令和4年6月juin.2022


le 30 jeudi 木曜日
//半年消化//あまりの暑さで、本日が前半の最終日であったとは、夜の寛ぎの時間まで気が付きませんでした。明日は40度予想。夕立でも降って地熱を洗い流してくれないと、どんどん熱くなるばかり。そうは言うものの朝の青空は美しい。夏の緑の木立と青空。それを愛でながら毎日登る坂があります。

倹約で押し通してきましたが、そろそろ新しいスマホを買わなければと考えています。ここしばらくはtoruqueでしたが、今回もその流れを考えています。この次はそこそこの性能のノートpcは必須。プリンターも。

//その時にその人//通勤や通学、私は決まった時間の同じ扉から乗る。なにか事情が変わらない限り、それを変更することもないし、変更後も然りで、変えない。そうすると、どこの誰だか知らないけれど気になる人と同じになる。そうなると、これが毎日のささやかな楽しみ。記憶にあるので、大学の頃は二人、就職してからは4人。そして今、一人。  彼らは今頃何をしているのだろうか?
 どんな人でも、その人の生活を垣間見たら想像を超え「映画みたいな人」になる。ですが、人の生活を探るなんてルール違反でありますから想像するしかないのですが、現実を越えることはないだろう。  共通しているのは、精悍な御尊顔で、尚且つ真面目な雰囲気を漂わせている人。

 先ほど気づいたのだ。人生の、その時のその人と言う四コマ漫画みたいなささやかな出会いは、これが最後だと。最後であるから勇気を出して、アナタは私にとってコレコレの人ですとも言えず、全く謎は解決されず、私の目の前から消える。なのに、私もその人も生活は続く。
 人生は不思議な出会いに満ち満ちていて味わい深い。私の人生の、その時のその人。いつの日か器を介して偶然の出会いがあったとするのなら、目が点になるにしても、在り来たりな会話が精一杯だろう。そんな偶然も楽しみに私は生活軸を変える。


le 29 mercredi 水曜日
//暑い暑い//暑いのもエネルギーだと思うのですが、これを集約して保存し然るべき時に放出出来ないものでしょうか?  やはり樹木が炭素として蓄え冬に薪にする程度かしら?

皆さま、お体ご自愛ください。時候のあいさつでも何でもなく命を繋ぐために。


le 28 mardi 火曜日
//ありがたや//なんでも値上げの世の中で、こんな話があるなんて!! 本日、常滑市に行きました。所用が終わり地元の歴史博物館のような所へ、入館無料なのも嬉しいけれど、ご自由にお持ちくださいと払い下げ図書の一角がある。地元の歴史書や市史の類ですが、こういうのは大好き。買うと1万円以上はする分厚い資料集とか。数冊頂きました。今後の慰めといたします。

前にも書きましたが、私は陶芸に専念するために絶海の孤島の様な、話す相手も限られる新しい世界に入ります。好きですることで居心地は良いと思いますが、あの感覚が生まれるのかもしれません。陶芸をする以前から一人が好きで、好き過ぎて心の病ではなかろうかと思ったと時がありました。秋の連休、テント持参で初日は焼岳登山口で、翌日は御嶽山登山口でと、一人で数日過ごしたことがあります。人恋しくなればと期待していましたがスラスラと過ごせる。ですが、最終日、名古屋に戻る時は、とにかく名古屋に戻って誰かと話でもしなければと急ぎ足で帰りました。

これでもかと一人の時間はあって、なのに目減りはしない。これが続くと認識するとき、はたして私の孤独癖は本物なのかと疑わしい。ここは本物であって精神が強くあってほしいのですが、仮に狼狽えたとしたら心に大きな穴が開く。その時、雑踏に酒に出会い系にギャンブルに逃げたとしても私の選んだ孤独の世界は続くのだから、なんの解決にもなりません。身を亡ぼすだけです。

誰かに会いたいと思っても、それは都合良すぎるのだ。だから私は健全な方法で、収入に見合った健全な方法で充足感を覚えることは絶対の責務である。 新しい町の歴史書を読破し、その土地を愛せる人間になれば、散歩していても町が語り掛けてくれます。地元の歴史サークルの講演会に参加するのも楽しいでしょう。

