令和4年1月janvier.2022 le 31 lundi 月曜日 //あれまっ。//一年の1/12が過ぎ去ってしまいました。この間の私は、毎日が一生懸命だったであろうか。 去年の今頃はドラマチックでしたが、来年の今頃も同様である。三年間という目で見ると、この一月は一番怠惰であったと思う。 le 30 dimanche 日曜日 //今日も急須//作れば作るほど気づくことが出てくる。まだまだ作らなくては。来週からは平日にも少しづつ。 仲間内の団栗の背比べであってはならない。志は強く高く遠く。 幸いなのは、私は私の奥底で勝手に考えてくれることが良くある。何か素晴らしいこととか、そういうものは苦慮熟慮の上ではなく、ある時突然答えてくれる。この間、私は別なことができるのだ。私は私の中の私と共同作業をしている。これにはいつも本当に助かっている。ありがとうございます。 le 29 samedi 土曜日 //9:00から22:30まで//陶芸三昧。途中食事とEテレで心の時代を見た以外は作業場に。 今、急須の勘を取り戻しています。作れば作るほど良くなるので、またまだ鈍い域。 今回は精製した土なので最上質の滑らかさ。可愛いムクちゃんが存命していた頃に、傍らで水簸していた粘土です。極稀にムクちゃんの毛が出てくると、何か良いことありそうな気持になってしまう。 le 28 vendredi 金曜日 //早かった//あっという間に金曜日。平日も週末も陶芸の日々。 長い目で見ると、私は石膏での表現も身に付けなければならない。守備範囲を広くするということは職業病を遠ざけること。日々同じ姿勢は良くない。 陶芸仲間に一人、若いのにやる気のない人がいる。皆、口をそろえて言う。やる気ないなら辞めれば良いと。私もそう思う。志同じ仲間だと思っていましたが、暇つぶしで来るような人もいるようで。 le 27 jeudi 木曜日 //行動とは//心の不足を補おうとするもの。私の陶芸熱は、それ自体の魅力もありますが、ともすれば、初めて人に言える特技というか自分らしい表現を身に付け、遅咲きであるゆえ、もう取り戻そうと必死なのかもしれません。 通底しているのは、50になるのに未だ陶芸家として世に出ていない圧倒的な遅れ。いや、早い人なら20-30年前からそれを本業としているのに。そう思うと私は陶芸に割ける時間が圧倒的に不足しているという感覚である。 le 26 mercredi 水曜日 //創造する美//売れれば良いのだ!!!!と考えるのなら、コピーでも良い。でも、それはルール違反であって、作家としてどう表現するかというときに、コピーの域内なら、その程度となるだろう。 その人なりの何か、は見つけるのは難しくとも見つけなくてはならない。そうやって一生懸命考えている人を真似るがごとく見入るのは、不文律であるがルール違反だとおもう。誰かを凝視するのは誰でもすることだが、そのあとは、その残像も利用して自分なりの創造に苦慮する。この苦慮が嫌で、残像を再現して完成というようでは、やはり作家として追放処分だと思う。 le 25 mardi 火曜日 //禿げの原因突き止めた//なにかその、改善したのですよ。改善というより回復なのかな。特に何もしていないのに。と、言うことで禿げの原因は前職にあったと推定できる。ハハハ。 その前職でも、特に昼食の内容に問題があった気がする。私は朝もしっかり食べるのに、昼はそれ以上に脂っこいものばかりガッツリ食べて、夜もまた。 現在、昼は至って質素。 le 24 lundi 月曜日 //途中経過が言えない//新工房の進捗具合ですが、全く進んでいません。未だ机上の空論の域。 こうなりゃ、成るように成るのを待つのみで、出来ることと言えば、毎日をただひたすら一生懸命に。 なかなか当初の計画通りに進まないもので、いや、笑ってしまうのは右往左往で一歩も進んでいない現実。まもなく2022年も1/12が経過するというのに。 