩れ去ったのが衝撃を大きくしたと・・・・・

こういう、訳の分からないことを書くから、嫌韓が増えるのよね。
報道の使命が真実の伝播なら、それも仕方ないけれど、
心のあり方を変えない限り、首根っこを締め上げるのは
結局は韓国になってしまうようで。

le 10 dimanche
//二日目という余裕// 従来のオフ会は、翌日には帰る準備。ところが、この日も丸々使える。最大の目玉は。古道歩き。
名古屋は大雪でしたが、奈良県や和歌山も山間部は、珍しい雪景色。
コースは短めになりましたが、静まり返った冬の森を歩くのも楽しいものです。

その後、勝浦に行き、旅館でノンビリと二泊目。

詳しくは、後日、特別頁にて。

le 9 samedi
//今回のプレイガールは、// 大型のオフ会。南紀に二泊三日。詳しくは後日、特別頁になります。

土曜日は、湯の口温泉に行きました。
トロッコに乗ったのですが、揺れる木造の箱(客車)は、とってもレトロ。
僕は、旅を通して一番楽しく、一人思ったのは明治の皇后になったような気分。あのようなガタガタする揺れの汽車に乗って地方を視察したのかと。品川あたりとか。

この日は、立派なログハウスを七名で貸切。taro先生の持ってきてくれた牛肉が絶品でした。名古屋の高級焼肉店に言っても、二切れ三切れで一万円なのに、食べきれないほどの量。全く盛って素晴らしい夕食になりました。

le 8 vendredi
//残す// 昨日の「残す」ということを書いた日記。このような記述は初登場です。同じことは何度となく書いたりしますが、「残す」話は始めて。

僕が、飽きもせず日記を書くのは、これも「残す」作業の一環。
駄文が光輝くのは年老いてから。死んでから。そのためには中断してはならない。駄文でも続けてこそ「残す」意味が出てくる。

この一見、無意味な「残す」作業。
この達成感があるかないかで、
晩年の精神衛生は相当に上下すると思います。

老後の蓄え。年間の掛け金。それも大切。
しかし僕らは死ににいく存在。この恐怖を忘却するのが遺伝という生殖。
何かしらの代替措置は考えるべきだと思います。

le 7 jeudi
//歩きたい// たまには趣向を変えて、電車を利用した旅でもしようか!? 
考えているのは、木曽路の適当な駅で降りて、中仙道をどんどん歩く。そして、適当なところの温泉に入り、名古屋に帰る電車に乗る。
明智鉄道でも良い。

ただ、リュック一つに歩く旅は、全くの未経験。何を取り揃えて良いかも分かりません。 

歩くことは好き。思い描くのは、南信州の小集落を結ぶように歩く休日。

//縁も縁(ゆかり)もない土地// でも、好き。 そういう好きな土地って誰にでもあると思う。親戚もいなければ引っ越した先でもない。縁も縁もない土地なのに、何かの旅で出会ってから、もう、とことん好きになってしまう。

僕は、南信州。それも深南部と呼ばれる、険しいな山峡。遠山郷エリアと読んでも良いでしょう。
いつの日か、自転車か、徒歩で、限界集落を、斜面集落を、そして地図に記されている神社仏閣などを訪ね、その素朴さを写真に残したい。


芸として生きるのは、「残す」という動物的本能を抑圧している。その矛盾を癒すために、形を変えた「残す」作業を、歳とともに僕らは知らず知らずするような気がしている。

植林に精を出す。後世へ森を残す。そういう形を変えた「残す」作業。
何かを精力的に調べ上げ、本にしたり、今は便利なサイトにしたり。
そういう残す作業を何かしたなら、晩年の悲しみも大いに癒されるかと思っている。
誰が読むとも限らず、でも自分の歌集を出すことは、「残す」こと。

あと10-20年もすれば消滅する集落が点在する遠山の斜面集落を写真に残すことは、形を変えた動物的な本能なのだろうか?