私は50にして漸く陶芸の道に専念できる。時間は圧倒的に足りない。これを腐らせてはならないのだ。一人仕事に疲れても健全な癒しでもって、明日もまたロクロの前に気持も新たに座る。少ない時間を上質に。これが軸の生活設計です。


le 27 lundi 月曜日
//梅雨明け//三四日前から梅雨明けのようなお天気でしたが本日発表が。過去最短の期間です。驚くべき程の空梅雨になります。
 夢は、井戸水クーラー。これなら罪の意識なくガンガン使える。夏の排熱を冬に利用できたらと、夢のようなことを言いっていますが、さすがにこれは来世の話ですかね。


le 26 dimanche 日曜日
//退職して以来//以前は毎日のように通っていた喫茶店に顔を出す。数日前、久屋大通駅で数秒声を交わしてから、一度行ってみるかと。栄から伏見、そして花車。徒歩です。川沿いのデザインビルには白いベンツが。廃車だと思っていたのですが使っていました。本社前の椿の木には手入れのあとがある。愛情込めて育てているのは太い幹で分かります。裏から見るとちっとも変っていません。その裏の神社では退職するときもお参りしましたが、今こうしてお参りできていることを感謝。それから喫茶店。カウンターの一番端、東側。そこから外を見ても前と変わっているところがありません。
 忙しそうにしていたので一輪挿しを三つ差し上げる。その感想を聞くころには、私もまた大きく変わっていなければなりません。

今は横一線ですが、来年の今頃は落したビー玉のようにてんでバラバラ。この後、ぐっと飛び抜けて活躍する人も出てくるでしょう。陶芸歴とは関係ありません。才能です。
 世界に目を向けている人もいるでしょう。今後、再会する機会があるとするならそれぞれの道で活躍する者同士の会話でありたい。だから、集団でのありきたりな人間関係の誤解とかそういうものがあるとするなら、その辺りで意識しているようではダメである。世界を見ていたら足元で躓いた、すみません。この位の大胆さで解散となる日に挑みましょうぞ。

一昨日の日記でも書きましたが、50になると50を迎えられなかった人のいることを知る。そんな年齢になったのだろう。こう考えると、会っていないだけで記憶の中では存在しているのに実は他界している、こういう人も複数人はいるのだと。それが50歳なのかと。十年前には無い感覚です。死というものが、少し少し近寄り、遠くに波の白き所を見るように死もまた、その輪郭を遠くに見出すようになる。

 ですが現実としては生きている。死の輪郭を遠くに見たような大人だからこそ、生きている間は瞬間瞬間一生懸命であるべきだ。命が有限であると認識できるのは大人の特権です。


le 25 samedi 土曜日
//豆の木//と私は呼んでいる赤いアプリは削除しました。そもそも全くログインしていないので50の整理にアンインストール。残るは9の門だけですが内容一新。これも何れ辞めますが、その布石です。  

人が集まれば、褒める人も足を引っ張る人もいる。予期せぬ誤解で無意味な心労に付き合わされることもあったりする。孤独の世界にこれらは無いが、いわゆる雑多な集合体には味わいがある。反発もあれば共感もある。時が経てばみな良き思い出だ。
 相応の時期に専念できる場所は確保できるが、専念できる分、私は自らが生み出す作品を媒介に人と交流しなくてはならない。褒める人もいれば説教する人も出てくるであろう。これらも時が経てば良き思い出だ。

今後、専念できる環境は有難く思う。日々に変化を加えるなら、例えばこの時期は、○○に専念すると。通常の作品とは違う期間限定の集中期間。自分に価値を持たせるためには、この時期にしか生産しないものをクオリティ高く作るべきかと。


le 24 vendredi 金曜日
//どういうこと!?//帰宅後、前職の脱出組の会合が行われる。半年前も今回も聴いて不思議。思うところあって辞めた人が大半ですから、良いことを言うとは思えないのですが、大半が良い会社であったという。今でも戻れるなら戻りたいともいう。不思議な共通点です。ですが辞めた理由も共通していて、アイツがいるなら絶対戻りたくないと。辞めた理由が、その人の人間性にあると、皆が口を揃えて言う。 

 器が小さいのに大きく見せようとするから些細なことを問題視し相手を委縮させ、その上で攻撃的になる。攻撃的であればあるほど、度量が小さく心の潤いが枯渇している証左であるが、今回も勝利したと陶酔しているのだろう。一貫しているのは、収穫物を多くする努力や勝負からは逃げ通し、農民には手順が違うと指摘するだげの姿。良い田んぼをお持ちなのにと、不作の原因は田んぼではないと指摘したりもする。