le 23 dimanche 日曜日 //読破したよ//昨日今日と勉強三昧。釉薬の本を読破しました。あとは、この本を何度も何度も目を通します。 明日から月曜日。見つめるところを誤らず、志は高く。 そうそう、それこそ先日の名古屋市営バスのバスジャック事件。犯人は「むしゃくしゃ」していたからと。43歳で、この言い分ですよ。それは正直な発言でしょう。笑われたとか蔑まされたとか、むしゃくしゃする原因はあったはずです。でも、どうして、それがバスジャックにつながるのか見当もつきません。 誰かが笑っている。誰かが批判している。嘲笑している。馬鹿にしている。きっと私も似たようなものです。でも、思う志にその様な人がいるわけでもないし、それならそれで良い。 強く思う。嫌われることは悪いことではないと。なにかその、回り回って私のエネルギーにさえなるのではと思うからだ。 le 22 samedi 土曜日 //不気味な地震//先日の大分の震度5強。あの報に接して瞬時に思ったのは、ある日のNHKスペシャル。南海トラフを占う一つとして豊後水道で大きな地震が引き金となり半年とか三年後??に巨大地震を引き起こすと。 気象庁は震源の深さが違うので、その心配に及ばすというのですが、いやいや不気味で仕方ない。 le 21 vendredi 金曜日 //肺を大切に//先日お亡くなりになられた大陶芸家。75歳にしては、げっそりしていて驚いてしまった。ガンなのかと思うのですが肺がんなのかもしれません。そう思ってしまうのは陶芸家にとって各種粉塵の吸引は、最も警戒するところ。 これを毒劇物を扱うようにお思いになられるのかもしれませんが、一般論としてドライバーは交通事故、農家は農薬の取り扱いとか、その分野における警戒すべき側面ね。ともすれば慣れてしまうこともあるのですが、やはり、重層的な防止や除去の技術は持ち合わせるべきでしょう。 le 20 jeudi 木曜日 //塩カル//寒い日々が続きますが諏訪湖の御神渡りは未だ姿を見せないという。いつもは温暖化が最大要因ですが、寒い冬になって初めて気が付いたことは、凍結防止剤によって諏訪湖の塩分濃度が上がり、御神渡りを妨げているのではと。 私には思い出深い街がいくつかある。作家として方々動けるような身分になったら、下諏訪の街を味わい深く過ごしたいものです。 le 19 mercredi 水曜日 //どこ見る人か//仲良く前に進むのも良い。進んで喧嘩する必要もない。そういう人間関係の濃密さは、時に仲間であるがゆえに反目したり腹の立つこともある。でも考えてみると志は仲間内の楽しい会話ではない。志は、この仲間内に納まっていない。遠く高く大きく。そんなことを考えていたら、些細なことで一喜一憂するなんてバカバカしくて。 いづれ、それぞれの道を進むのである。それぞれは、それぞれの志のある路や道の向こうに思いを馳せるべきである。仲間内の団栗の背比べなんて、愚の骨頂です。遠く高く大きく。 le 18 mardi 火曜日 //正直、寒いと//家で轆轤を回すのも、なかなか腰が重くて。今週は、いや週末も使って釉薬の本を読破しようかと思っています。いつも、小さな時間を見つけては読んでいますが、細切れ過ぎて頭に入らない。腰を据えるには良い寒さ。腰を据えてじっくり読むとします。 le 17 lundi 月曜日 //早起きは、幸い//そのぶん早寝なのですが、私は早起き派です。これで損をしたためしがない。 今週も早起きに徹しますよ。 朝早いと、通常のスタートの前に、毎日少しづつ、コツコツとした積み重ねができる。 ふと思ったのですが、50をしての人生の大転換。定年後対策の前倒しなのかって思っています。いづれ退職して余生を楽しむ扉を開くのですが、その時から日々何をするという思案は誰もが持つはず。僕は10年以上も前に、その対応に出たということなのかな。 le 16 dimanche 日曜日 //不気味な音//津波の情報。