février.2014



le 28 vendredi
//本日をもちまして//とは、内心のこと。ちょっと自分に対して真剣になろうと思う。なかなか難しいのだけれど、もう周りのことは委ねたので任せるとして、自分自身に対して効果的で真剣で持続的に向けるべきだと決意しました。

もはや、こんな時代が来るとは思いませんでしたが、こりゃ避けられないと見て、我先にです。


le 27 jeudi
//納得するまで// 寝る前にする祈りの時間。漠然とした不安がある時、それは嘘でも杞憂でもなく実際に起こりうるだろう警告。それを時の勢いで無視すると後で痛い目に会う。不安が無くなるまで祈るとき、それは過信でも何でもなく、実際に未来の不安が消え去ったのだ。

祈りは科学。理路整然とした訴えかけでもって初めて効力も発揮する。裏と表を同時に願う祈りは、訴求性がない。この場合は須らく最善の形を委ね信じ祈る。

漠然ではありますが確かな不安信号が膨らみつつあるので、今晩は納得するまで祈りましょう。祈りとは納得。納得すると届いたことになるのです。あとは委ね信じるのみ。


le 26 mercredi
//楽しみは、// 春の楽しみは桜ではなく梅。世の中は桜に騒がしいのですが、僕は心惹かれない。確かに見事だなって思うこともありますが、梅の趣には到底敵わないのだ。

梅は趣き。これに尽きる。花弁も枝ぶりも見どころは趣き。保守的な花だと思う。
桜は、あまりに迎合していて好きにはなれない。梅は孤高に咲く感がある。

春の楽しみは、陶芸関係のイベントが少しづつ開催されるところ。
もはや今の僕にとっては、季節季節の大型旅行が年に3-4回。その他全ては作陶ですが、こんな催し物のある週末は日帰りで一日だけ見て回ることもしたりします。多治見陶器まつりと、卒展とか。


le 25 mardi
//補足// 昨日の長ったらしい日記はスラスラと頭に出てきたことを書いたものですが読み改めて何が言いたいのかというと、

僕らが今生きると言う意味は、僕に内在する多くの前世というか守護霊を人生の期間で一つに融合して昇天する。これをしないと、天上界に魂が溢れるので、人口調節ならぬ魂調節をしているのです。10人の守護霊を引きつれて産まれた僕は一つの霊として昇天する。
人生も死後の世界も永遠と続く淡々としたその繰り返しなのかと思う。

で、どんな占い師も霊能力者も前世は見えたとしても、きっと前世の前世は見ることはできないでしょう。繰り返しますが、人生は溶鉱炉。10人分の守護霊は10種の鉱物。それを溶かし一つの合金とするのですから。その繰り返しですから、前世の前世は判別できない。

でも、仮に守護霊が10人分いたとするなら、心強いじゃない。彼らの力を引き出して、さらに今に生きる経験や知恵を融合させれば怖いものなしですよ。

それに気づかない人は一人で頑張っているのでしょうが、相談してよ!!!と内なる自分は呼び続けているはずです。

僕は、いろんな僕を引き出して何を表現していこうかな。


le 24 lundi
//神が造りし給うもの//人間。
ロボットの未来を考える。その考えを突き詰めると、何故か今回も人間になってしまうのだ。
人間の代替として知能も行動も人間に近づくように開発されたロボット。だんだんと人間に置き換わり人間を便利にしていくロボット。しかし、考えるロボットの存在は人間にとって恐怖になりつつもある。征服されたらどうしようと。。。。そこで人間はロボットに寿命を持たせた。
電子回路の、配線の関節のアレコレに寿命を持たせるとなると、それは肉体がベストなのではと思う。つまりだよ、人間の造りだしたロボットの最高の形は、やはり人間なのである。鋼材で部品を作るのではなく細胞で。組織で。血と肉で。だから時が来たら朽ち果てる。その朽ち果てが新たな支配者としての存在を阻むわけでもある。しかし、こんな優れたロボットをまた一から作るのも面倒な訳だし、それは生殖で彼らで生み育てる循環を持たせると。

