février.2012



le 29 mercredi
//人生においてこの日とは// 果たして何の意味があるのだろうか。一日余分に働く日と見るのか、一日だけ歳をとるのを遅らせると見るのか。  経済統計で対前年度比とかで稼ぐことのできる特別な日なのか。


le 28 mardi
//手相が動き出した!!!!// さほど関心が無いころでも、細切れな知識を得ては手相を見て嘆いたものですが、どうでしょう、この半年ほどで手相が変わったのを実感するのです。手相は変わるものだとは、詳しい人から過去に二度聴きました。まさにソレが訪れています。実際は何を意味するのか分かりませんが、とても良いふうに解釈しています。


le 27 lundi
//人生は、やはり短い// 今年40歳。80歳までは確実に生きるとしても、まあ残りの人生は半分です。 時が早く経過するのは経験が時節の確実な予見をもたらし、日々の移ろいに驚かなくなっていることも言えるだろうし、働いて好きなようにお金が使えて旅先も自由。やはり毎日が格段に楽しいのです。 楽しいから時の過ぎるのは早い。

おそらく50までの10年間もあっという間に過ぎ去るでしょう。
この間、確実に経験するのは、近親者の死。死に伴う枠組みの変化。
慣れないことを経験したとしても、やはり時の過ぎ去るのは早い。
絶望して自ら命を絶つ人も多いが、80になったとしても今まではあっという間だし、その時健康ならするべきことの消化に時間が足りないと思うはず。

輪廻転生は仏教思想ですが、思うに人間として生きているのは、長い道程の一瞬一瞬なのでしょうか???  もし、そういう大きな流れの一つとして私があるのなら、私が生まれ出た環境というのは意味があるし体験して時には克服して語れるようになり悟るようでなくてはならないと思う。


le 26 dimanche
//その②// ①道を全面開通させる ②鯨波温泉 ③醒ヶ井でお騒がせ女

バスと地下鉄を乗り継いでいたころ、特に大型の旅行の帰り、名古屋駅から自宅までは市内というのに本数の関係で70-80分はかかっていた。それが今では35分ですから帰りのストレスが全くありません。


le 25 samedi
//交通社夫妻の旅行// 後日、特別頁ですが、備忘録として
①尻焼温泉 ②としちゃん姐さんと合流 ③川古温泉 ④新潟別院
⑤のた小学校のキャンドルナイト


le 24 vendredi
//一宮の夜// 日付変わって待ち合わせ。その間、2-3時間の間ですが一宮の夜を満喫。
交通社夫妻の旅は、いつもどこかで待ち合わせ。
その時間も好きで、僕は待ち時間に数時間、あえて確保する。

ガチャマンの一宮。一度栄えて衰退した、張りがあった後のしわの顔。
一宮の味を良い深さは、きっと30年ほど前は、ごった返す賑わいを収容した面影にあると思う。


le 23 jeudi
//時間が無い!!!!!!!!// ボーッとする時間が無い。
それでもボーっとすると、本を読む時間もなく就寝の時間。

僕には、まず十分なボーっとする時間が必要だ。


le 22 mercredi
//食に通じる友人// 15-6年前、社会人ヨチヨチの頃、お食事で初めての格差を知る。僕より年上ですが、彼は働くも雲の上のような、要は堅実ではない働き方で、いつしかファミレス以外に距離を置く彼の姿が目立ち始めた。  他は高いから嫌だと。
あの時の残念な記憶は鮮明で、心のどこかに美味しい食事ができる友人も欲しいものだと。。。

グルメと言えば、僕を知る人は皆グルメと言ってくれるでしょう。
では、高級店を知っているかと言えば、それは無いとも答えるはずだ。

春、水が緩み、それは澱みにも通じる海抜ゼロメートル地帯の鮒の味噌煮やモロコの押しずし。そういう食事を求めて車を走らせるのだから、僕はグルメなのだが、グルメ雑誌には載らない世界を行脚する。


le 21 mardi
//本の曲線// 僕は本を読み漁る方ではない。小説というものは人生において20冊未満だろう。手にする本と言えば、最近は日本陶磁大辞典。江戸時代食生活辞典のように、人の心で書きあげた世界の話ではなく、事実の溯上。 どちらかと言えば学術書なんですが、こういう本も気になると買い求め部屋に溜まる。
緩やかではあるが増え続ける本。
僕は生涯、読み残しなく幕を閉じるのか、それとも増え続けるのか減り続けるのか。
10年前に買った本、未だ読破せず、、、、これが実に多い。


le 20 lundi
//2400円// 先日、マスプロ美術館で買った美術本、その定価を知るにビックリ、2400円。 それを500円ですからね、良い買い物ができたというわけ。