今、考えると、我が家の緊急警報装置はなりませんでした。ただスマホから聞いたことのない響きが。そしてNHKラジオを聞いて、その津波がトンガの火山から来たものだと知る。日本では揺れが無いので津波警報であっても緊急警報装置は作動しないわけだ。 その津波も空気振動に起因する初めてのケースらしくて、とにかく巨大な噴火であったと。 来年あたり食料不足になるのではと思う。100歳の老人でも経験したことのない大噴火らしい。今年はまだ大丈夫だと思うから、穀物は多めに備蓄して来年に備えねば。 le 15 samedi 土曜日 //無駄にできない土//作業場を掃除して新しい土にする。この土は瀬戸の原土で精製の繰り返しで、今では最上質の土となりました。そう、あの夏の日、あと数日後に昇天する可愛いムクちゃんを横にして、その作業をしていました。ムクちゃんの命がある時に出会った土を最上質にして、昇天後に使い始める。私は、この土で一生懸命、持てる全てを使って表現します。 le 14 vendredi 金曜日 //河川敷は北海道//庄内川の河川敷は一面の雪景色。北海道の様でした。 うっすらと雪景色になることは、数日ありましたが、ドガっと積もる日は今のところありません。蝋梅は咲いています。次は梅ですが、咲くまでに、そんな冬の風情も味わいたいものです。 新年会はオミクロンの動向により延期となりました。花見の頃になるのかな。 le 13 jeudi 木曜日 //本来の冬//温暖化と叫ばれる以前の天気予報では、そう、週間天気予報。新潟とか金沢とか長野とか連日雪マーク。これが本来の冬の週間天気法です。 今年の冬は、何年、十何年ぶりなのか、本来の寒さのようでうれしいものです。 去年の正月には、庭の梅が2-3輪咲いていましたし、そういう異常な風情は今日が冷める。 あるべき時のあるべき美しさ。それは毎年のことではなくなりましたから。 le 12 mercredi 水曜日 //髪を伸ばそう//第六波を考えると床屋さんは当面お預け。もともと伸ばしに伸ばして年始の予定でしたから、この際、髪型を変えようかと思います。長年、短くしていましたが、さて、どうしたものか。 美容院という道の扉も、50歳にして開けてみようかな。 le 11 mardi 火曜日 //三連休を振り返る//成人の日が15日から移行して、毎年、正月明けの週末は三連休になる。 今年の三連休ではなく、かなり昔を。 私は年賀状を出さない主義で、頂いたものは三連休に寒中見舞い。年始の三連休は、寒中見舞いを旅先で書くという口実で地方都市に出掛けたものです。 そして今年は会社関係もなくて、とうとう積年の夢であった年賀状ゼロ枚を達成した年でもあります。 思い出すのは冬の焼津。漁船の向こうに真白き富士山。 いつの日か、そういう地方都市で、また何か一人過ごす時を持ちたいのですが、そういう身分になる前に、するべきことが多くある。ただただ頑張るしかない。 le 10 lundi 月曜日 //長いお休み//明日から通常の時間割。90分は早起きになります。オミクロンは重症化にはならないものの遥かに感染しやすいとのこと。 オミクロンであってもコロナと診断されたら物忌が強制される。そういう時間の無駄が到来しないように、警戒すべきは今まで以上かな。なんとか第六波をやり過ごしたいものです。 令和4年も10日が経過しました。どれだけ陶芸に専念しても頂には立てない。全く無駄な時価がない。定年というものは私から消え去りました。何か線引きするとしたなら、それは命が果てる時。その時まで陶芸に専念します。土から美と価値を。 //日本昔話//作業場では、マンガ日本昔話を再生したりしています。これは私の日課となりそうです。 私が一番恐れているものは怠惰を選んでしまうこと。何かに属していたら、それを許さない強制力も働きますが、私には戒める側面が自分の心のみになってしまった。 