令和3年1月 janvier.2021 le 31 dimanche 日曜日 //明日から二月//結局、充電枠は半分近く残すことになりました。緊急事態宣言が解除されないと遠出は無理だし、来月も余すのでしょうか。 //美しいとは//手に取って、触って、見て、その印象を少しでも長く我がものにしておきたいという心。 例えばガラス越しの名碗は触れなくても、その場を去りたくない気持ちで見入っていたとするなら、既に対象物に美を感じているのでしょう。 ただ注意すべきは物珍しいから見入ることとの違い。確かに物珍しく見入る場合も、展示物の前に立ち止まっているかもしれない。しかし、心の奥底に、実現の有無は別として、それを我が物にしたい・より身近に感じていたいという気持ちが芽生えるか否かである。仮に芽生えていたとすれば、その物珍しい構造物に美を感じているのでり、もはや観察から賞翫に昇華しているのではなかろうか。明治期の超絶技巧も、少しでも長く見ていたいという気持ちが湧くなら、技巧の手わざに技術を超えた美を感じているのだろう。 例え自分の作品でも、この作品は良い出来だと、長く手にして、しげしげと眺める場合は、美が内包されており、見向きもしない失敗作とは対照的である。その差は第三者に明瞭に説明はできない心の琴線に依拠する領域も多いのだろうが、人が長く手にして見入っていたり、その場を離れない場合は、相当な確率で美が存在しているのだと考えれば良い。 よって、美は何かというと百人百様であり、具体的には答えられないが、人が、少しでも長く・より身近に・できれば所有したいとの思いで見入っていたとするなら、それが目の前にある、美とは何かという一つの答えなのである。 因みに百人百様の一つである私の考えは、主として伝統的な、もしくは伝統的な風合いのある造形になります。新奇な対象物は、例え何かが整っていても、心に馴染ませるのに時間がかかり、美ではない。すっと染み込むように違和感なく受け入れなれる造形物は、やはり伝統的な要素のある、伝統的な表現と親和性のある構造物になります。主として美しいと思うものは、瞬時にして感嘆し見入ってしまいます。 私には、それらは伝統的なものと親和性のある表現になります。 le 30 samedi 土曜日 //一か月後//二月の最終土曜日は、陶芸記念日。2/27になります。なんと!なんと! 10周年。 10年の集大成みたいな、何か大きな報告でもできれば良いのですが、窯焚きの目途はちっともたっていません。 長いこと日記を書いていると、陶芸に出会う前に、瀬戸に赴き器を見ては、なんて素敵な街だろうと感想を述べている日も2-3回あります。その頃は、そのあとの自分の有り様なんて全く想定外でした。 le 29 vendredi 金曜日 //月曜日は二月//つい、この前、仕事始めだと思っていたのに。 この間、仕事は忙しいものの週末は家に籠る。相変わらず充電枠は残ったままだし。 今日は雪が舞い寒い日でしたが、日の強さが以前にも増して、どこかに春を感じる寒波です。 le 28 jeudi 木曜日 //計算してみた//今度の三月末で大学を卒業して25年。つまり、次の四月一日に就職してから25年。人生100年とすると1/4が労働者であったのですね。 昔、定年する人には同じ質問をしていました。そして必ず同じ答えが返ってきた。 「定年まであっという間だった」 これを聞いたときは実に不思議に思ったものですが、まあ、この25年を振り返っても同じことが言えます。過ぎてしまえば、あっという間。たぶん、死ぬ間際でも同じ感覚なのでしょう。過ぎてしまえばあっという間。 そう考えると、今、一生懸命生きなくてどうする!!!!ってことでしょう。 有意義なところに身を置いて、一生懸命生きる。不本意なところではなくて意とするところ。それが最も険しい道かもしれませんが、先人は言います。 「過ぎてしまえばあっという間だった」 le 27 mercredi 水曜日 //行きたいところ色々//緊急事態宣言も出されて遠出はもちろん外出も抑制。そうなると、行きたいところもいろいろと頭に浮かぶ。今月の充電枠10分×20回はまだ5-6回しか使っていません。 コロナの陽性者は、外出規制の有無で増減傾向がはっきりしています。