実はです、今年40の僕は、今月から新規に老後の貯蓄をしているのですが、今月も順調に締めてかかりましたので余裕で定期に入れられる。
ところが!!!!!! 陶芸に専念する喜びは僕にまったくひもじい思いもさせず、これこそ貯蓄の黄金律だと改めて思うのです。

心の隙間なんですね。それを何で埋めるのか。

さてと、今月の26日は陶芸を始めて一年の記念日。
この間の進捗状況をmixiで公開中。


le 19 dimanche
//梅瓶// 青磁の梅瓶が完成しました。釉薬は自分で掛けたのですが、コレも一つの勉強。
上部にさらに掛け焼きに流れると計算したのですが、
流れるほどの釉薬ではなかったようです。





le 18 samedi
//都市生活者としての土曜日// と、言っても分厚い陶磁大辞典と小説を一冊持参して、10時の喫茶店で読書。11時の喫茶店で読書。12時、マイミクさんとお昼とお茶。14時に解散して、僕はひとりで瀬戸電に乗り瀬戸市に行く。この日を利用して陶芸用品を買い求めたかったからです。
瀬戸蔵ミュージアムにも行きました。古陶好みの僕にとっては昨日に引き続き夢のような世界です。それから戻り大曽根で地下鉄に乗り帰宅。

話し変わりますが、芸ゆえのお気楽ですね。
給料日前に金が無いって話は良く聞くのですが、僕には想像もつきません。そんなこと一度たりとも経験したこともないし、この手の話を芸から聞くと、ますます分からなくなってしまう。
二月も陶芸に専念したことにより、貯蓄傾向の一カ月となりました。一番の買い物は2.7万の本。続いて1万の靴。この程度。あとは粘土程度でしょ、こりゃ溜まるわけだわ。。。。

てか、以前、エレガンス廉価版の心得として、5000円の支払いに違和感を覚えるようにと書きましたが、既に達成いたしました。。


le 17 vendredi
//その境地へ// 今は何もかもが新鮮で、新しいことに挑戦してしばらくすると自分の技量になる楽しさ。願わくば、ある程度の境地に一日も早く。
いつでもどこでも、ある程度以上の物をスラスラと作り上げれる手を持てば、僕はもう少し自由になれるはず。

今の自分を考えると、土日の両日とも陶芸から解放されるのは、かなり不自然。
出来ることなら一日だけは日帰りで非陶芸のアレコレを楽しみたいのです。

さて、本日はマスプロ美術館に行って参りました。
古陶が好きな僕にとって私設の博物館で、これだけ収蔵した情熱に感謝するばかり。
知っている地名の窯跡からの出土品を見ていると、コレを作った人たちは、どういう思いで取り組んでいたのかと、古を思うのです。
あと、かなりお得な美術本を買いまして心満たされる金曜日なのでした。


le 16 jeudi
//祈りの時間// また特別な祈りの時間を設ける必要があります。
今回もまた須らく最善の形で解決され、この素晴らしき恩恵に恩徳に感謝するのは何にも増しての喜びなのです。

//○○と思うのは、私だけでしょうか???// こういう言い回しがラジオやテレビの投稿とかで頻発。僕は好きではない。思うのなら、思うと電波を借りて私信を述べるのなら他人の顔色をうかがうな。 

//ありゃ、、、// 久しぶりに見る顔に老いを感じるのは当たり前だし、僕もその例に漏れず。
久しぶりに見たご尊顔は、たぶん夕食に問題があるのでしょう。塩分と脂肪分蓄えたまま寝ていると思います。  まあ、僕も人のことを言えたものではありませんが、えっっっっっでした。

さてと、毎日働けれる喜び。収入があって休みがあって、その休みに陶芸に没頭できる喜び。僕はなんて幸せ者なのかと思う。 世の中に恨むことも羨むことも全くないのは有難い極みだし、その環境でもって陶芸ができるなんて。こういう世界に身を置けれる喜びに心から感謝するのです。

明日は雪が降ると言うしスポーツサロンは見合わせるはず。仕事終わってからどこかの喫茶店で陶磁大辞典を読み耽りましょう。


le 15 mercredi
//当たる手相// 何の知識もないのに会社で手相を見て、その伝わる雰囲気で言い伝えたところ、当の本人、あまりの当たり様に驚く。  これに気を良くして、何人かに同じく伝わる雰囲気で述べたところ、やはり皆、驚嘆する。  手相は、その筋に笑顔であったり悲しい雰囲気であったり、なんか伝わってくるのですよ。
喜ばせる困らせるとは全く別物で素直な感覚で何か言いたくなってしまうのが人の手相。

