令和3年2月 février.2021 le 28 dimanche 日曜日 //昨日は//陶芸仲間と多治見でお話。彼らは私と同じで芸術系の専門学校や大学は出ていません。ある歳に陶芸と出会い、没頭して頭角を現す人たち。。年に何度か集まりお話をするのですが、本当に話したりない。何というのかな、在野の陶芸家みたいなもので、同志です。 さてさて、両親はますます老いる。救急車で運ばれることもありました。治っては、また入院。そういう頻度は減ることはないでしょう。自宅に工房があると、目の届く範囲だし、それはとても安心できるものです。 明日から三月。25年の職場の最終仕上げ。まだ実感は沸きませんが、いづれ二度と敷居を跨げなくなる日が来る。それは僕が大学を卒業する頃の感覚に似ている。本当に、そんな日は来るのだろうかと直前まで疑心暗鬼でいる日々。残された日々を大切に。全てに愛をもって接し、私は去ります。 le 27 samedi 土曜日 //陶芸10周年記念日// 1996年3月、大学を卒業し、翌、4月から今の職場に就職しました。もう、25年も前のことです。そして、毎年訪れる二月の最終土曜日は私の陶芸記念日。愛知県陶磁美術館の陶芸館に一人訪ねて以来、すっかりその魅力に憑りつかれて今に至る。これは、今から10年前の出来事です。そう、本日は陶芸10周年記念日なのです!!! 良い機会になりました。先日、職を辞す届を出しました。 現在、名古屋の自宅には陶芸一式を揃えた小さな作業場があります。私は、これを名古屋一号窯と呼んでいるのですが、いささか手狭に感じることも。よって、別に工房を構える決断をいたしました。完成までに二年を考えています。10年の陶芸の総仕上げとして2年の月日を充てます。この間、集中的に学び技量を深め視野も広くして、いづれ始まる第二工房での糧とします。(※名古屋一号窯はそのまま。名古屋と某所の二重生活です) コロナ禍の厳しい環境において、私の決断は、聞く者の目を白黒させるだけ。一様に驚くばかり。 それは承知のことですが、この厳しい状況だからこそ、仕込みの期間には最適だと考えています。何れ人類の叡智はコロナ禍を克服するでしょう。私は舵を切りました。 25年の生活も振り返ると、あっという間です。ともすれば私の選択は、塗炭の苦しみなのかもしれません。それでも、振り返ってみれば、あっという間のはずです。何事も終わってしまえば一瞬のこと。それなら最も厳しい道を選ぼうかと。それが最も好きな道なのですから。 陶芸10周年記念日に思いの丈を綴りました。 さあ、ここからは没頭、没頭。土から美と価値を産み出せるよう、専念致します。 味わい深い人生となりますように、二年後の寄港地に向けて、急速潜航!!!!!! le 26 vendredi 金曜日 //怒涛の一週間が終わる//今週は月曜日から波乱万丈な一週間でした。何かと忙しい毎日でしたが、金曜日の帰宅途中に瀬戸窯業高校専攻科の卒業展が愛知県芸術文化センターで開催していたので見に行く。力作ぞろいで心躍りました。 そろそろ自宅陶芸も本格再開しましょう!! le 25 jeudi 木曜日 /このドラマに酔うな!!!!!!!//そういう注目は一時のこと。例えドラマチックな展開でも一時のこと。皆、自分の生活があり興味の主体は、関心の向く先は、その人の人生そのもの。私であるはずがない。 そんな当り前なことなのに、一時の注目が、さも永続的に流れるだろうと夢想するのは愚かな限り。 四月から、その先のことは知る由もない。知ったところで手助けもできないし褒めることもできない。もちろん、頼られることもない。ない、ない、ない。一切ない。 私の見る、これまでの光景は視野にない。彼らもまたしかり。 私は考える。これからのことを。今何をなすべきかを。 le 24 mercredi 水曜日 //形よりも色//やはり釉薬の研究開発に重きを置くべきだと思う。他に類のない風合いのオリジナルの釉薬。これを5-6色は開発するべきである。私は何かとメモをしないのですが、これからは時間の無駄は厳禁。成功も失敗も記して記す。 ただ、二年間は研究と実験の集中期間。 没頭しますよ、没頭。 le 23 mardi 火曜日 //朝から//久しぶりに作陶。家を出たのは、公園の池の周りを肩ほぐしウォーキングしただけ。一週2200歩になります。これは毎日実施しようと思います。 いや、久しぶり過ぎてなかなか本調子とはならず。