規制掛ければ少なくなるし、解除すれば増えるし。特に狭い空間の飲食やカラオケでは、簡単に感染するのも認知されつつあると思う。この狭い空間の規制は続けるとしても、全般的な外出制限は、例えば月の最終週は全国一律に徹底して守り、あとは解除するの繰り返しの方が、陽性者は少ない数値で安定するのかもって考えます。 le 26 mercredi 火曜日 //美術家の前に思想家である//某芸大生が、仲間を集めてpodcastを配信。あの若さにして、ゲストをお招きして取り組んでいる芸術に関する配信。 完成品を見るのではなく、作り手のお話を伺うのは、完成品に至るまでの考えを知る手段。美に対する思想みたいなものが、20代前半でも皆饒舌に語る。 確かに、作る者にとっては、それを美しいものとして世に出したいのであるから、考えたうえで手が動く。何をもって美しいかと答えることができるのだから、作り手は皆、その前に思想家。 le 25 mardi 月曜日 //ひねくれる素地//生い立ちに不幸なところがあって、それが折々に湧き上がる。例えば、全く別な局面で何かに躓いたとき、その問題を分析して再起に繋げるのではなく、生い立ちの不幸を再生し、再起に値しない人間であると、このお話、ここまで!!!と止まってしまう人。 仮に、もし、このようなことが起きた場合、それは大小あったとしても人生の分かれ道なのでしょう。立ちはだかる壁に生い立ちの不幸を述べて、越えないことを正当化した場合の、損失ってのは、小さくても癖にしてしまうと巨大な負の化け物になってしまう。 もし、大人になっても、そのような状況に置かれたら、今回だけ挑戦してみるという選択肢は、今後の人生の質の上で実に大切なことだと思う。どこかで自分の意志で扉を開いて、その世界に納得しないと、この世に生まれてきた事実さえ恨みの対象になってしまうのではなかろうか。 壁を超えることの恐怖は、不幸な生い立ちを払いのける最初の壁なのかと思う。今、自分を大切にしなくてどうする!? le 24 dimanche 日曜日 //何もしない日、二日目//今は風邪をひかないことが最優先で、これを徹底することはコロナ封じにもなると考えています。体の抵抗力を下げてはならない。ですから、今しばらくは作陶は控えようと考えています。 何もしない休日が二日。長いものでしたが、やはり終わる。明日から5日、仕事です。 //不景気に強い陶芸とは!??// 不景気に強い陶芸とは、焼き物の仕上がりを何かに絞らない事だと考える。平時においては売れ筋のみを作れば利益も最大化するだろうが、平時から、これと並行して他の器を作れる技術の習得や維持は必須でしょう。 ある作家が一時売れたとしても、それは何れ食傷気味になる可能性もあれば、他の作家が脚光を浴びる場合も考えられる。何れ飽きられるところに、不景気は、その刻限を前倒しする。 ところが雑なものを手広くしても、それは安かろう悪かろうで利益の幅は広くなければ、作業もろもろと煩雑にもなる。一点に集中しても脆いし、手広くしても芳しくない。この矛盾を解決したところに不景気に強い陶芸があると考える。 肝要なのは平時から売れ筋とは違う器の開発を、その進捗具合も合せてSNS等で世に発信し、この物語性から人を引き込み、作者名が検索してもらえれる存在に高める演出は大事になるでしょう。 コロナ禍は当分続くであろうし、それは従前の触覚と対話という販売に至るまでの店先での時間を失うことである。触って確かめることもせず購買に至らせるのは、他に器が多く並ぶネットの世界では、酷な環境でもある。触りもせず、多くいる作家の中から選んでもらうには、作家自身を検索の対象に持上げるべきであり、それには作家から醸し出される物語性が有効であると考える。そして、この物語りは平素から打ち込んでいる新しい思考錯誤の、時に赤裸々な様であっても良いと考える。失敗や泥臭く汗臭いエピソードのは、千差万別ある器よりも人に印象的で、これを乗り越えて売られる新しい商品は、もはや祝儀に近いものとして購入の対象になるのではなかろうか。 以上のように論ずるならば、平時から新規なる作品作りは重要であり、コロナ禍の状況を鑑みれば、並行してSNS等で発信し、まずは「読者」を広げることが、購入者の拡大になると考えます。 