今月末で焼き物を始めて一年が経過します。
それを振り返る企画展をweb上にて。。。。



le 14 mardi
//土曜日は、、、//次の週末も陶芸は一日のみ。土曜日はお昼にお食事。
行動予定としては、朝に瀬戸に行き陶芸用品を買う。
僕は絵心が全くダメで、刻印にて誤魔化そうと梅とか松のそれらを買いにいく。
戻ってからはお食事と談笑。
そのあとは時間がぽつりと空きますが、
1000円コンサートみたいなものがあれば、ふらりと入るのですがね。
まあ、陶磁大辞典を持参して動きましょう。


le 13 lundi
//人民寺院事件// おぼろげな記憶に、親がテレビを見てアメリカでとんでもない事件が起きたとつぶやいていた記憶があります。カルトの集団自殺程度の知識はありましたが、先程、調べるに世界を震撼させたテープが今に聴ける。。。。900人以上がシアン化合物で自殺した人民寺院事件。その狂気を録音していたテープがあり、最後には歌う人が誰もいなくなり、最期の荒い息のあとゴスペルの音楽だけが流れる不気味。


死に際する考えは僕にあります。
以前、日記の場でいろいろと考え、このように結論付けました。

 
死は恐怖で無く恍惚の旅たち
なぜ、こういえるかと言えば、あわや溺死の寸前で救い出された人の言に共通するは、
呼吸の困難のあとに到来する恍惚な感覚。

それで結論付けるのは小学生のようなのでいろいろと肉付けしましたよ。
①人のシステムは完成度が高く、苦痛を忘却させるスイッチがある。
②これは脳内麻薬であり、死の際に大量に分泌され恐怖はいつしか天国に登る恍惚感に。
③ところが、これは何かの消費の上に成り立つものであり、それは脳細胞の大量死との引き換えであると考える。
④ボクシングのパンチドランカー。殴られて、いつしか恍惚なのは、苦痛を忘却させるシステムが働いている、まさに脳内麻薬大量分泌の現象そのもの。
⑤でも、彼等は死なない。では彼らのその後はどうなったかと言えば、、、
⑥人のシステムは完成度が高く、パンチに対応する脳内麻薬、すなわち脳細胞の大量死は普段使用しないそれらの消費から始める。
⑦ ⑤を考えるに、使用しない脳細胞の消費の内で引退すれば良いのだが、現役続行を過度に続けたボクサーに垣間見られるのは、まさしくボケの症状。
⑧正常の人間も脳細胞は日々大量死する。
⑨しかし人のシステムは完成度が高く、普段使わない脳細胞を優先して焼却炉に入れる。
⑩正常の人も、ボクサーも、脳細胞の焼却炉入れが未使用の内なら問題ないのだが、いつしか生活圏の脳細胞に手を出した時、老人はボケ、ボクサーはアホになる。
⑪ボケない老人は、未使用域で死ぬのであり、彼が150歳生きたとしたら、その症状も現れるだろう。ボクサーはパンチの引き換えに若き頃、大量消費しているので、例えば引退したとしても日々の消費も加わり、例えば40代でアホっぽくなりボケの症状が出る。
⑫以上のシステムが作用されると考えるので、一生に一度だけある死に際しては、全ての細胞を焼却する工程が惜しげもなく行われる。恍惚の入口が見え酔いしれ後戻りする気もない光の世界に旅立つ、それは長いのか1-2分なのか、恍惚の最終上映が挙行される。そして息を引き取り死ぬのである。