さて、驚く話を聞きました。10年ほど前に退職した某氏がお亡くなりになられたと。50を迎えることなく世を去る。合掌。


le 23 jeudi 木曜日
//50歳になりました//輝く!第50回・世界ウーマン節と書くべきでしょうが、折り紙を真ん中で折って、裏面に移った事の一つです。改めたり身軽になるために手放したり、そういう物事は少し増えるとは思いますが、私は空の青さに雨の風情に、鄙びた温泉に浸かる時の、そう、世の中の美や輝き喜びはいつまでも純粋に感じ取れる人間であり続けたい。そして人の悲しみを感じ取れ和らげる存在でありたい。

 小さなケーキを貰いました。お菓子の詰め合わせも。ありがとうございます。来年の今日は、そういうこともない。今年も来年も日々は特殊であって時限的な人生の一時。私が、日々に慣れ、先が読め、読めるが故、余暇を多めに手に出来るのは5年後なのかもしれません。先達は口を揃えて言う。5年間は苦しくて苦しくてと。去年や今年は特殊事情ではありますがレールの上で、身に迫る緊張感はない。特別であっても、ぬるま湯なのだ。

こんなに厳しい現状認識なのに、何故にこの選択をしたのか。矛盾ではあるまいか!と指摘されても当然であるが、ここに魂の奥底から発せられる生の叫びがありまして、「どうしようもないのだ」と答えるしかない。だから私はこの道が正しく、これより先、この道で人生を全うすると50歳にして高らかに宣言できることは、実に有難い立場であると思っています。退路を断てば、進むしかないのだ。分っているようで、漸く。日常に不満を吐露する暇もない。そもそも、そんな感覚も湧かない。進むしかないからだ。日々の不満が無いのは、想いと道が一致しているからだろう。仮に売り上げが散々であったならば、必死になるだけだ。そこに不満はない。全ての責任は私にあるので、真摯に勤労する以外の時の過ごし方を見出せない。なんと有難いことか。

半世紀無事に過ごせ今に至ること、今晩も特別な祈りの時間を設けまして私の感謝といたします。


le 22 mercredi 水曜日
//40代最後の日//長い日記を振り返ると20代30代最後の日記も読める。20代はなんの感慨もなく子供の延長みたいなことを書いていました。ところが30代のそれは違った。心の有り様が大きく変わった、いろいろと鍛えられた10年間だったのだろう。そして、この日に記した内容は、その後の10年を言い当てている。大人になったし鋭敏な感覚も養われたのだろう。

そして今、40代最後の日記を書いている。明日でもって50年生きたわけである。これは奇跡だ。こうして生まれたこと、育ったこと、無事であったこと。感謝申し上げることが多岐にわたって存在することも、なんと有難きことか。

これからを思うと、親しき者の死が、40代は外堀だったものが内堀に類する近親者の死は、きっと迎えるだろう。ですが、生きる私にとっては変化に富み味わい深く、それさえも慣れた頃には安堵して、私は心の奥底から幸せを思うのかもしれません。言い換えるなら慌ただしく夢中に動いて、ご褒美は【慣れ】 そうこうするうちに、50代もあっという間に過ぎ去り、これはもはや人生そのものが、この早さなのかと、今後出来得ることを計算し始めるのかもしれないけれど、作家業ですから、明日もまたロクロに向かう、これこそが幸せであると高らかに宣言するのかもしれません。

不思議ではあるものの確信があり、雲を掴むような行動に出ていても大黒柱がある。沸々と思うのだ。こうなることは、こうなるために私は生を受けたのだが、世には諸々の指定席があって、私の座った陶芸の席は50年の待ちの時間・50年の人生の鍛錬を受けてからの条件付き。それを了解の上で世に生まれてきたと思うのだ。こう考えると、今後の10年は私が考える以上に躍動して邁進するのかと、これも心の先を思う領域で確信に似た鎮静でもって存在する概念である。

さて、本日は40代最後の日。40代を記念して薄田泣菫の茶話上中下三冊が届きました。膨大な量の随筆です。私の今後を思うとき、活字にて心豊かに楽しく頼もしく。仮に何かしらの心の隙間が生ずるのなら、活字でもって埋めて先に進む。良き本は手元に置くべきだと、これも強く思う向きがありまして、先日この本を選びました。