そういう答えに至ってしまうのだ。では、もし僕ら人間が造られたロボットだとしたら、やはり存在理由があるわけだ。それは誰かへの便宜。その誰かは何ぞやと考えるなら、ロボットを開発した人間、言い換えるなら人間を開発した神になるわけである。この考えに基づくと、開発者としての高次元の人間である神は確かに存在し、僕らを観察しているのだ。

では、僕らが神に捧げる便宜とは何であろう。それは僕らの経験や生涯の記憶だと思う。
つまり開発者は楽をするために人間を生み出したわけだ。その僕らが提供できる便宜は、仏前に供える供物でもなく、僕らの経験や生涯の記憶。

人間の高次なる姿は神だとすると、もはや意識としての存在に昇華するのだと思う。高次に高次を極めれば血も肉も滅びる細胞も必要ない。脳だけが残り、さらに削ぎ落していき、最終的には意識だけがあれば事足りる。人に楽させて、多くの機能は退化し、最後に残ってしまったのが意識。そう意識=神だとして、神は何を求めるか。

指定した先(分かりやすく言うなら降り立った先)の肉体のする数多くの人生経験をドラマのようにして楽しんでいるのだと思う。自分(神)は楽して人生を歩まないけれど、その人生のドラマは戴きますよと。ロボットに全てをまかせて楽をしてきた人間の究極の姿だと思う。
(自殺がダメなのは、まさに神の期待を裏切る行為なのである)

では、僕ら人間ロボットの終焉はどうなるであろう。肉体は滅び火葬で煙となる。そこに意味はない。僕らは生涯の記憶をどこかに運ぶのだ。そこは神の居る世界。神の居る世界に、生涯の記憶を持って、そこの新しい住人になる。

前世というか守護霊が自分に複数存在するのは、まさにこれが理由だと思う。
天上界に記憶を持って行った神となった自分は、そこに多くの存在を見るであろう。
肉体は無いけれど意識として、僕はいるし、あの人もこの人も。

一人に一人間ロボットをあてがうと、爆発的な数になってしまう。
つまりだよ。溢れかえる天上界の数をコントロールするために僕らは存在する。

天上界に数多く存在する意識としての数多の個体を、何人かを一つにして一人間ロボットに託す。そうすると、彼が肉体も果て天上界に昇天するときは、一つの魂になってカウントされる。

分かりやすく言うなら、人類の歴史の数だけ魂が天国にあったら、天国に住むべき場所もない。だから守護霊がたくさんいる人間を一つの個体として現世に送り込み、生涯を通じて沢山の守護霊は一つに融合され天上界に行く。 この繰り返しなのだ。つまり魂も、魂としての生態系を維持するために、このような輪廻転生を行って人口調節ならぬ魂調節をしていると思う。

だから僕らは死に、天国に行ったとしても、しばらくすると誰かとチームを組み、また人間を経験するのだ。

そこまで考えたうえで申すなら、僕ら一人の人間には数多くの記憶を持った複数の魂が最初からインプットされている。それを生涯通じて一つに溶かして行くのだ。
だから、心澄ませば僕らの可能性は深く大きい。一つに挫いてもきっと乗り越えられる能力が内在している。自分にある秘めた能力とは前世そのものだし、それらは複数あるのだから融合という名の活用をしなくてはならない。困難は自分の奥深さを信じることにより難なく乗り越えられる。

でも、人生の寿命が融合の完了だとしたら、この考えにいたり達観した人は、まもなく死ぬのだと思うと悲しい。では、それでも長く生きたいとするなら、融合して高めて高めて、さらに高次なる完成体として昇天するべきなのでしょう。その意思と目的を持つべきなのかと。

天上界に行き、そこの支配者というか再び人間界での融合修行を済ます必要もない存在になるためには、自分の奥深さを信じ融合して、さらに現世でいろいろと見聞を高め持てる以上に高まった存在となって昇天した者に限られると思う。