⑬これは先日の日記の補完ですが、普段の生活で苦もないのに麻薬の力を借りて恍惚システムを作用させる連中にも、脳細胞の大量消費が行われていると考える。
⑭人のシステムは完成度が高く、違法なそれであっても脳細胞の焼却炉入れは未使用域から始める。薬物を全く害無きモノとして勧めるそれら悪魔の甘言は、勧める者も未使用域の住人であるので、今のところ【嘘】ではないのである。
⑮ボクシングのパンチや溺死寸前の苦さえ忘却させる、我々の恍惚システムはやはり知ってしまうと、白い粉一つで味わえるとしたら、再び手にしてしまう、そんな魅力があるのも仕方ないと思う。
⑯ここまで書くとお分かりですが、薬物常用患者はほどなく未使用域を使い果たし、アホさ加減が出てきて判断能力が欠如し始め、子供のような行動をとり始め、ボケの領域に達する。
⑰薬物常用患者が幻覚や恐怖の妄想に追われるのは、もはや恍惚システムを動かすだけの消費する脳細胞が無くなり、見えるものは聞こえるものは想像してしまうものは鮮やかな恐怖。恐怖を忘れるシステムが作用しないのは、まさしく恐怖そのものでしょう。
⑱狂乱の果てに命を絶つとしても、忘却システムが作用しないので彼の歪んだ死に顔は、その旅立ちの地獄さを物語っていると思う。検視官で無いので分かりませんが薬物乱用者の死に顔は、この理論で言うと一様に歪み苦しんだまま死後硬直し固定化されていると思う。
⑲要は脳細胞なのである。白い粉が変なキノコが変な草木がそうさせるのではなく、それらはあくまで導入剤。酒の超強力版。だって白い粉に考える力はないように、甘く思うのは僕たちの頭の中。脳細胞。

⑳このような苦痛から忘却させる素晴らしいシステムが我々には内在していますが、人間のシステムは完成度が高く、普段から作用していたら、努力を忘れ人類は進歩もなければ畑の収穫を待つこともなく飢え死にしてしまいます。普段は表立って作用しない仕組みが備わっているのです。

まさしく生命体の最後の最期の緊急脱出ボタン。
ところが、人間は何かの刺激、電気信号とかホルモンとか衝撃とか良く分かりませんが、何かでもってそれを稼働させる。
そのスイッチを薬物はいとも簡単に押してしまうのですが、簡単が故、乱打し、未使用域を食い果たしたものの末路は、やはり苦痛に歪んだ死に顔なのでしょう。

薬物が絶対ダメなのは脳内麻薬の恍惚を非常時でもなく知ってしまうからであって
その甘美なる世界は人の一生で一度か二度の上映分しかフィルムが無いのに、
もっと見たいもっと見たいと映画館から出る選択肢を奪い去ってしまう。それほどの甘さ。



le 12 dimanche
//釉薬渋滞解消日// 朝から陶芸。本日は溜まっている素焼に釉薬を。
作陶は大好きですが、好きが勢いづいて釉薬が溜まる。溜まる。

薄体厚釉。
薄く作ることはできても厚く釉薬をかけると失敗する。
そして洗い流し乾燥を待って、また掛ける。
なんとか全てに施釉しました。
たぶん出来上がりを見て憤るでしょう。

だから、また作陶に励み体で覚えるネタを作り上げねばなりません。


le 11 samedi
//非陶芸日// いやいや、なんと珍しい土曜日かな。
本日は瀬戸に行かない土曜日。
では、何をしていたかというと、実は金曜日の夜も同じですが、
日本陶磁大辞典を持ち歩き、喫茶店で読み耽る。

午前は星が丘で時を過ごし、
昼は栄へ。
日展を見たあと、14時からのコンサートが目に入る。
1000円だなんて安い。
僕が知らないだけなのか、それとも無いのか
もっと気楽に入れるコンサートがたくさんあると週末の過ごし方が豊かになると思うのです。
もちろん学芸会のレベルではない上質なものですがね。

それからも喫茶店行脚をしまして帰宅。

帰宅すると、あまり嬉しいことが無かった。


le 10 vendredi
//私の動きを止めるもの// 例えば、子供の泣き声。両親の喧嘩。それは些細なことですが僕にとって動きを止める。学生の頃、そんなのが耳に入ると全てが嫌になり布団にもぐり明日のテストなんて自暴自棄。 
自分の成績や将来なんて、もうどうでも良くなり
グレてしまったら、それが報いとして制裁として
僕が成せれるものと、そんなことまで考えていました。
結婚なんてとても考えられるものではなく、いつまでも独身の姿が
僕の心の悲しみを視覚化したものとして、つまり僕が成せれるもの。

芸になったのは、それ故なのか分かりませんが
色恋の激しいこの世界にあって、彼氏なんて一度たりともできたことがありません。
そう、僕は人を愛せないのです。
性欲のソレは被虐的な加虐的なものであって、そう、僕は人を愛することができません。
心のどこかでは、いつも近寄り過ぎる人を警戒する。
そうではいけないと、色恋を試みたとしても
やはり上手く行くと翌朝には破壊することを考える。