本日と明日は特別な祈りを捧げる日であります。今に生きることは奇跡であるものの、その厚みが50年である。多くの御縁良縁があってのことです。孤独が好きだと言うものの実に多くの存在に助けられているのですから、祈りの先は想いを巡らす全ての人と私の内なる魂です。


le 21 mardi 火曜日
//木の肌と青葉と//朝、いつもの坂は夏至というのに陽の光はなく、ただただ梅雨の雨。それも弱い雨で、この時期の特に雨に当たって放たれる木々の香りは洗い流されることなく私に漂う。木の肌と青葉の濡れる香り。

帰宅後、雨の降りは本降りですが、最近の豪雨とかではなく、あくまで梅雨本来の降り続く雨音はひと際心地良い。薄田泣菫の『雨の日に香を燻く』の朗読を背景に聞きながら私も香を。
 今日をして、何の不足があろうことか。

先ほど136円に落ちたそうです。これより諸々の価格高騰は避けられず、手にした一万円で買える物品の少なさに恐怖し麻痺するのかもしれません。ですが、本日の香のように、例え線香一本でも漂えば、読書する時間は深くその物語に誘なわれ、これにして何の不足があろうことか。

 労働は勤労であるべきである。挑む姿は真摯であるべきだ。その真摯の向かう先には道徳がなければならない。作り出すものが良きものであり喜ばれる物。受ける利益でもって別の形で社会に参加する。我こそは生産し利益を享受する存在であるという強い信念は、この後に続く道徳があるからこそ正当であり私に響き続ける。己の欲は雨の日に香の燻くくらいで満たされる様でありたい。


le 20 lundi 月曜日
//2019年6月19日//とか4日の日記。日記を公表してはいるものの、例えば前職の頃、これが経営陣の目にすることもありうると、腹が立っても直接的な批判は控えました。だた何も言及しないのも日記としておかしいので主語を隠したり、比喩に例えたり。
さて、2012年の6月の日記は

//30代最後の日// 30代の日記を振り返っているのですが、今日が最終日39歳の自分です。
あっという間に終わってしまった30代。30代は維持した年。40代は変化を受け入れる年でしょう。 お陰さまで、30代は特段に変化というものもなく、生活は継続。明日から始まる40代。家族の枠組みは変わります。親しい者たちの死に接することでしょう。変化を恐れて守り通した30代も、10年が限度ということで、40代は、守り続けた反動の変化を受容しなくてはなりません。
そうは言っても、例えば親が無くなったとしても自身の生活は続くのであり、私は成長しなくてはなりません。私が私として存在している理由や価値を見出し、その種まきをするのが、これからの10年だと思うのです。



le 19 dimanche 日曜日
//欅の一枚板//どこに工房を構えるか、未だ決まりませんが、机の天板に相応しい欅の一枚板を先に購入。作業台にするか、文机に用いるか。

決まらないのは、今は決めないことだと思って心静かにしています。いずれ決まるべき時期に最善の形が出現するでしょう。姿形に拘っていましたが、それの維持や陶芸に与える影響も込みにして来るべき時期に最前が出現することだと思っています。

さて本日は奈良県御杖村に行きました。伊勢湾から奈良盆地家から進み入って最も標高の高い所。流石に涼しいです。ですが標高は480m程。国道19号を走ると標高の標識がありますが南木曽あたりになります。そう考えると信州の山岳の厚みは深い。圧倒的です。

と申しつつも、出来ることなら場所が確定し、頭の中に描く配置や仕事する自分の姿が、何かしらの根拠の上でありたいとは願うところでもあります。

明日は同じく購入した薄い欅板を箆や小手に加工します。密度ある材なので一生もののはず。


le 18 samedi 土曜日
//40代の締めくくりに三冊//古本でもと考えましたが、いやいや新品で三冊揃えることで我が40代締めくくりの記念にしようかと考えまして。薄田泣菫の茶話 上中下。

今後、私が戒めることは、

      怠けること 引っ込み思案になること 心の隙間を享楽で埋めること


これはどんなに戒めても心が緩んだ瞬間に忍び寄る。滝に打たれたら生涯消え去るものでもありません。それでも人生に余暇は必要。稼ぎは不安定になります。稼ぎ悪いなら悪いなりに心を埋めて佳き充足に至らねばと思う。そういうことも想定しての購入ですが、最も心動かされたのはyoutubeで薄田泣菫の朗読『雨の日に香を燻く』を聴いたからでした。