と、物凄く長く書きましたが、これですね、なんかスラスラと特に考えることなく頭に浮かぶのですよ。笑われる内容かもしれませんが、笑わずに読んでくれる人にとっては凄い内容ということで。スラスラと考えることなく書いてしまったと言うことに意味がありそうです。


le 23 dimanche
//焼き上がり楽しみ!!// 先週と今週で急須を7つ。
それぞれにデザインを変えているけれど、これがたまらなく面白い。作陶は止められません。
毎週末通っているのに、やはり時間が足りないと思ってしまう。



le 22 samedi
//旅行気分!!//本日のお昼は瀬戸の街中まで出歩きました。陶芸用品を買いたかったのでね。雛巡りの観光客も多く、この感覚!なつかしーーーーと。

//説教を! 嫌味を! 罵詈雑言を!!// 事の顛末です。そんな生き方をしていたから、こんなふうになってしまった。当然の結末。と、それみたことか!!!と罵れるのは日々真面目に生活してきた人。それは努力の報奨の意味があるのか時間制限文字制限なしに批難できる。愚か者を笑えるのは日々真面目なものの特権である!!と。

さて、世の中の構成は下位に転落した者。中間層。そして上位支配層。圧倒的大多数は中間層。彼らは真面目である。ここに上位支配層を見てみよう。彼らもまた僕らと同じで当然の結末だ!!と罵っているのでしょうか。その権利はあっても、彼らはその無意味さに関与しないのでは!?と思うのだ。多数は、そこでガス抜きをしてしまうのでいつでたっても中間層なのだ。それから抜きんでる人たちというのは、説教や嫌味、罵詈雑言なんて言わないでしょう。自身の豊かな生活になんの貢献もしないから。批難ではなく、教訓として何も言わないけれど、じっくりと観察をしていると思うのだ。

//松本// 少し前の松本の高校生がローザンヌのバレーで第一位を取ったことにかんして、僕は日本は真に豊かな国になったのだと、これが最も強烈な感想です。
地方都市在住なのに世界一。ここに日本の首都だけではない文化の深さを覚えたのでした。

だけど、やはり東京には一流と言うか第一線で頑張っている人たち、世界の第一線の舞台があって、そういう人が集まる街。一流人のコミュニティーも厚く存在するのでしょう。そこで思ったのだ。地方に生きる者にとって、もし彼らと遜色のない地位を得るとしたなら、やはりその地域の伝統工芸を極めるべきなのかと思うのです。それが収入の面で追いつくかと言えば無理もありますが、例え僻地の僻地である能登半島の先端で住んでいても輪島塗の大家だと言えるのなら、東京のパーティーでも肩身は狭くないでしょう。

都市の規模だけで見たら、東京の1/10 1/100 1/250かも知れない。そういう環境にあって勝負に出るとしたなら、やはり地方が何百年と培ってきた伝統を時間の厚みを背負って今に代表する人間になるべきだと。 

と、松本から続く文を額面だけで読むと、そんな程度ですが、言いたいのは、例え劣勢であっても劣な範囲で何を選び活かすかによって、堂々と渡り合えるものだと思うのだ。


本日のまとめ。
何を選ぶか。そして人の、悪事への批難は他人に任せる。


le 21 vendredi
//僕は天才だ!!!//先週末の陶芸ではやり残しの感もあり、やはり次はといろいろ考えてしまう。僕は天才だ!!!!!!!!!!!!!

月曜日から、僕は極めて早く寝ている。寝ている間は時間を感じない。帰宅してからすぐに寝ることを繰り返していたので、僕は人の倍のスピードといえば語弊あるかもしれませんが、驚くべき体感スピードで週末を迎えようとしている。寝ると昼間は活力で溢れるし、まったく良い事づくめ。


le 20 jeudi
//興味無いんで// 全然オリンピック見ません。紅白も見ません。見たいとも思いません。なんか時間の無駄なのよね。見たいと思うなら見るべきだけど、見るべきだからと付き合うのは時間の無駄。

そういう意味では僕は世の中の流行とかに関して昔から物凄く冷めている。価値観や行動基準が自分の美的感覚というか自分の認めた価値に基づくものですから、関心の無いスポーツとか、どうして付き合わなくてはならないの!?と。