le 6 mercredi
//共産党の道徳の限界// 状況証拠から、中国内で。それも複数人が加担。今回の毒事件で、日本人が責められる側面はJTの発表の遅れ程度であって、混入そのものものとは何の接点も無い。

それは中国も知っているのに、日本にも犯罪の余地があるような発表をする。ところが真実は後から後から発表され、恥をかく。

未開封の中身に毒がある。

行き着くところ、もうそんな報道は止めるアル!と言い出す始末。

これが共産党の道徳の限界なのでしょう。

オリンピックも控え、ピリピリしているのは分かるけど、正直に晒すことが最善だと思う。隠しても真実は後から出てくるのだから、やはり嘘はいけないアル。


日本でも食品偽装が問題となり、一時閉鎖に追い込まれる老舗は多い。しかし、嘘はついたにせよ、言い訳をしたにせよ、大悪人ではなく小悪人程度なら復活の余地は認める。

ところが大阪の老舗は、言い訳の段階で大悪人の烙印を押され、最悪の選択として今後も企業のセミナーなど良い例として扱われるでしょう。中国がしていることは、まさに自らが大悪になろうとしている、その中途の段階。

le 5 mardi
//その働きしていない// その選挙区の住民ではありませんが、僕は聖子派です。 そもそも対立する美人女史は、刺客として名を馳せましたが、比例の復活当選。その働きを果たしていません。 実力がないのだから、ゴネる以前に身を引くのが正道だと。

//せめて2時間// 二時間欲しい。平日に。 夜、ベッドで本を読んでも、一ページも読めず寝てしまう。仕事に慣れたら少しは早く帰れると思うし疲労もなくなると思う。ただ、仕事に慣れたからといって、仕事の合間に本は読めない。やはり、家に居てまとまった自由な時間が欲しい。

le 4 lundi
//勇み足// 勢いで、ワーっと言い、それが自分の誤解で、非は相手方にない場合。後の姿は見苦しい。



能力があるのに、正当に評価されない。

観察すると、能力があるゆえ相手方を卑下する。評価者を卑下するのだから始末に置けない。その位、自分が秀でていると思っているのだろうが、もっと良く観察すると、さほど能力はないのかも。


本当に能力のある人は、傲慢でも横柄でもない。人が羨む経歴を、靴下のような意にすることもなく、さらりと身に着ける。

le 3 dimanche
//熱量は同じだけれど// 扇風機のような形のハロゲンヒーターに扇風機の風を直撃。 赤外線の光の熱は、風に関係なく正面に当たり、当たった面が温まる。では、その間の空気はというと、光を受け止める余地がないので温風は発生しない。  それでも扇風機の風を当てるのは、反射板やヒーターそのものの熱を攪拌するため。ヒーターに当たった風は温風となって部屋中に攪拌。  400wですが、その熱(風)を効果的に部屋に対流させているので、能力の割りには暖かく感じる。ただし、この工夫でもって400wの熱量が450wなるわけでもない。ヒーター近辺に溜まっている熱風を広範囲に薄めているだけ。

//訳分からん// 中国産。猛毒混入。この事件で、中国産品を遠ざける動きが顕著になるでしょう。それは消費者としてありがたいのですが、問題は日本の食品表示も信頼できない。相も変わらず中国食材を輸入し、それを国産だの豪州産だのと表記してしまえば、もう見分けはつかない。  結局、家庭菜園でもしない限り、中国の毒薬からは逃げ切れないのだろうか??? いやいや、偏西風に乗って大量の有害微粒子が飛来しています。 

どんなに入管を厳しくしても隣に豊かな国があれば命をかけて不法に入国します。米国でも欧州でも隣接地域に頭を悩ます。それと同じで、安い中国食材は、どんなに批難されようが顔を変えて入り込むと考えるのが自然だと思う。利益の追求を考えたら、関所などザルのようなもの。