その稼ぎですが良い悪いの変動はありましょうが確実に言えることは不安定になる。卒業後の1-2年は激変対応期間(卒業したらしたで軌道に乗せるための準備があるということ)で、この二年間同様贅沢の一切は考えていませんが、それが過ぎても一時的に良い思いをしたとしても不安定であることには変わりありません。その様な生活を選んだ以上、生活の基準は下限に合わせます。よって、私の生活水準の向上は下限の底上げに比例します。好きな陶芸を生業に選んだ以上、この位の厳しさは言い訳なしに受けて立ちます。良い思いをしたいなら一時的な良さではなく、最も冴えない日々で可能なやりくり。よって全体の底上げは避けて通れなくなります。貯金を切り崩して良き思いをする考えには至らないし、それを選んだ瞬間、私は滅び去るでしょう。

本日、久屋大通駅で行きつけだった喫茶店のマスターから声を掛けられる。コーヒーチケット残っているし、一度作品持参のうえ近況でも伝えに上がろうかと思います。


le 17 vendredi 金曜日
//間に合わず//松坂屋美術館に行ったのですが展示に間に合わず。明日改めて。
梅雨の蒸し暑い夜です。私は極端にクーラーを運転させない人間で、例えば私の部屋で言うならば、台風で窓を開けれない時位しか運転しません。
そして思うのです。日本家屋で蒸し暑い日の過ごし方を。まあ扇風機は付けるにしても、例えばハッカを栽培して、盥にハッカを浮かべ手拭いで都度身体を拭く。これに扇風機の風。


le 16 jeudi 木曜日
//田舎好きな人//芸ではありましたが、特段の色恋には恵まれず、まもなく50歳。その方面は伏して控えるのが相応な年齢になりました。 不思議なもので、今でも続く交友は、価値観の一致に依るものだと思うのです。もはや芸とか関係なく、田舎を生活の拠点にする感性。迎合することなく、良き選択の先が山奥なら臆することなく選ぶ感性。
便利な時代になりました。日本に点在しても、気候が違っても、感性の一致に見る心の距離の近さよ。

貧しさは夢中の造形で感ずる暇なく。心の隙間も同じく夢中の造形で感ずる暇なく。たまの余暇があれば居心地よくする日曜大工で暇なく。だから、今後、心の有り様が正しければ、立ちふさがる苦難があっても逃げるのではなく忘却できる心と生活の仕組み備えるようなものです。これは健全な生きる知恵。さらに家庭菜園などが出来れは、もう毎日が無我夢中。50代もあっという間でしょう。


le 15 mercredi 水曜日
//我が半生で好きなこと、好きだったこと//
砂遊びが好きだった
笑わない子を笑わすのが好きだった
仲間外れの人を迎え入れるのが好きだった
自ら道化て笑いを取るのが好きである
不器用な人を用いて活躍させるのが好きである
爽やかな青空の空気を吸って闊歩するのが好きである
理想の地図や間取り図を書くのが好きだった
↑ それらを日々妄想するのが好きだった
理想の仕組みを考えるのが好きだった
日本家屋に上がるのが好きである
↑ そして、そこでの生活を妄想するのが好きである
田舎の風情に我が身を投影させて、そこでの生活を妄想するのが好きである
誰も気が付かないような番組や音楽に特別な情緒や関心を持つことが実に多い
工芸品の美しいラインに美を見出していた
蟻の動きを見て、そこに架空の地図を投影させるのが好きだった
水の流れを堰き止めて小さなダムを作るのが好きだった
↑ それを破壊して、洪水の様を見るのも好きだった
積み木遊びも大好きだった
大きな紙に架空の地図を書き一人遊ぶのが好きだった
美しい景色の中を一人でひたすら歩くのが好きだ
日本の文化や情緒に触れるのが好きだ
地方都市に一人で行くのが好きだ
一人でする素晴らしいことを発信するのは好きだ
陶芸は好きだ
一人は好きだが、親しい人を如何にお招きするかの思案が好きだ
中華文明は好きだ
冬の青空の向こうにある雪山を見るのが好きだ
薪で煮炊きする匂いが好きだ
建具とか一人で作り上げていく妄想が好きだ
新緑の透ける緑が好きだ
ご機嫌なリズムで踊るのが好きだ
お年寄りに親切にするのが好きだ
可愛いワンちゃんに接するのは好きだ
青々とした竹林と、それを使って何か作りたいといつも思う
骨董屋で古道具を見ては、それを用いて生活する妄想が好きだ
昼寝は好きだ
香の香りが好きだ
日々の光景から美しいものを見出す事は得意である
権威と格式に宿る美が好きだ
美味しい料理は好きだ
↑ それを作るのも好きだ
一人で過ごす時間は好きだ
火鉢の様を眺めるのが好きである
山奥で一人生活する妄想が好きだ
地方都市の風情も大都会の発展も好きだ
早く歩いて目的地に着くのは好きだ
お祈りや瞑想をするのは好きだ
生活の慣れたリズムや行き慣れた場所は好きだ
書道具に触れるのは好きだ
朝の時間は好きだ
ヒノキなどの建材を見るのは好きだ
何もない和室で過ごす時間が好きだ
好きなことが特殊で一人で専念しているが、これが好きだ
一人で専念して、そして披露するときに人的交流を持つ。これが好きだ。
土間のある生活は夢だ。