寝不足で会社に来る人が可笑しくてたまりません。僕なんてたっぷり寝れるのに。


le 19 mercredi
//貯蓄の上級コース//さて、そろそろ増税の入口です。庶民の対策として買いだめなんてのもあるでしょうが、実際、買いだめは倹約に効果があるのか、そこは毎回疑問に思う。一つでも余分なものを買ってしまえば全ての努力は霧散してしまいそうで。

例えばガソリンだと、それは無駄ないでしょう。でも、スナック菓子だと、余分に買って、その余裕で余分に食べてしまえば、全く意味がない。


le 18 mardi
//眺めては思う//うーむ。まだまだ。どうも癖が出るもので、その癖が80点以上の世界の妨げになっているのかもしれない。良いモノを目指し上達したのに、さらに上達するためには、時として今までの経験を捨てるべきなのかもしれない。

やはり時間が足りない。平日は寝る時間がたくさんあると言うのに!!! いづれ昼食抜きなんて言う荒業も必要かと。


le 17 lundi
//思う事アレコレ//外野はうるさい。思う事アレコレ。まあ、正しいと思っているので淡々と進み、時に説明すれば良いのです。そういう絶対の信頼というか安心感があるので、この不快も一晩寝たら消えるでしょう。

//思う事アレコレ//急須のデザイン。次回はどのようなものにしようかと。と、言いつつも僕は詳細なデザインとか事前に用意はしない。良いものを見て、当日、頭に残っている記憶で仕上げる。それも固い意思があるわけでもなく、轆轤を回して、その時の赴くままが優先されるので、なかなか事前のようには仕上がらない。

しかし、パーツも多い急須。眺めれば眺めるほどそれぞれに極意があって、なかなか完成度の高いモノには仕上がりません。あと100個は造らないと、なかなか全体を語れるようにはならないと思う。


le 16 dimanche
//ラッパ// もしくは水仙のような取っ手は好きなんです。主張していて。

土日で5個の仕上がりは、いささか不満。やはり勘が鈍っている。
迷いながら作るものに完成度の高いものはない。すらすらと迷うことなく作れるためには、迷いなくなる下積みは必要。つまり、もっともっと作り、冴えを持たなくては。

陶芸の本は多々あるけれど、急須の美術本が無いのよね。眺めていて飽きないのに。

それにしても大雪には驚いた。甲府で114センチ。飯田で81センチってあり得ない。

ついでに、もう一つ。一つ考えさせられたのが人に対する不安や恐怖。
不安や恐怖がもたらす行動に、他者に対する過剰な親切や丁寧がある。それを継続して行うことにより不安や恐怖が消えるのだと思うのでしょう。しかし、社会性の観点から言うと、そんな尺度で接せられると煩雑というか、いづれ迷惑な存在になってしまう。そして、その白い目に恐怖を感じ、さらに過剰な顔色うかがい。
根本に、深い意味で人を信頼できないのでしょう。一本、大黒柱みたいな人付き合いの方法・信頼があれば、過剰な顔色うかがいなんて、そもそも必要がない。

会社で辞めていった女の子は、典型的で、人に対する信頼が無いので、毎朝、毎夕出社退社に、一人づつ挨拶をする。僕は彼女に、その振る舞いは大いに不評であると諭したものですが。。。分からないのですね。彼女が一つづつ迫って挨拶に来る。三番目は、二番目は、とうとう自分と、全員がカウントし出し仕事に集中できない。彼女に言った。そんなに気になるなら部屋の隅まで聞こえるような大きい声で一回だけ言いなさい、と。

そして彼女は挨拶しても無視される存在になってしまった。社会性が無いゆえの当然の帰結かもしれない。 

今、会社には彼女ではなく、そんな彼がいる。彼もまた、人を信頼できないので、表面だけの硬いつながりを相手方にその都度確認させる行動に出ている。それを繰り返すことが彼の平安なのでしょうが、人との付き合いに深いところを見いだせないので、これ以外の方法を知らない。

気の毒だと思います。悪い人ではない。悪徳な人でもない。でも確実に煙たがられる。
たぶん、誰よりも心優しいのに煙たがられる。そりゃ世の中が信じられなくなるでしょう。