とにかく、これからコツコツと仕上げて、次なる実験を。 さて、明日は仕事です。ここ数日、話題の中心になるのかもしれませんが、そんなのはごく一瞬のことで、皆それぞれが、それぞれの方向に向く。私のことなど、いづれ、すっかり忘れて話題にも上らないでしょう。それで当然だと思う。後日、振り返り想像するは、それは今後の私にとって全く意味がない。 ましてや、私が思う光景でもないはず。私のことなど「無い」日常があるのだから。 le 22 lundi 月曜日 //2月22日//後日の記念日になりそうです。これも含めて週末にご報告いたしますが、味わい深い人生の第一歩として、どうしても越えなければならない関所。 その味わい深さですが、お気楽との引き換えです。慣れたリズムで一日が一週間が淡々と終わるのではない。とにかく、これから二年間は移行期として、それ以降は本格稼働として、私が50になる時は肩書も変わりますように。 le 21 dimanche 日曜日 //すっきり//本日が山だと思いましたが、昨日が山でして、一切のアレコレは昨日の内に済ませる。今日は、何する人ぞ、という心境。家にいても仕方ないので、東濃瀬戸方面をドライブしました。 理由は理由はと質問攻めに会いそうですが、別に一つだけで動くのではありません。実に多くの思いが層となって、そういう昔の強烈な記憶が、今の判断材料にはなっています。不思議なものです。すっかり忘れているのに、いざ、この段階になると、それらはかなり重要な判断材料になるのですから。 もちろん、大人ですから、そんな昔のことは言いません。 いつかの日記に書いたものです。人生とは皮肉だと。そういう昔の断層が今に動くのですから、人というのは、平素から愛をもって接するべきだと。 大人というものは表面を作ろう。平然とする。平然とさせる。ただ、心の奥底に断層を刻むようなことをしたなら、それは侮蔑の対価として、地震に怯えよ。 私は動く。価値観が違う。別の道を歩む。 le 20 samedi 土曜日 //日曜を待たずして//本日も休みですからね、全員揃ったというわけで日曜を待たずして。話は決まりました。それを嘘っぽいとか大袈裟とか、月曜日、聴くものには信じられないでしょう。まあ、それだけが原因ではありません。あくまで、きっかけに過ぎず、ここに至るまで様々な思いや諸々の要因が迫りきて。。。 ただ、何かしらの形に落ち着かせなければなりません。その形が決まりました。新しい何かをするということは現在を捨てる。それは名残惜しいこともありますし、皆が皆、100点ではないのですが、決まったことには従うつもりでいましたので、私は動く。 本来なら、明日、何かしら決まって、決まった内容が、ある方向であったら、私は硯を取り出し墨を擦るつもりでしたが、それも本日の夕方に済ませました。筆を執りました。白い封書は月曜の朝に取り出します。 とてもとても大きく変わる春です。それは2/27(土)が陶芸10周年記念日なので、そこで、まとめてご報告いたします。 le 19 vendredi 金曜日 //これより//帰宅して、状況がガラリと変わる。ここ最近のモヤモヤは良し悪しは別として見通せることになりました。この春はかなり変わると思いますが、詳細は、2/27(土)の陶芸10周年記念日にまとめてご報告。まだまだ、詰めなくてはならないことが多くあります。日曜日に改まった席で。 le 18 jeudi 木曜日 //休みじゃない休み//たまの平日休み。頭抱えることがなければ、南に北に東に西に、どこかに行っていたのでしょうが。。。。。 究極的には、今どうこうの言える環境ではありません。果報は寝て待てとも言いますが、なかなか寝つきも悪く。。 召集令状をかけました。週末に色々と集まります。喧々諤々なのか満場一致なのか多数決なのか。もう、さっぱりですが、どうなっても決まったことには従うつもりです。 願うのは、春にお地蔵さまに厨子に手を合わせに行くことができますように。 le 17 mercredi 水曜日 //待てど暮らせど//もはや自分ではどうすることもできないのでソワソワするのですが、極近しい人には、この間のことなど色々とお話していますが、どんなに話したところで、答えが見出せるわけでもなく、ただただお話に付き合ってもらっています。 明日は有休を取得します。 le 16 mardi 火曜日 //爆弾の謎//冬の爆弾低気圧の謎が解けました。