le 14 mardi 火曜日
//プロフ変えました//9の門のプロフを変えました。50ですからね。性的な期待とかを書くのは、もはや見苦しい年齢に到達したと判断しました。50代もどこかで、それさえも店じまい、とも考えています。

年齢を詐称して出会いの可能性を高める向きもありましょうが、余生がその分長くなるわけでもなし。残された人生を性的なものに期待するのか、別に重きを置くのか。私は後者を選びました。


le 13 lundi 月曜日
//美//美とはあらゆる方面に存在しており、栗拾いのように、手にしたと思っても、また近くに別な美しさが存在する。雲の上の存在でもなく、毎日の天気や自然の情景にそれは存在する。
 では、何が美かというと、それに魅了され一瞬たりとも時を忘れ一点を見つめる、そんな瞬間が存在したら、それは美だと思う。たとえ悲しいことがあっても寂しいことがあっても忘れてしまう瞬間。それは美の持つ偉大な力である。

来週50歳になります。肉体の美で言うと峠は過ぎて老いていくだけ。子や孫がいるわけでもなし、まして大都会に同じ境遇を見出すこともせず、大都会に身を置くことも今後選択肢として排除した。
全く寂しさに飛び込んでいくようなものですが、私は楽しみでもあります。つまり、この環境で充実していたとするなら、私の陶芸は美の域内に存するのだと、こう考えるからです。まあ、この位、他を絶って一点に集中する位の覚悟は必要であろうし、その様な環境に恐怖を感じるようなら、大したものは造れないでしょう。だから人の目とか全く気にならない。これは語弊があるので補足しますが身なりを気にしないではなく、人の口から出る言葉や視線の事。

ともすれば誰からも忘れ去られてしまいそうですが、旧知が細り新知が増えるなら血の流れは、それはそれで健全です。私が恐れるべきは、閉じた扉があるならば、その隣にある扉を開けないこと。
どこに住まおうが、誰かと健全な情の行き来はしなくてはならない。


le 12 dimanche 日曜日
//涼しい風//梅雨らしくなるのは火曜日あたりだそうです。太陽の角度で言うと最も「夏」、つまり、角度が高いのに通り抜ける風は涼しい限り。

//料理と掃除//陶芸以外に、何で埋めるか。これは私の新しい余暇の在り方にもなりますが、つまり知恵と工夫でもって心の隙間を健全に埋めなくてはなりません。ふと、我に返ったとき、妙な寂しさで意味もなく街へ出歩いたりお酒に逃げたり出会い系アプリに可能性を見出すなんてのは、知恵も工夫も全くありません。

そこで考えるのは料理と掃除。まず掃除ですが掃除機ではなく和箒で。米ぬかを利用しての磨き掃除。戦前の日本の掃除を楽しむ。これには理由があって、意味もなく出歩かないと心に決めると、家の中に籠る生活は想定されます。古き掃除は体力維持のために。これも目的の一つ。
 料理は一日二食生活の準備と、多めに作って冷凍保存とか、お菓子作りとか。食事の準備で忙殺される毎日は回避したい。でもインスタントラーメンの生活も避けます。上質な食生活なために、余暇時間を利用する。