彼らの心には、泉のような湧いて出てくる消えない不安があるのだ。どうして湧くのか、その理由は知らないけれど、希望的に言うなら、その現象は彼らだけの特別なものではない。全ての人に当てはまる。しかし、
諸々の経験で、その不安は思うに及ばずと、一つづ消して今に至る。その諸々の経験がないのだろう。例えるなら、この程度の曇り空では傘の心配はない!と言えるから、一つの不安は消え去るのに、彼らには、それさえも不安なのだろう。

初歩的な人間関係の構築に失敗しているのは確かである。きつく言えば世の中は、アナタ程度にいちいち関心も払わないのに、勝手に白い目が気になるのですら、不安の泉は湧きますわ。

言えるのなら言いたい。
信頼を祈り委ねること。それをいちいち自分で確認しないこと。神や仏・ご先祖様に祈り委ねたなら、いちいち確認するのも失礼でしょ。部屋の隅に聞こえるように一回大きな声で、おはようございます!と言うだけで良い。それを毎日続けたなら、一つの経験を済んだことになるのです。この程度では傘はいらないって。


le 15 samedi
//急須熱// この2ヶ月ほど急須から若干手を引いていたのですが、最近また復活。それはあるおじさんが、やはりアナタは急須を造らないと!と言うのですもん。まだまだ不十分ではありますが、同じ仲間内ではtopを行っていると思う急須。その熱が冷めて残念がる人がいるなんて嬉しい話ではありませんか。

確かに、何個も作っては、ココはアレと思うところを見出すのですから、完璧はまだまだ100個は造らないと。とにかくパーツが多いので時間もかかるのですが、やはり精緻な感じで仕上がると、嬉しいものなのです。


le 14 vendredi
//平日の雪は恐怖そのもの//これが週末の雪なら、その情緒的な光景を愛でるのですが、平日だと仕事との関わり合いで恐怖そのもの。先週の雪が、まだ少しだけ日陰に残っているのに、追加の雪です。

家に帰ると、おさまった雪の屋根から落ちる音で、我が家の可愛いムクちゃんが恐怖でうろたえている。それはそれで愛おしくもなるのだ。抱っこしてカワイイカワイイしてあげたよ。


le 13 jeudi
//芸術肌!?//と解釈するしかないのでは!???
僕は、世の中が浮かれるというか熱狂するワールド・カップとかオリンピックとか全然見ない。
興味がないというより、その結果を見届けるまでテレビの前で見入る行為に価値がないというか納得がいかないのです。それは時間の無駄。

そういう意味では古いタイプの男ではないのですが、反面、ある側面がそっくりない味気無い男でもある。

理想は、憧れる存在は、彼の世界に高みを見出すべく僕なんて関心が無い。一方、僕も自分の世界により深みを見出すべく、彼に構っていられない。そんな見ている方向は別の世界だけれど、年に4-5回は会える人。そう4-5回も特定の人と時間を共にする行為は、もはや立派な伴侶です。そんな価値観なので、まだ誰とも。。。。一人、惜しい別れ方をした人がいますが。。。。。。。。。。。

だから近いからといって頻繁に会うこともない。それに意味がないのだ。

寂しいからと人を求める行動に出る人が、ある意味、不思議で羨ましい。
二人だから見える世界もあるとか、二人だからより楽しい世界もあるとか、そういう感覚は生涯持たないのだろうと思う。そもそも、そんな感覚があるってことを聞くまで知らなかった。その価値観で動く人たちは多いと思う。外見的に美しい人たちも多々含まれるが、やはり無理して飛び込んでも激しい違和感だけが僕を襲う。無理して付き合って時を共有して、だからと言って僕は成長するのかって。


le 12 mercredi
//午後から春が来た//午後、体内時計というか、体は冬眠から覚めて春として対応し始めたと、そんな実感がした。新芽が伸びるのうなスクスクとした感覚。
太陽の光の角度や強さは、ある一定以上の信号で、季節を感じたりすると思う。
僕は、例えば冬至から始めて浴びた紫外線の量が本日の午後にある一定の水準を越えたのだと思う。


le 11 mardi
//アナタだったのね!!!//建国記念日だったので今日は作陶に行きました。僕は休みだから行った派で、そこには火曜日だから行く派も混在。いつもは見ない顔もあり、なんだか新鮮。
僕の急須を噂している人がいると知っていたので、敢えて本日は急須を作り、釣竿をたらす。