暖気と寒気の差が大きいと爆発的に成長するとのこと。今の今まで不思議でした。台風の強さと海水温の関係は小学校の頃から知っていたのに。 ソワソワするし落ち着かないし。でも、どうしようもないし。お釈迦様は言いました。過去や未来のことで思い煩うなと。今を一生懸命生きれば良いのだと。 le 15 lundi 月曜日 //疲れているはずなのに//朝の四時台からバタバタして疲労困憊のはずなのに、何でしょうか、この妙な頭の冴えというか。疲れ感じられないので、ちょっと気持ち悪い。このバランスの狂いは金縛りの前兆ですよ。 le 14 dimanche 日曜日 //買い替え回避//windows10を軽くする方法をyoutubeで発見し、その通りに実施したら、以前あった画面の無数ドット攻撃も無くなり快適そのもの。無駄なデータが多過ぎたようです。これで当分は現行pcのままで。 今日は午後から家の前の公園を一周歩きました。池を囲むように1kmあります。常に肩を動かしながら可動域を広げるウォーキング。軽くなります。こりゃ日課にせねば。それにしても二月の陽気ではない。三月の終わりかな。 さてさて、10年経過しても余震で6強。昨晩、我が家の緊急放送が鳴りました。NHKラジオが自動で受信されます。あの不気味なチャイムのあとに、特別に甚大な被害時に鳴る三種の警報音の一つが聞こえ、これは非常事態だと。ちなみに、戦前からのランク分けで、一番が国家非常事態。宣戦布告時とか。次は天皇陛下崩御時。そして甚大な大災害のお知らせ。 一分くらいしてから、長く緩い揺れを感じたので、これは遠方の大地震と一致する。 地震のお話はこれまでとして、10年です。それは私が陶芸を始めてからの時の長さと一致する。 10年。無我夢中で走り続けて10年。そして、これからも。 生きることは味わい深くて楽しいことだ。折々に心満たされて。 不思議だ、実に不思議だ。全く何の躊躇もない。心底より納得いく確信。未来のことなのに、動じる気配もない。蛹が満を持して抜けていくような、その時が来たと。怒りも悲しみも未練も、何にもない。ただ、その時が来たと。特別に笑うこともなければ、自慢することでもないけれど。 さあ、明日は月曜日、一週間の始まりです。 le 13 samedi 土曜日 //芸術サロン//もっともっと陶芸の腕が上がり、一人前と認められ、そういう仲間と共に陶芸のことや美のこと芸術のことを語り合いたいと思うのは、ブルジョワ趣味でしょうか。 コロナ禍が去り、皆が気兼ねなく集えるようになったら、陶芸仲間と焼き鳥サロンでも良いです、語りに語りたい。 今日は暖かい一日でした。二月は月初から暖かいです。最も寒さ厳しい頃なのに。 洗車しようと思いましたが、間もなく降る雨は黄砂を含むのか春のカスミは砂埃を含むのか。汚れることは確実なので日延べです。 さてさて、芸です。 この日記を書いてから10/10で二十年。今から20年前は年老いた時のことなど全く考えていませんでした。あと2年したら50歳になります。流石に全く考えないお気楽さは、イタリア人にでもならない限り難しいでしょう。今は、旅だ食事だ買い物だとsnsで見るのですが、老いを視野に生活の知恵など、そういう発信の方がありがたくなってくると思うのです。。。。 老いて格好の良い生き方、素敵な生き方、賞賛される生き方ってのを、老いる前に考えるべきだと、そういう考えには到達できました!!! 大都会で老いを過ごす考えには至りません。街なら地方都市、それか田舎。 では、足腰がままならなくなり買い物にも行けなくなったら、どうするのか!!!!というと、そこの考えは定まりません。その時が死期だと諦観するのでしょうか。それか田舎に皆を集めて共同生活して、老いの新陳代謝で入る者もいれば他界する者もいる、そういう芸のコミュニティー、もしくは陶芸家のコミュニティーを作っていたりして。 ただ芸なので、孤独で死ぬのは確実ですが、それは大都会の狭い空間であってほしくない。それだけは強く思うのです。理想は、山菜を取りに山に入って、人知れずコロリと死ぬ。死ぬ間際に土の香りをかぎながら昇天する。これは同じ孤独死でも最上級ですぞよ。 le 12 vendredi 金曜日 //たった一日なのに//疲れとは労働の積算ではなく、張り詰めた感が解けたとき、それが一日の労働でも堰を切ったように訪れる。 