アホだとお思いでしょうが、今でもこの心を変えることができません。

架空の地図を書くことが好きだった。
ある世界の連綿と続く妄想は30年近く続いている。

僕が陶芸がたまらなく好きになったのは、
小さいころ、家の砂場でいつも一人で遊び時を忘れることができたように
つまり三つ子の魂100まで。ちっとも変っていないのです。

おそらく僕は陶芸が一定以上に上手くなるでしょう。
孤独を選択し、そこに忘れ得る世界を見出したのだから、僕は叫ぶ。


le 9 jeudi
//土曜日に決めた//
週末のどちらかを都市生活者に当てると考えていましたが、
僕は土曜日に決めました。

土曜日は陶磁大辞典を持参してカフェ巡り。そして日展にも顔を出そうと思うのです。
日曜日は陶芸ですが、釉薬集中日。
一度、釉薬渋滞を解消して、次に臨みたいと思うのです。


le 8 mercredi
//気が早い// 誕生日は6/23です。毎年のことですが年が明けると、もう一歳upした感覚に襲われる。つまり既に40歳。

最近、自分が後期高齢者になった時とか、死ぬ間際の、もちろん一人なのですが、そういう事を思い描く。それは悲壮感ではないのですが、いかに死ぬのかの足腰の元気なうちからの準備。
そして、誰にも見取られることのない死だとは分かっていますが、
我が人生を終える喜びを、感じながらの昇天でありたいと思うのです。

それさえ考える間もない死ではなく、自殺ではない死への道程を感じながらの旅たちは幸せだと思うし、この素晴らしき瞬間に身を任せれるのも善行の積み重ねなのかなって思ったりもします。

さて、死にあたっての考えは以前の日記にも述べましたが、大量の脳内麻薬の放出でもって幕を閉じる。死は恍惚であると思うのです
が、
生前、薬物を乱用し、生きているうちに放出を促し恍惚に浸る者には、
その折に光の死ではないと思うのです。
恍惚ではないもう一つの死。


le 7 mardi
//マダム焼// 常滑焼に信楽焼、マダム焼。
今月の26日で陶芸を始めて一年が経過します。
mixiでは、それを【マダム焼】と紹介していますが、初期の、あの厚手の作品から今に至る変遷。なんという変わりようかと、今さらながらに思うのです。

一度、変遷の歴史をまとめあげた特別頁を仕上げねばと思います。


le 6 lundi
//届いたよ!!!!//

こりゃ、普及版なる小型のサイズが出版されるのも分かる。
でも、楽しいよ。写真の艶やかさが、もう少しあればと思うのですが、
それも問題ないレベル。 

さてと、近鉄が名古屋⇔三宮の特急を企画しているそうです。
楽しみですよ。
スタイルとしては、車内で食事やアルコールを楽しみ、神戸へに行く、
慌てない移動の楽しみ。

神戸に着いても、アレコレ歩きまわるわけでもなく、
品の良いホテルに直行。


le 5 dimanche
//最近の極一部//






本日の陶芸。何か集中力に欠ける。
どうやら、極ごく初期の風邪の兆候。
早く寝ろということです。

この壺は、土曜日の作り。
昨日は抜群に調子良く、一時間程度で作り上げましたが、
アハハハハハ、頭でイメージしていた国宝・秋草文壺。下のラインが、そのそり加減が逆でした。。。。。。トホホ。
ところが、同席していた、これまた神の手をお持ちの紳士が、
一説には、秋草文壺も、このラインで作ろうとしていたのが、失敗してあのようになったと助け舟???

紳士曰く、見るときは細部まで焼きつけるようにして見るべき。
デザイン画や、写しは簡単なチョロチョロ書きでも良いが
見るときは細部まで。


あらら、違うところだらけ。。。


le 4 samedi
//2月11-12日の週末// どうやら月曜日あたりに日本陶磁大辞典(どデカ版)が届きます。
この、時間も忘れるほどに見入ってしまう大辞典を、いつどこで楽しむべきでしょうか????