そうしたところ、「アナタだったのね!!!」と近づく人が二人。噂の人たちでした。
僕が来ない平日に、焼き上がった僕の作品をしげしげと眺め、感嘆の声をあげてくれた、本当はお客にしたい人たち!!!

初対面ですが話は弾み、いろいろと技術問答を交わす。

ただ、最近は急須作りの感覚が開いていることもあって、あの時のような鋭敏さはない。
凄みを維持するためには、常に作り続けなければと思うし、実際、常滑の急須作家は急須以外は造らないでしょう。

思いは泉のごとく湧く。時間が全く足りない。人との出会いより、轆轤ですもの。情熱の向かう先は。


le 10 lundi
//週末風味//一日働いたら、もうお休み!!! 浮いた気持ちも手伝って、久しぶりに飲みに出歩きました。   二軒行ったのですが、酔いが醒めると粘土何キロ換算になったのかと、僕の経済単位は粘土なのよ。石だかみたいなものね。

三連休も有難いけれど、離島の様なお休みもまた新鮮で楽しいものです。


le 9 dimanche
//壺//透かし彫りの壺を作りましたが、お粗末な出来。これは何個も作って感覚を会得しないと無理だと実感した。最近、週末の一日は、美術工芸品と言えば大げさですが手の込んだものを。残り一日は急須と日常生活の器と作り分けをしている。

聞けば大雪の土曜日にも馳せ参じた人がいると。名前を聞いて、ああ納得の面々。


le 8 samedi
//都市生活者//目覚めたら銀世界で、雪は止まず降り続く。作陶も諦め、都市生活者。
地下鉄までの3分間を無事に歩けば、あとは雪が降ろうが台風が来ようが、僕には選択肢が多い。 結局、新聞を読み、少しばかりの買い物と胃がもたれる量のコーヒーを飲んだだけ。

誰かと会うアクションを取らないので必然ではありますが、僕は本当に人と会わなくなった。
寂しがり屋さんだと、きっと気が狂うでしょうね。


le 7 vendredi
//先週に引き続き// 金曜の晩が上手く過ごせていない。
僕にある貴重な自由時間なのに、なんか二週連続でスカ。

早く寝よっっっ。


le 6 jeudi
//そこに家があった//仕事で少し遠く車を走らせたついでに、その町に住んでいた当時の知り合いの家を見に行った。と、いうのは確かめたい気持ちが手伝ったのだ。20年前は大の友人であったが、彼のするだらしない生活に付き合いきれなくなり、15年ほど前に絶縁。ですが、脳裏には、今もあの場所で、荒んだ生活をしているのだろうか!?と思うことは多々あり、悩みの種でもあった。

家も多くなり、一見、町の姿も変わったが、やはり、その角を曲がれば良いとは記憶に残っていて、その先に見える光景は確かに、ソレだった。その最奥にその人の家があったのだが、着いてみて遇ったのは、更地になっていた敷地。

接近困難の家庭の一つであり、その生い立ちの負の側面は大いに同情できるものではあるが、負の理由を持って自身の荒んだ生活を合理化している考えに付き合いきれなくなり、ふとした出来事を持って15年ほど前に絶縁。

僕が、今ごろ何しているのだろうか!?と思っていた、もう何年も前から、立ち退いていたのは、更地が、何年もの風雪に耐えていただろう趣きから伝わる。

その帰り、電柱の看板に、その町に住む別の友人の家業の看板があった。彼も同時期の友人
。その町に縁を持たなくなり15年ほどであるが、同じ生活を続けるというのは、怠惰の先にあるものではなく、地道な努力の賜物なのだと。