100歳だっけ、90歳だっけ、人は歳を取ると、とても幸せを感じるそうです。前述の年齢に到達すると、それはもう毎日が幸せに満ち満ちる感覚だそうです。 それは年老いて全てを達観した仙者の気持ちなのか、それとも生命の残りを感じてから思う全てのものに対する愛おしさなのか。どちらでしょう。 例えば定年間際の人に、今の心を聞くと、会社の全てが愛おしいというのなら、前述の問いは答えは後者になります。 le 11 jeudi 木曜日 //これが幸せというものよ!!!//幸いなことに、瀬戸も多治見もコミュニテーFMは通常番組。朝も昼も地元の情報を詳しく。これを地元民のように聞く心地は、本当に贅沢。残念なのは、飯田と諏訪の同様な放送局は、祝日はほとんど地元の放送をしない。もちろん週末も同じ、困ったものです。 幸せの一つの形は、岐阜ラジオでも良いのですが、ローカルなラジオ放送に耳を傾け、轆轤を回すこと。そして、ふと、窓を見ると青空であったり、しとしと冷たい雨かもしれませんが、きっと僕には、とても幸せなひと時として心に映るのでしょう。 le 10 mercredi 水曜日 //お礼参り//明日が休みって良いですね。 いつの日か願いが叶ったら、私は二か所お礼参りをするところがある。それはともに南信州で、一つは南信州新聞で読んだあるお地蔵様の記述。 ある親思いの青年が孝行の末、一人老いていくものの、死ぬまで村人のために生き、日々感謝の言葉を述べていたとのこと。彼の遺徳をしのび建立したお地蔵さまは、それから願い事が良く叶うと評判になる。 このお地蔵さまには、あれから3-4回お参りしています。 もう一つは、天龍村で中井侍集落を望むところに、慰霊碑なる新しい石が置いてあるところ。 それは不逞外国人とかが価値があると思いお地蔵様を盗んでは売り飛ばす輩の仕業。既に被害があったのか、予防措置なのか知りませんが、山村の多くに、ただ慰霊碑と刻んだだけの新しい石が置かれています。あれを見たときは心を痛めました。 この場所には慰めるべき理由があるのに!!!!と思ったからです。 それから一さな厨子を作りまして、あの無機質な慰霊碑の後ろに、そっとお祀りしたのです。あれは私のしたことです。 それから、こちらも4-5回ほど訪ねては線香を一本手向け手を合わす。そして、自分の願い事もついつい。 それは春の穏やかな頃かもしれません。新緑が美しい週末かもしれません。 願いが叶ったことのお礼を申し上げる時、人生の不思議を想い心に熱い思いがこみ上げてくるのでしょう。 昨日の日記の続きみたいなものですが、全ては不思議な御縁で結ばれており、それは完全な調和で一つの思いとなって、私は進む。 le 9 mardi 火曜日 //不思議な御縁を大切に//それは自分の中にいる前世を垣間見た瞬間でした。そう思うのは今になってのことです。 小学校の3-4年生の頃でしょう。池の向こうは天白区。そこは造成していて、石ころ一つない純白の粘土がむき出しになっていました。今でも強烈に覚えているのが、 「(焼き物として)なんて素晴らしい粘土なんだ!!!!!!」と見入って離れがたい思いが心に湧いたのです。 それは何の脈略もなく僕を襲いかなり不思議な記憶として焼き付いていましたが、あの垂涎する気持ちは、陶芸を始めて気が付いたのです。前世だと。 どうして私が、この父母から生まれ、この地で成長したのかも、これまた不思議ですが、思うに、この赤ちゃんは、これから紆余曲折はあるものの陶芸家として生きるという位置づけで世に降りる。この時、この赤ちゃんに思いを託そうと、魂となっている昔の陶芸家も私という赤ちゃんに乗ってくれただろうし、実に不思議なことを宣わる祈祷師みたいな感覚も、これまた聖職を勤めた魂の個性だと思う。 そして、もう一つ確信するのが、東日本大震災で亡くなられた陶芸家の魂も寄り添っていると、とても強く思うのです。初めて陶芸をしてから一週間後に大震災。しかし私は途切れることなく陶芸を続ける。そして未経験の私が、なんの教えもなく勝手に手が動き誰もが驚く成長ぶりも、この不思議な御縁を無しにしては説明できません。 何度も書きますが、有難いことに、勝手に手が動きます。構想は泉のごとく湧いてきます。悩むことがありません。まるで、以前の続きをしているような感覚です。 産まれたときに託してくれた多くの魂と、人生の途中から寄り添ってくれる魂、そして父母から始まる肉体の系譜とでも言いましょうかご先祖様からの思いは、私の中で完全に調和して、私の人生で太く大きく立派に一つの魂として融合しているのだと。