//自然界の共産革命// 水は低い方に流れ、いづれ水位は同じとなる。温度の違う部屋の襖を開けたら風が発生し、いづれ同じ温度の無風となる。湿度でも同じだ。南極の氷がとける。冷たい海水、暖かい海水、これらの流れは温度が均一になるよう互いに向かい合う。  

人間界に例えれば、貧富の差をなくし平等となる。このような平準化へのエネルギーの流れは正に自然界の共産革命。

ところが、革命が成功すると、そこにパワーは感じられなくなる。

どうやら、エネルギーは他者との差によって、初めて認識されるようです。

ただ、地球が球体で、赤道があるかぎり、そして太陽がある限り、熱量の差は否が応でも生じるので、地球の気体に海流にパワーがなくなるとは考えられない。

平準化への力の流れ。
それと、差異化への努力。この攻防。

自然エネルギーの効率を高めるなら、どうやら、一方の数値をできるだけ高いか低いかに設定し、流れを激流にするべきなのでしょうか?

ただ疑問なのは、二つの水力発電所。
一つは日本で一つはロシアとしましょう。
日本の川は小さくて高低差が激しい。
ロシアは、大河。でも高低差がほとんどない。
そこに水力発電所を設置したとするなら、一見、エネルギーの凝縮は日本が勝っているように思えますが、結局のところ、差異無しのような気がする。

高低差と水量の自然な関係は、どうにもならないと。

と、するならダイナモの性能とか、送電線のロスを無くすのに専念するべきなのでしょうか??

う〜〜〜む。文系の頭はこんなものです。

人智でエネルギーの取りこぼしを無くすことはできるかもしれませんが、上記のハロゲンと同じで、人智でエネルギーの総量を増幅するすることは無理なのかもしれません。

そう考えれば、世の中の自然な流れ全てに水車や風車を設置し取りこぼしを無くす、それが解決なのか???

//●// 


le 2 samedi
//睡眠療法//と名付けました。積もり積もった仕事の疲れを癒すため、僕が選択したのは睡眠。まずは12時間寝て、10分ほど起き、またベッドの中に入り6時間。疲れは癒えましたが血が滞っているので、サウナにでも行きましょう。

//工夫は楽しすぎる// 先日の日記にも書きましたが、ケーキを食べて倹約をする精神。 苦痛を呈した倹約ではなく、美味しいお茶にケーキを頂く倹約。それを成立させるための算段を考えるのは実に楽しい。

大渇水の夏。いかに少量の農業用水で豊作に導くか考えるようなもの。
こういう頭の体操は大好きです。
諸々の物価は上がり、かといって生活水準を切り詰めるのに一種の敗北感を覚えるなら従前のように進めばよい。  ただ僕には、それが絶対にできない。

あの人は、お洒落で金回りが良いわね〜〜〜と思わすために借金をする人は、アホ過ぎる。

あの人は、お洒落で金回りが良いわね〜〜〜と思わすために貯蓄が減る一方の人は、その人の自由だけど僕には理解できない。

あの人は、お洒落で金回りが良いわね〜〜〜と思わしても、その実、出費は限られていて、さらに花丸を付けるなら、どんどん豊かになっていく。

そういう生活が成立するために頭を捻ることは大好きです。


印象的な昔話をすると、ある人と久しぶりに会い、さらに数年の昔話をする。そこに登場する彼は、苦労人をアピールするのにレストランでは一番良いものを選び、その矛盾が、実は周りの不愉快になっていたと・・・・・初耳でした。

倹約しても、その労苦を表に出してはダメ。
さらに言うなら、倹約そのものの過程がケーキを食べてするようなものに。

le 1er vendredi
//溢れかえる// 部屋を見渡すと、コーヒーや諸々の茶葉が溢れかえっている。新規購入は控えて、まずはそれを消費しましょう。 部屋を見渡すと、読んでいない本が溢れかえっている。まずは、それを読破しましょう。 美味しいケーキでも食べながら。

あ〜〜〜〜〜 疲れた。
疲労がある一定のレベルに達すると僕は背中に独特のガタガタした感覚を覚える。寝ます。

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