そんな私にとって日本昔話は、怠惰や不親切、強欲の果ての姿を戒めるお話がとても多く、また同じだけ親切や孝行、勤勉・勤労の果実を現わすものもある。 むかしむかし、あるところに、陶芸陶芸と人の意見も聞かず全てを投げうって、その道に入った男がおってな、しばらくは良かったものの、日に日に怠惰になって、今となっては作ることも売ることもせず寝てばかり。。。。。。。。 と、後日の昔話の題材とならぬよう、自分を律するためにもマンガを見ます!!!!! le 9 dimanche 日曜日 //辞めても同じこと//本日も朝から晩まで作業場にいました。食事とトイレ以外は移動せず、自分の部屋で寛いだり昼寝することもない。おそらく在職していても、この三連休は陶芸三昧でしょう。つまり私の週末だけを見たら、ほぼ変化なし。 さて、私は毎晩祈りの時間を設けています。瞑想に近いかな。 それこそ在職中は、頭の固い人への対応とか、ギリギリの折衝とか結果待ちとか、いまから思えば、偏屈な人の心に右往左往して、それで心の平安を得るべく祈ってもいました。あの頃は、あれが一番大切でしたが、今となっては笑い話です。自分の幸せとか全く関係ないことで神経をすり減らしていたり。 祈ることは今でもたくさんありますが、偏屈な人の心に右往左往されるような不毛が無いのは有難いことです。 le 8 samedi 土曜日 //更に//200個作りました。今月は釉薬テストかな。 本日は近くのお寺に下見。ここで月に一度手作り朝市みたいなものをしていて、そろそろ出展しようかと思うのです。初めてのお客さんには、何か別にプレゼントしたいな。 外出と言ったら、これだけです。あとは作業場に。 le 7 vendredi 金曜日 //300個//テストピースを300個作りました。明日は追加するべきか別のにするか。 最近は作品を釉薬テストに使っていたので不経済でした。ここで、大規模実験をして今一度絞り込んで、さらなる高みに持っていきます。 本日は、石英管の電気ストーブを足元に作業。懐かしい温かさ。 さて、私は、例えば400wなら、どの電気ストーブも温かさは同じだと思っていましたが、最近は大きく差があるようです。石英管は熱を光にも変換しているので効率が悪いそうです。良く温まる電気ストーブは赤くならない。ただただ遠赤外線を出すのに特化するそうです。 le 6 jeudi 木曜日 //あの頃は//本日は南岸低気圧の雪でした。小学校の頃、冬は南岸低気圧の雪のあと、日本海からの雪が来て波状攻撃でした。 その頃の寒さではないので、温暖化なのでしょうが、近年では珍しい、それなりに寒い冬です。 毎朝、豆炭に日を熾すのが日課です。それを火鉢に。祖母の家では埋めて、翌朝、復活させる繰り返しですが、地震も多いので、一応、毎晩、蓋をして酸欠で消化しています。 le 5 mercredi 水曜日 //三回目//初回の次は七年後。あの時、七年後には43歳なのかと。そして43歳のお祭りでは、7年後は50歳なのかと。 飯田お練り祭り。今年の三月開催です。 初回も二回目も、僕は一人で泊り見に行きました。三回目で見に行くとしても一人のはず。この徹底した孤独癖は生涯持ち続けるのでしょう。もう、見事ととしか言いようがない。 le 4 mardi 火曜日 //朝から晩まで//ロクロ始め。 朝から晩まで、ただひたすらに作る。 全く飽きないのは、心の底から有難いと思います。 ようやくコミュニテーFMも通常放送。これを聞きながら轆轤を回す時間が、至福でした。飯田とか諏訪とか、好きな地域の番組を聞いて、その地名に思いを馳せる。飯田のラジオを聴きながら飯田駅前のライブカメラの映像を流して、轆轤を回す。 もう飯田市民の心地ですよ。 le 3 lundi 月曜日 //お城が好きであったと//死の前日まで、城好きで、その日は岐阜城に行っていたそうです。そして、もう寝たきりになるかもしれないと言い、翌朝、息を引き取っていたとのこと。