そう、生きるとは、まさにこの作業なのだと。私の中の多くの魂と完全に調和して一つに高める作業。 突き詰めると、私は私に気が付いて私を大切にしなくてはならない。そして大切に扱われる私が人に優しい存在となるように。この道順なのだと。 le 8 lundi 月曜日 //今週は//あっという間に終わるのでしょう。木曜日がお休みですからね。建国記念日。 そして二月は23日が天皇誕生日で、二月は28日でおしまい。あっという間です。 そう、過ぎてしまえばあっという間なのでしょうが、それにしても二月は早く終わると思います。 le 7 dimanche 日曜日 //心にしみる曇天です//冬の終わりは雨も多くなる。三寒四温の変わり目は雨。 曇天の日曜日。今日も出歩くことなく静かに過ごす14時前。 早めにお風呂に入るとします。こういう時間も好きです。 さて、私は只今、48歳ですが二年後は50歳です。当たり前ですが、この50歳という節目が重く迫りつつある。それは、【私の人生なんだったの!??】と考えることであり、仮に不足があるのなら、今、軌道修正をしないと、もう手遅れではなかろうかと。と、大袈裟に書いていますが嘘ではありません。 //ここにご紹介は①//初めて陶芸をした時の日記。2011年2月26日(土) le 26 samedi //では、また明日!!// あははははは。 本日、愛知県陶磁資料館に行ってまいりました。ハマりましたよ。 実に楽しいひと時。4時間も熱中。 ただ、熱中したとしても、僕は完成を急ぎ過ぎてその稚拙な出来栄えに あとで苦笑する始末。。。 もっと丁寧に、一つづつ丁寧に段階を踏まえて。 先を急ぎ過ぎる悪い癖、集中力のなさ。 座禅ではありませんが、陶芸で鍛えなおそうと思うので、明日もまた参戦です。 僕は週末のほとんどを一人で過ごします。 誰かと会うなんてのは、とても珍しいこと。 こういう孤独愛好者にとって、陶芸って、またとない楽しみであります。 //その、次の日の日記//2011年2月27日(日) le 27 dimanche //火がつきました// 本日も四時間、陶磁資料館に行ったわけですが、 集中力のない僕が四時間をあっという間に感じてしまうのは、 たぶん、どうにもならない原始的なレベルで、粘土コネコネが好きなのでしょう。 あああああああああ。 次の週末が待ち遠しい。2-4-6時間と作陶室にいることができますが、 次回は最初から6時間の料金を払いましょう。 昨日が初回で、だから本日が二回目。 今日は、上手そうな人がどのようにして作り上げているのか、 技を目で盗め!!ではありませんが、チラチラと参考にさせていただきました。 年間週末の9割以上を一人で過ごす自分としては、 一人で皆が黙々と熱中している空間って好きなのです。 それが苦手な分野でもなく、粘土コネコネですからね。 作るって不思議ですね。 この後、陶磁資料館の本館で諸々の展示を見たのですが、 今までの見方とは全く視点が違う。 もし腕があるのなら、これに挑戦したいって。 月曜からは、何に挑戦しようかと、あれこれ思案することでしょう。 //さらに次の日//2011年2月28日(月) le 28 lundi //ど瀬戸// ブランデーを飲みながら、下手なデッサンで壺の絵を描き、 思い浮かべるのは、瀬戸に特化した地方都市で過ごす週末。 土曜の朝、家を出て陶磁資料館で6時間作陶した後に、深川神社近くのホテル(地の利抜群。お値段いささか高め)に陣取り、仮眠を楽しんだのちに市内を徘徊。酔いどころの目星を付ける。夜は夜で、当たりかハズレかどっちに転ぶかお楽しみ。 歳をとりまして、例えば僕らは高齢者マンションや有料老人ホームに救いを求める人も多いでしょう。 正直言いまして、瀬戸という町は、特に旧市街ですが、老いてから始める新しい人生にふさわしい舞台だと思ってもいます。 町のコンパクトさ、地の利の良さ、自然、文化、趣き。。。 旧市街の小さくても良いので古い家を買いまして、 火鉢などを楽しみ、生活を楽しめれたらと。 働いてから15年ほど経過すると思うのですが、 過ぎてしまえば何事もあっという間。 定年なんてあっという間にやってくるし、足腰の自由が利かなくなるなんてのも あっという間にやってきます。 