作家個人でも企業体でも良いが、平素の努力そのものを広告とする。これが肝要かと考えます。 le 23 samedi 土曜日 //あと5か月後//49歳です。 祖母が亡くなり時間軸が変わった。いつまでも、同じ枠組みはあり得ない。どんなに変化を拒んでも安定に徹しても変わっていく。 大いに頑張って、一つの物語を味わい深く閉じ、そして新しい扉を開き、心に人生の充足を覚える。 腹の底から動かぬ思いというのか確信です。そうあるべきなのだと。 何を言われても結構だ。いや何も言ってくれないかもしれない。ただただあるべきは、心に充足を魂に味わいを。それは自然で道理なのだ。50を前に思うのは、私は確かに生まれてきた。そして歳を経て死ぬ。それに味わいはあるのかと。我が魂を慰めているのかと。 心の底から湧く叫びみたいなものを聴くのであれば、我が魂の心の声を救い上げ労わってあげないと。私は私に優しくしてあげたい。 いつの日か、優しくなった私が、より多くの優しさを分け与えられる人間になれますように。味わい深く、心に充足を。 The Long And Winding Road を聴きながら、一度だけ大いに泣いたら、次に見る景色は花の頃でしょうか。 le 22 vendredi 金曜日 //味わい深い//今から10年ほど前でしょうか。桜通は新緑が綺麗で、そのことを同席の人に言ったら「何とも思わない」と言う。これを聞いたとき驚愕しました。人間性は大丈夫かと、別の年にも機会あったときに同じ質問をしたら、同じ答えが返ってくる。信じられませんが、そういうものに「美しい」と思う心は無いのでしょう。 まあ、それを非難することはできない。美醜の感覚は人それぞれだし。ただ確信したのは、この人とは別の道を歩むと。喧嘩別れでもなく、一緒にいることが、ただただ不自然だからです。 多くを語りたいのですが、今は控えます。 コロナも去って、穏やかな日が来たら、その折々の味わい深さを書き記し今に思うこと昔あったことなど、書いていきたいと思います。 le 21 jeudi 木曜日 //国会開く意味ないじゃん!!!!//立憲の蓮舫議員は除名相当だと思う。菅さんが所信表明演説する前に、演説を非難するツィートと出していたというじゃない。事前の資料があったにせよ聞きもしないのに、話してもいないのに、非難の対象にするってのは、今後、国会で討論したり折衝する意味を放棄したと思うのです。選挙で多数を取った集団が次の選挙まで自由に決めれば良いと。そう促しているのが他ならぬ蓮舫議員ですよ。 他人を非難することばかりに心血を注ぐと、成れの果ては、会う意味も話す意味もない人になってしまうのでしょうか。 le 20 mercredi 水曜日 //心配性//日本は災害の多い国で、心配の結果、命永らえることの繰り返しで、世界的に見ても心配性の国民が実に多いそうです。言われると、僕も心配性で何もしない無事平穏こそが「勝利」と思うことは信念に近いものがあります。 ですが、例えば船が沈む予兆がしていたとするなら、心配性の人は最後まで何もしないのでしょうか!?? 全く違うと思います。多分、どの民族よりも異変を感じ取り次の動きに出るのではないかと思うのです。心配性は何もしないのではなく、台風が来ると予知できるのなら最大限事前の準備をする。果敢に動くと思うのです。 ですから、心配性の人が連携もしていないのに、ある同一の動きを取り出したら、未来は予見できるのかもしれません。 le 19 mardi 火曜日 //考えた末の一発//今朝の会議でも話題になりましたが、某社員が激高して、その場で退職届を走り書き。それから一時間ほどして気が変わり謝罪するという顛末。 労働者が会社に向けれる最強の持ち札はというと、それは辞表。職業選択の自由は憲法で保障されている権利であります。それ以外では、取り立てて有効なカードはない。伝家の宝刀を取るまでは、努力して発言力を確保して納得の領域を増やすほかはない。 僕は辞表というものを出したことは無いので書き方も知りませんが、それは感情が高ぶったり腹を立てた末に提出するものではないと思っている。考えに考えた末、迷いも無くなった上で提出するものであり、翻意できる事柄ではない。話し合いの余地もない。