終末期医療もせず、苦しみや不安も大きかったと思いますが、自暴自棄ではなく、命ある限り自分らしい時間の過ごし方をしていたそうで、ただただ感服する次第です。 合掌。 私も寿命がいつまでなのか見当もつきませんが、ただただ毎日を一生懸命に。今後ますます老いて、真に孤独の淵に立たされますが、命ある限り自分らしい時が過ごせるよう、胆力をもって、ただただ一生懸命に。 若くはならない。ただし、みすぼらしくもならない。 le 2 dimanche 日曜日 //今年は半世紀//誕生して50年。芸として生きているわけですが、その有無とは別にして、私は誰かと付き合うという選択は生涯出来ない人間であったとの決断を、早々にするべきである。その生涯が80年なのか100年なのか分かりませんが、死の間際に思うのではなく、今、思う。 と、寂しそうな事を書きますが、確率ですね。 50になり若くなることはない。老いるとは、そういう意味で選択外になるのだ。なのに抗うことの不毛なことときたら人生の無駄であると。これは極論に近いのですが、これより5年の可能性。さらに五年間の可能性と考えると、歳をとればとるほど無理に近しい。もちろん50にして、そう思う行為は、10%の可能性にかけ鏡の前で膨大な時間をかけるようなもの。無理とは言わないものの、無理に近しいのなら諦めて、老いてこその良き時間に仕上げていかなくてはと思う。 よって芸だからと参加して時間を費やすことはない。何かの魅力があって、結果的に同じ時間を過ごすことがあるのなら、それは第一級の素晴らしい時間である。その輝くべき素晴らしさが芸の外にあって、それが故、参加できないという選択肢も、まあ、これは昔から無いのですが、今後もない。 陶芸で言うのなら、芸だから何か共同戦線を張るとか、そういう考えは無い。結果的に芸であったら、それは面白い出来事ではあるが、まずは、その人の陶芸の技量とかである。よって後者は、ゼロに近いことでもある。 それにしても徹底して、人と付き合えないというか、愛することの出来ない人間ってのも、これは病理であるが、認定する時期でもある。私は、時間を同じくする相手など、そもそも存在できるものではないと思っている。この核となる時間に生活に血縁でもない誰かが存在することが、全く理解できない。夫婦の争いは、今でも嫌と言うほど見ている。血縁でもない誰がが身近に存在するということは、ただただ不愉快であり争うことなのだ。 Nouvel An samedi 土曜日 //本年も宜しくお願いいたします//思いを巡らす全ての人に安寧を。 一筋の光明ではなかろうか。美とは、親しき者の死と窯出しが同じ日であっても、その器の美しさに時を忘れる。一切を忘れる。死でなくとも災害や災難に接したとしても、それさえ忘却の彼方に追いやる力。 辛いことや嫌なことがあれば、これが一つの指針となる。これらを忘却せしめよと。 より良き美を求めるのなら、隣接する災厄さえ定規となすよう、そのくらいの冷めた目も必要である。その災厄が解消すればよいとか、そういう改善を願うのなら、それが意味ないものだと、ようやく分かりました。消せないものは利用すればよい。 結局、単純なところに落ち着きます。人は、必ず心の隙間を埋める行動をすると、これは貧富や心の健康状態にかかわらず全ての人に当てはまるものであると。 何かや何かの分野に欠損や不足を感じるから、埋める行動に出る。それが直接的なのか間接的なのか、何かしらの反応をする。人の浮き沈みは、その埋める行動が是なのか非なのかその違いであると。 心の隙間を埋めるのに、放蕩や暴力などを選択する人は没落するであろう。心の隙間は誰にでもある、それを埋める行動を、私はより良き美としたい。大きな隙間であったとしても美に置き換わるのなら、それも価値あるものなのだ。 |
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