どういうシーンで息を引き取るのか見当もつきませんが、 それでも、あっというまに過ぎてしまった日々だと、 これは今から確信をもって言えるのです。 そう、過ぎるというのは許すとか忘れるとか受け入れる。 心にサラサラ、さらりとしているから、過ぎてしまった日々は私に優しい。 �⇧ 特に28日の日記は今と内容が変わっていません。ただ、働いてから25年が経とうとしているだけです。 粘土の塊から、美や価値を生み出す。陶芸の醍醐味はこれに尽きると思う。 le 6 samedi 土曜日 //素敵な青空//冬の空は完璧な快晴に限る。 コロナ禍で行動も制約されると、こんな日でも家にいます。 どうでしょう。陶芸も始める前の、こんな土曜日は間違いなく遠出していたはず。その欲求は全く消え失せてはいませんが、今では、どう折り合いをつけていこうかと。 季節季節に素晴しい光景があり、それは一年でこの時期だけのもの。あと何年生きるのかは定かではありませんが、80-90にその様な行動力も期待できないと考えるなら、実は、そんなに多く機会があるわけでもない。 こけからは陶芸と同じく、季節季節の美しさを大切に堪能して日々を過ごしていきたいと思います。 le 5 vendredi 金曜日 //挨拶できない人の言い訳//①聞こえなかった ②言ったけれど声が小さかった どうでも良いのです。そういう人は、これに関する事例は数多とある。つまり嘘だと。どこから見ても、挨拶できない人であると、周囲の人は証言する。 問題は、こんな不愉快といつまで付き合うのかということ。思うに、これが理由で決断した人も多いと思うのだけれど、そんなことは決して言わないので、当の本人は侮蔑された人の気持ちが山となっているなんて、全く気が付いていないのでしょう。 le 4 jeudi 木曜日 //足ふらふら//我が父上とムクちゃん。共に老いてのこと。特に父上は二足歩行なので、転倒して当たり所が悪いと大事になってしまいます。生物として、生殖の機能が喪失した時と、自立して歩けれなくなった時、そして歯が全て抜けたときは、老いは老いでも重要な節目を超えたと思うのです。 足ふらふら。気になります。良くあることなので。 le 3 mercredi 水曜日 //今、//時間があると、昔の日記を読み返している。まもなく20年を迎える日記ですが、後半10年は陶芸のことばかり。10年間、全く情熱が衰えることなく今に至るのは、生涯の付き合いになるのでしょう。 では、コレをいつまで続けるのかというと、おそらく息絶えるまで。 今後、自分との対話の場としてますます重要になってくるのかと思う。 le 2 mardi 火曜日 //節分//昔、会社に節分に産まれたので【節子】と名付けられた女性がいた。 それにしても早い。今月末になったら、一年も1/6を消化したと驚いているはず。 まるで少女の夢見心地ですが、例えばイタリア人としてアルプスの近くに住んでいたら、どんな時間軸なのだろうかと。全く違う人生の物語は、別にイタリア人に輪廻転生を願わなくても、今の軸足を改めたとき、全てが新鮮で不思議で刺激的で、また慣れの来ない環境で気疲れしたりとか、収入が大きく変動したりとか、全てがドラマです。 私は保守的な人間で、出来ることなら、その様な変化を望まない。また一から人間関係を築いたり、トイレの位置を調べたりとか、面倒の極み。だから、私の物語は私なりに続くのですが、その刺激が好きな人にとっては、飽きたら飽きたで次なのでしょうね。 le 1er lundi 月曜日 //心の情緒にmona-FM//思うに、私は流行には無頓着。自分にとって心が充足されうるものなのかと物事を見る。 小学校の4年生ごろでしょうか。土曜日、早く帰る下校時、さらに早く帰ろうとしていた。それはNHKの正午前の天気予報を流す5秒程度の画面と音楽に情緒を覚えたからです。 こんな感じで育っていました。 さて、表題のmonma-FMはフランスのFM局。これをネットで聞いているのですが、15年以上は確実に聞いている。ここに私の情緒が宿っているのですが分析すると、知っている曲が流れる時に、気に入った曲が流れる時に、特にそれを覚えるのです。選曲の幅も広大無辺でなく確率も高い。長く聞けば聞くほど、さらに高くなる。 いつか落ち着いたら、mona-FMを聞いて南信州をこれでもかとドライブしたい。 |
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