去るだけという意思表示で、去るという一点で、会社に意見を通させる労働者の伝家の宝刀。 le 18 lundi 月曜日 //来ないと思っていた//ふと思い出すのですが、大学は楽しかった。一方、就職活動は面倒で初めて受かったところで活動を中止。以来、再就職なんて面倒の極みと思い今に至る。思い出したのは、大学の四年、年が変わり三月末で卒業するというのに、全く実感がわかず、それは最後の一週間でも同じ、とうとう前日まで自分が働くなんて想像もつきませんでした。 あれから、いろんなことがあったにせよ、特別枠組みが変わることもない。20年近くこの日記を書いていますが、この間の収入源は全く同じです。ただただ、その時々の趣味が変わっただけ。 le 17 dimanche 日曜日 //スープジャー//今一番の感心事。いづれ老いて、ご飯を手軽に作る段階に来たら、スープジャーは重宝しそうで。 お米を入れ熱湯を注ぎ二分。それは捨てて、さらに熱湯、そして蓋を締める。昼頃にはおかゆさんになっているそうです。スープジャーのレシピいろいろと考えましょう。 le 16 samedi 土曜日 //感動したい//この欲求を満たすために映画やテレビ・本に頼ったことは一度もない。どうやら私は、それらは、それらを目的とした作りものという意識が拭えず、かなり冷静に接する。 ところが、何気ない自然の光景や村の祭りなど、そういうものには誰よりも感動していると思う。 飽きもせず一人でドライブばかりしていた時の心境も、この感動の充足にあったと思う。さて、陶芸に関しては感動ということがない。それに代わるものは感嘆。技量や美に驚き見入ることはあるけれど、心の奥が熱くなり時に涙するものは、冬の海の沈む間際の太陽とか、折々の自然の光景。 たぶん、春にでも瀬戸の街を歩いていたら、私は理由もなく感動し心に充足感を覚えるはずです。そして陶芸に巡り合って邁進して、これからも陶芸と共に過ごす人生の不思議というか味わいに。 le 15 vendredi 金曜日 //不器用な人//時代に余裕があったとき、人間関係として不器用な人も面倒見てくれる包容力があったものです。誰もが、その人に生産性を感じなくても親分肌の人が抱えてくれたものでした。 思うに、その人は好きで不器用になったわけではない。攻撃的な性格や奔放な先の生活の破綻とかではなく、対人関係にぎこちないものがあったり、人の目を見て話すのが怖い人、自分の意見を言えない人、途中で事故に遭った人、幼少の頃の高熱で少し頭が弱い人などとなど。 今、不器用な人が追い込まれている。 そんな立派なことを言うなら、お前が助けろよ!!と即答される時代ですが、甲斐性のない自分にできることは、心の中で祈ることと折々に優しく接することだけ。生活を助ける術を持ち合わしていない。 ところが、そんな心優しい不器用な人は、嫌なことも嫌な顔せず人に出来ない人助けを大いにしてくれた時もあった。それを忘れてはないだろうか。彼の彼女のことを思うなら、僕に出来ることはいよいよ限られてきましたが、助けられた以上、助けることから逃げてはならない。 le 14 jeudi 木曜日 //もう木曜日//明日は金曜、週末です。少しづつではありますが陽の長さを感じます。光の春というし、春は光が一番の早足です。 前にも言いましたが、今は風邪をひくことも厄介。いつになく風邪をひかないように警戒することがコロナ対策だと思っています。故に、寒い時期の陶芸はかなり抑制気味にしております。 その代わりと言っては何ですが、火鉢用の炭を擦り80目の篩で微粒子に。 これをですね入浴時に小さじ一杯顔に塗る。黒人になりますが、そのあとの洗顔で驚くほど顔の汚れが取れます。炭入りの石鹸とかありますが、洗顔で小さじ一杯は含有量としても圧倒的なのでしょう。お勧めです。 le 13 mercredi 水曜日 //コロナ禍における陶芸//論じてみよ。 と、即興でお題を出しましたが、全く広範囲で掴みどころがありませんが、仮に問われれば答えなくてはなりません!?? いや、例えば陶芸家が小規模で論じ合っているはず。どう生きれば良いのかと。それは、どう売れるようにするのか。そんな問と答えの百家争鳴。 //コロナ禍における陶芸// コロナ禍。