自宅の机周りを綺麗にして読むのは平日の夜。
週末はどこか外に出て楽しみたいのですが、それを考えるとカフェ行脚になりそうです。
地方都市で旨い店を探す嗅覚というか眼力は、そう眼力。店の、まだ準備中の構えから十分に伝わる魅力の把握に僕は同行者を喜ばす能力を持っていますが、それは距離に比例することも申し添えておかなくてはなりません。
この大辞典を持ち歩くのは、ちょっとした運動以上になりそうなので、
ある程度の作戦は事前に寝るべきなのですが、
あの素晴らし過ぎる喫茶店は、今は雪の中。
本を読むためにあるテーブルの喫茶店は、瀬戸の町のあちらの商店街の中ほどに。

でもね、コーヒー一杯なら休日でしょ、30分。ケーキを付けたら60分。
これが僕の店に対する一つの礼儀としている規範。
だから、魅力あふれる大辞典を持つに、喫茶店を何店か行脚しなければならないのですが、
良い店は知っていても、コースとして成り立たない。


例えば、多治見とか岐阜市に限定すれば、それはそれで良いかもしれない。
名古屋にするか他の町にするか。


le 3 vendredi
//当たり前ではない、、、不況// もはや20年近い閉塞感。就職氷河期、超氷河期。上向いた年は2-3年あった程度で、超氷河期以上というか以下というか、さらなる悪化が続いています。 ところが人間には慣性があり超氷河期の大不況でも、いつのまにか、あるべき日々の姿としてとらえ、生活の質を落とし防戦し、いつしか防戦が当たり前になり、苦も忘れる。

この当たり前を、さらに削って防戦するもう一段も二段も深刻な不況が到来すると思います。
それでも職があれば生活の工夫で何とかなりますが、失った時、工夫以前に再就職活動ですが、まず島に辿り着くことはできないでしょう。皆が失業の海を泳ぎ力尽きたものは溺れる。

共産主義国家でもないので、この失業の海はシステムとしては当然ですが、
以前の日本は、ある程度泳ぎ続けれる浮輪を職のある時、労働者に与えていました。
ところが今や、貯蓄などは夢のまた夢。それなのに海に飛び込めと言われれば、筋肉がつった時、沈んでしまいます。

もはや大都会に親子が育ち、避難すべき山村の田畑もない。

願わくば、0.5段の不況を四つに分けて受け入れられる緩やかな下落であってほしい。

車を手放した国民は多い。
彼らが車を手放しても茫然自失なぞしていません。
不況が後押しする日本的カフェ文化は大都会から広まっています。
不景気は、人を薬物にも走らせますが、
丁寧な生活に転じさせることもできると思いますし、
元来手先の器用な日本国民が味のある文化を築くのかと期待もするのです。


le 2 jeudi
//別な時間の流れに心を寄せる// 週末は陶芸ばかり。この次の土日も瀬戸に行きます。
どっぷり浸っても時間が無いと嘆く陶芸の魅力。
その一方で、一向に果たされない別な時間の過ごし方に、心を寄せることしばし。

日本陶磁大辞典が届いたとしたら更級日記の源氏物語を読みふける心地。
それをお洒落な空間で浸りたいと先日の日記にも書きましたが、
先ほどから沸々と湧き上がるのは、どこかの宿で読み耽る心地。

気になる宿は多々あるものの、いざ週末に泊まりの旅行なんてしようものなら
僕は半月陶芸と距離を置いてしまうのです。これは致命的。

どうしても泊まりたいのなら、瀬戸か多治見あたりに限られてしまうし
いやはや陶芸好きが高じて、他の一切に手がつけられません。

まあ貯蓄の側面から言うと、陶芸は、苦も無く成し遂げられる黄金律なのですが。


le 1 mercredi
//毎月、一日は、、、// 恨み日記の日。

と、ふと思った自分は、やはり風変わり。
一つの心理療法として成立するのかなって。

例えば、心に傷を負っている人とか、日々、否定的な事柄が思い出される人。
そういう人に、毎月一日は思いっきり恨んだり人のせいにしたり否定的なことを思い描き書き綴る。その代わり残りの日々は一切思い浮かべない。

つまり、これが成立したとするなら、彼は年に12日しか否定的な文言を語らない、なんとも善良な人間に生まれ変わるのです。

今年40になる自分も、思うところはあります。今は年老いて円くなりましたが、離婚せずとも両親の不仲というか闘争の日々は、、、、、、もし、僕に存在していなかったら、人を愛する心が芽生えたり、孤独に逃げることが無かったり、いろいろと自己の否定的な箇所も最初から存在しなかったのだろうと、思います。
大人になると、そんな事を今更と言う方が否定されかね、この不条理を誰も理解してくれないと心の闇は小さな丸になるものの、その丸の深みはますます深くなる。

結局、今日は書きませんが、もし、ここにおもいっきり誰それ、アレコレが、、、と記したなら、僕は平穏になれるのか、それとも禁断のスイッチを押してしまうのか、実験してみたいのですが、やはり大の大人が、、、、、みっともない、です。


 
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