無常や悲しみという感情が湧くというより、その錆てもいない看板に、僕らの地道な生活の有難さと意義を感じ入るのでした。
去るべきものは、去るべくして去るのだ。
そして、残るものは、残るべくして残るのだ。


le 5 mercredi
//ぷち日//ぷち・早く寝る寝る運動。そういえば、5年ほど前に定年された人ですが、彼はいつもニコニコ笑っていました。八方、人当たりも良い。そんな彼の生活は、帰宅後、ビールを飲んだら8時台には寝るという生活。たしかに十分な睡眠をとると翌日が爽快です。

僕もそんな生活をしてていて年を迎えるのだろうか。おやすみんみん。


le 4 mardi
//怒りというより、不愉快というより//考察の外へ。それは愛の反対は無関心というマザーテレサの言葉にも通じて、ちと深刻ですが、不条理や不愉快に怒りを抱いても湧いてくるのだし、もはや上手い付き合いは考察の外に置くしかない。無関心。

じっくり考えれば未来も見えてくるのでしょうが、それに費やす時間も努力も馬鹿らしい。あとはご自由にって感じです。方や情に、激情して訴えるとしても、もう不愉快ここに極まれりで、相反する情に対しては敵対ではなく無関心。勝手にしやがれ。


le 3 lundi
// どんな世界が見えるのでしょうか!?// 歳をとるということは、一つづつ削ぎ落とし、落したところを生きた知恵で補う。そんな気もする。若さが、健康が、交遊関係が、親類縁者が、足腰が、と、一つづつ失って、その不足を生きてきた知恵で補う。最後には下の世話を誰かが見るくらい、ほぼ全てを削ぎ落しても命あるなら生きるのだし、僕は心になにをもって、老いの悲しみ空虚さを埋めていくのでしょうか。
 芸は、その先に大孤独が必然として待ち構えている。それは誰よりも理解しているつもりですが、やはり得体のしれないものでもある。 
その孤独が実に味わい深いものであると期待したい。

やはり何度も書くことですが、人は何でもって心を満たすのかで、ほぼ全てが決まると思う。それは人生の質ということです。この満たし方に大人の知恵なく幼稚なままの延長線でもって接したなら、きっと人生は間違いなく瓦解するだろう。だからといって、大なり小なり人は心を満たすことを目的として行動する。

多くの人を見ては限られた情報でアレコレ考察するのが好きだ。僕が極端に足跡も多いのはそのためだと思う。

その個性的な行動は、何か個性的な価値観が働き実際の行動につながっている。僕が、どうして毎週轆轤に熱中するかは、邪魔されたくないという価値観が後押しするのでしょう。突き詰めれば、僕は集中を快楽に思う裏返しの、その欠乏は確かにあったと思う。心を乱す雑音が物理的に入ってくる。それに心身のリズムも乱されて育ったものだから、今、轆轤で無心に集中できるのが、失った時間を取り戻すがごとく楽しいし快感なのでもあります。そして、その不足分を補った時、きっと新しい世界も見えてくるとは思います。今は、ただ無心になれる週末が楽しくて仕方がない。


le 2 dimanche
//都市生活者// 昨日は、作陶の終盤に日曜日は来ません!と宣言した。余りに疲れたので、日曜日は轆轤から離れようかと。本日は、溜まった南信州新聞を、喫茶店を渡り歩いては読み、なんとか遅読分を解消。 ただ出歩くといろいろと買い漁るので、出費の面では陶芸の何倍も。新聞読むなら家でも出来るし反省したいところですが、たぶん気分転換がしたかったのでしょうね。

これも円安の影響でしょう。美味しいコーヒー屋と言われるところのコーヒーの質が落ちている。感激するコーヒーってのを、しばらく味わっていないな。


le 1er samedi
//精魂使い果たした//陶芸である試みを頭で描いてはいたものの、どうしても計算が合わず、壺を手に取って眺めては、その神秘な作りに白旗を揚げている毎日でした。ところが計算では説明付かなくても実際にやってみると案外に出来るもので、一応、一つ造りましたが、これに精魂使い果たしてしまった。帰宅後、悪性の纏わりつく疲れが僕を襲う。

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