それは国民等しく被る禍であり、傍観は許されず、何かしらの対策を講じ日々の生活を営まなくてはならない。コロナ禍の陶芸を語る時、この対策(知恵や工夫)に今後の姿を見ると思う。 ソーシャルディスタンス・三蜜・新しい生活様式云々。付随する言葉は多く出回りますが、時代の傾向は生活は内向的になっても発信はより活発。アクティブに内的生活。まず、ここに焦点を当て述べたいと思います。 衣食住。これらは内向的な生活の柱となるものですが、こと日本人の発信傾向を鑑みるに、 【衣】は自身がファッションモデルになる気恥ずかしさも手伝い、食に比し情報量は多くない。 【住】は個人情報や特に都市部の住環境などを考慮すると、それをテーマに発信することはかなり限定された範囲に留まると考える。 一方、【食】は被写体をズームにすれば住環境の問題もクリアされ、また台所に立てば発信者参加型の行為(イベント)にもなる。【衣】【住】に対して圧倒的に多いのが食の分野で、ここにコロナ禍における陶芸の可能性があると思う。 内向的であっても食は欠かせない。これを彩りよく楽しく華やかにすることは、今後も続く新しい生活様式をより快適にするためにも必要である。それは珍しいとか高級な食材とかであっても、やはり発信する段階に至っては、発信者も器を考慮していくでしょう。また器から始まって、お料理を盛った写真を発信するかもしれません。このように考えるとコロナ禍における陶芸は決して悲嘆する分野でもなく、禍を照らし福となすアイテムである。 ただし、人の動きが内向的になる今、コロナ禍における陶芸は、ネットショップで宅配されても破損しない構造や堅牢さが求められ、大ぶりな作品よりも食器や花瓶など、写真に納まりの良いサイズと、形状における制約は多くなるでしょう。また、せともの祭りや個展など対面での販売は、今後も制約を受けると思われるので、特に留意するは、実物に接することなく購入に至らせる魅せる技術の開発も重要になると考えます。 コロナ禍によって、生活はよりインターネットに頼り、触る・対話するという従前にあった購入に至るまでの段階が消失しつつある。これは今後も続くと予想し、陶芸そのものがネット社会と親和性のある存在。つまり輸送に耐える形状やサイズ感、作者からの語り掛けなどの新しい知恵や工夫は避けて通れないと考えます。 le 12 mardi 火曜日 //終わった後も偉大です。//三連休は終わった後も四日の労働。偉大です。不景気になると週休三日制の議論が出てきたりする。果たして三連休が良いのか、水曜日にお休みを設けるのが良いのか、絵に描いた餅ですね。 どこぞの学者が大事故には中程度の事故が○○件あって、中程度の事故には些細な事柄が○○○件存在した上に発生すると。その数値をすっかり忘れていたので申し訳ないのですが。 さて、こんな言葉使うの!!???とピックリする口の悪い人。上記の法則を当てはめれば、心の中では常にそう思っているのでしょう。常に思っているから言葉に出る。 le 11 lundi 月曜日 //オブジェは確かに存在する。//生活の用には全く役に立たない。なのに確固として存在し、時に公共の、私のものとして販売され置かれるべき場所に移る。 オブジェとは何ぞや!? 特に陶芸におけるオブジェとは何ぞや。 //陶芸におけるオブジェとは何ぞや// 陶芸は門戸が広い。芸術家や陶芸家の専門ではなく、ことオブジェに至っては、幼児であっても小学生・中学生でも土を捏ね焼けば永続する形状となり、親や祖父母にとっては、立派なオブジェとしての立ち位置を占め、これらは時に玄関に飾ったりもする。 飾る者には、生活の用は成さずとも、その形状・質感・作者との関係性において愛でる気持ちさえ湧き起れば、造形に稚拙なところがあったとしても全く問題ではなくオブジェなのである。 この関係性においては、幼児の絵も同様ではある。ただ陶芸の秀でたところは、その門戸の広さと、形状が立体であり安定性があり、かつ劣化しないところである。それを七宝や漆芸に当てはめれば、たちまち門戸は狭くなり、陶芸最大の強みである広範性は失われ狭窄的な、時に芸術としての専門家でしか扱えない存在になってしまう。 陶芸におけるオブジェとは、まさに製作者が専門芸術家でなく近親者や自身でも可能であって、特に後者の場合は、その製作工程からオブジェの物語は始まり、特にSNSにおいては、それを投稿し拡散するのも楽しみである。完成したものはもちろんのこと、作る過程を自身の言葉で述べ広めるのは、陶芸におけるオブジェの最大の特徴であると思う。 ただし、上記の特徴は、あくまで家庭内や極小さな範囲での人間関係での話であり、ここに陶芸家の存する余地はほぼない。 陶芸家としての陶芸におけるオブジェとは、七宝や漆芸作品と同一線上で考えなくてはならない。特別な人間性に依拠せず、購入するに値する作品であり、他の工芸より訴えるものが秀でたとき、初めて購入してくれるものだと考える。 この厳しい関係でみるならば、やはり陶芸におけるオブジェは、その素材をいかに活かすかが重要になってくると思う。磁土や陶土の特性を美に昇華して、購入するに値する造形。どれだけ作ったとしても、他者が設置しなくては、人から愛でられる存在でなくてはオブジェではない。 まとめるに、陶芸におけるオブジェとは、間口が広く広範性がある故、家族の枠内で収まることも十分にあり得る素材であると。その枠を超え、オブジェを語るならば、他の工芸に秀でたと思われなくてはならない。買う者にとっては、陶芸に拘る必要はないからである。 土と焼きに釉薬。そして造形。陶芸が故の素材があるなら、やはり、ここを突き詰め、その突き詰める過程に語れるような奥行きがあれば、作品は外に出て置かれ、はじめてオブジェになっていくのではなかろうか。 le 10 dimanche 日曜日 //感動する心、その②//本日、久しぶりに瀬戸に行った。懐かしい道だ。色々考えながら懐かしい道を進むとき、何度も見ていた光景であっても、なにかその心満たされ感動する。 今年は、感動する心を大切にしたい。感動して、それを表明する勢いをロクロに見出す。 このサーバーを維持するのに、年間、3万円ほどかかる。これを20回支払うのが今年の10月。 僅かながらですがカウンターは回る。その人に思いを巡らすと、彼の彼女の窓の外は何が見えるのだろうかと。大雪で白いだけかもしれないし、冬の太平洋岸の青空。都会の密集した建築の隙間を見る光景かもしれません。不思議な縁です。私は貴方を知らない。ですが、アナタの今を考える。貴方に良き毎日を、平安を。 いつの日か、私の焼き物を研究する人が、この日記を大いなる参考資料とする、そんな日が来たら、それは、とても充足した人生だったのでしょう。 le 9 samedi 土曜日 //感動する心//それは心が満たされたとき。心の充足が従前を超えて溢れ出す時。 生活の折々で、日々の移ろいで、流れゆく雲の形で、青空で、沈む夕日に新緑の透き通る緑に。 例えば、一つの生活から別の生活に移行するときの孤独みたいなときに、感動する心はより身近なものになっていると思う。新しい街の姿や降り立つ駅の光景に、感動はより身近に囁いてくれると思う。 汚らしい言葉を聞くとしたら、やはり、それは正常ではない。彼はそう言いたいのだから否定はしないとしても同調するのは不自然だ。同じ旋律の中で生活する道理がない。そこには感動はない。そして、そこから旅立つときに感動は近づいてくれる。何気ない生活の中に。 le 8 vendredi 金曜日 //明日から三連休//さて、我がpcの調子が悪い。メモリ不足なのか画面に無数のドットが出てきてちらつく。それはいづれ収まるのですが立ち上がりは特に顕著。 しばらくpcは高値のままでしょうが緊急事態とか解除されたら新調も考えるべきかしら。その時はノートpcにするべきかな!?? le 7 jeudi 木曜日 //美術館だなんて!!!//あんな所に行って、どう時間を過ごせば良いものか!!と思っていた時代はあります。ところが今、そんな感覚は消え去っている。いったい私に何が起きたというのか。 世の中、ステイホーム第二弾。家にいて、例えばデッサンを始めた人、編み物に興ずる人などなど。何かをする人にとって美術館は、より良き何かに通じる感性の醸造所。創造的なことなど一切せず、例えばテレビゲームに夢中な人は、美術館に何の興味も湧かないと思う。美術館に足を向ける人というのは、既に美術的な創造生活を少なからず実施している証左なのでしょう。 le 6 mercredi 水曜日 //いつの頃からか//保守的である私は、怖がりでもある。ところが数年前から、私が怯える物事に関して、【殺されるわけではない】と開き直ることしばしば。 さて、陶芸に邁進したこの10年。陶芸の全てが好きではありません。それを目にした時の激しい嫌悪。今日はこれを書きたいと思うます。 それは某美術館の展示。市の予算でコツコツ買い揃えては展示するのですが、一つ嫌悪というか怒りにも似た感情の湧く展示が。 現代陶芸で、訳の分からない造形ですが、題名と説明に、心の苦悶を表したものと書いてありました。どうして、これが高い評価を得たのかさっぱり分かりません。形にならない失敗作を、後付けの題と説明で、なんとか枠に収めて提出したようなもの。 ところが不思議なものです。見るたびに嫌悪感の湧く作品ではありますが、蔑視したとしても注視する私がいるのです。 無視ではなく嫌悪。それは受け入れらいない存在ではあるが興味の対象ではある。こんな作品を作る人間って、どうな人!??とは、激しく思う。 le 5 mardi 火曜日 //10周年//今年の2月の最終土曜日が我が陶芸の10周年記念日。今年は寒いしコロナもあって風邪をひくことも要警戒。寒い作業場は少し避けまして、今日から暫くは、この10年間の経験で思う陶芸や美の思想というか理論というか考えみたいなものを書いていきたいと思う。 まあ、明日からね。 le 4 lundi 月曜日 //挨拶//仕事始めでした。元気良く挨拶する人、死んだような顔して何言っているのか分からない人、遅刻した人。欠勤している人。 為人を判断するうえで最も秀でた一瞬が年始の開口一番だと思う。 9日の間で何をして何を考えていたのか分かりませんが、今朝の一瞬で、その人の一年を見たような気がします。 le 3 dimanche 日曜日 //正月三日は最終日//長いお休みでした。明日から5日間お仕事。今年は長い目標というより、近々感染が危機的に増えることを想定して、乗り切る体制の再点検。年末にも書きましたが、月曜日の仕事が以前に対策は打ったとしても、やはり不安(私自身が休まないので机上の空論)。明日は月曜日、一月は、ココをテコ入れかな。 一年前の世界は、この後、コロナ禍になるなんて想像もしていなかった。今年はどうでしょう。とてもオリンピックを開催できる環境にはないと思うし、相変わらずコロナに振り回されるのでょう。でも、再来年は!?? その次の年は!!?? 私が50になる頃は!???? 確かに今年は底になる年でしょう。ただ今年の後半には多少明るいニュースなど入ってくるのかもしれません。 さて、ここ数年、日記を週末にまとめることが多かったです。今年の10月には、なんとなんと20周年。振り返って読むには、味わい深い一年になるのかもしれません。そして、毎日毎日思いの丈を新鮮なうちに書き込む日々が来るような気がします。長く続けていると、この厚みが私の支え。私の相談相手は、この20年のどこかに確固として存在する。読み返すことなどしてみたい。 今年は底辺で伺う一年。私も日本も世界も。コロナは付きまとう一年で閉塞感も漂いますが、底辺で伺う年にこそ普段では出来ないことや諸々の準備など取り組めるものです。未来は明るいと信じるなら、今、活動的でなくてどうする!!!!!!! le 2 samedi 土曜日 //あれまっっっ//NHKの伊藤若冲、、ドラマの中では芸だった!!?? 今日は陶芸もせず、朝から真空管ラジオで岐阜ラジオを聴いたり、それはそれで穏やかな過ごし方。仕事始めは1/4なので、明日も大人しく過ごすつもりです。 それより、年明け、緊急事態宣言が発令されるのでしょうか。このまま感染者が増え続ければ医療崩壊だし死者も増えるはず。 le 1er vendredi 金曜日 //本年も宜しく御願ひ奉り申し上げ候// 喪中につき、年始の準備をするわけでもなく、なおかつ感染拡大も恐ろしい状況になり、令和三年の元旦は、家にいて陶芸三昧。 大雪の予報も名古屋は外れ、雪の元日とはいきませんでした。ただ暖冬のしまらない正月よりは数段良いです。 これは、常々思うことですが、 思いを巡らす全ての人に平安がありますやうに。 |
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