結局、全ては陶芸に帰結する。その時間の確保と上質な環境の保持のために、私に余分な時間があったとしたら、余暇は陶芸の援護射撃となるような内容を楽しみをもって行う。
私が、どの様な場所で工房を持つのか、未だはっきりしませんが、余暇の在り方が発信できるようなレベルではありたい。今は話す相手に恵まれていますが、その様な環境は無くなる。田舎に行っても文明の利器で世界と重層的に交流できるようにしたい。その人的な広がりもまた私の陶芸の良き理解者になってもらえるよう、やはり全ては陶芸に帰結する。


le 11 samedi 土曜日
//新釉【玉虫】//緑方面の釉薬が弱くて、前に実験をしました。常備釉薬は、作るとなるとかなりの量なので、吟味の末に漸く選ばれる。260番のテストピースが良い発色だったので、これを格上げ。
玉虫の釉と名付けることにしました。これで天目茶碗とか焼けたら、どれだけ素敵な事か。

さて昨日の日記の続き。どの時刻か決めていませんが、これも自動再生したいです⇒



le 10 vendredi 金曜日
//温泉街の情緒//温泉街にも人は住む。たとえば18時になると、草津あたりだと、例えば、こんな感じの曲が流れたら、情緒的ではありませんか。

考えているのは5時から19時まで、その5分前から情緒的な民謡や長唄・小唄とかを時報の目安として自動再生したいのですね。自然と口ずさんでも会話激減対策にもなるし。


le 9 jeudi 木曜日
//自然な形//昨日も今日も。夕食後に一粒丁子を食べる。その二時間後、快便も快便。腹が痛くなる訳でもなく、香辛料で蠕動運動が活発になった自然な快便。

明日は金曜日。一週間が早い。今日も涼しい風が通り抜ける夜です。


le 8 mercredi 水曜日
//丁子//スパイスのグローブのことです。丁子風呂という香炉があって、炭の上で丁子を煎じ、その香気で防虫するのと、厠での臭気取りに。共に上流の嗜みであったそう。もっと昔で言うと、中国の皇帝に謁見する前には口臭取りのため一粒口中へ。
で、実際食べてみたら、ああ、成程、仁丹の味がする。

そのまま置いたらゴキブリ除けにもなるそうです。とにかく仁丹の味ですから、何かと強烈なわけですよ。


le 7 mardi 火曜日
//よいお天気//瀬戸では毎日上る坂があって、歩く度にその日その日の美しさを楽しんでいます。雨上がりの六月の朝、青紅葉の向こうには湿度の低い快晴の空。葉は透ける緑。

心の隙間は埋め方次第で人生は転落もする。そうであっても万人等しく心に隙間はあるもので、その埋め方が生活の、人生の質なのかと思っています。芸はいずれ独り身になる。その期間は世間のそれよりも長く、まずもって芸で終生添い遂げる間柄は希少な存在。その関係に辿り着けば子のいない夫婦と同じ境遇。芸が手にする最も長い関係性。でも、大半は終生の関係は望み薄だと思う。中年になってから別れてしまって、新しい恋なんてのも、ますます望み薄。芸になった以上、孤独は避けて通れない。その孤独が心の隙間になることは大いに考えられる。
老いた芸の気ままな集団生活みたいな生活形態は、今後、都市部で増えていくような気もしますが、なにせ私は、今後の生活を田舎に定めた。全く人とは違う生き方で、終生の孤独は覚悟しています。それに寂しさを覚えては人生の質が下がる。そういう老いを滋味深く育てるのが私に課せられた宿題だと考えています。

でも、我が人生は宿題をこなすだけにあらず。この宿題は生活の味付けみたいなもので、何故私は存在し生きているのかということを尊く感じ入り毎日を一生懸命、本題を立派に成し遂げる。これがあっての生活の味付けだから、案外、寂しいと思う隙間も存在しないのかも知れません。


le 6 lundi 月曜日
//私を構成する5本柱//まもなく50歳。前に半生の重大ニュースを書くと言いましたが、これは取りやめ。  まず、何度考えても5本なのです。私を構成する要素は多いけれど、決定的な影響を与えているのは5個の要素。何度考えても増えもせず減りもせず。これは良しも悪しきも含まれており、出来ることなら乗り越えたいものもある。だから改めて記憶に上書きする必要もないと思いまして。

心に摺り込まれた五本の柱は朽ちることはないだろう。それでも良いのだ、この柱があっての私よ。抜き取ることができないのなら、上手く付き合うことで立派な家にするだけです。


le 5 dimanche 日曜日
//涼しい風が通る日曜日//午前中は町内の一斉清掃。それ以外の時間は作陶です。

やはり一番は実行すること。行動すること。その余力でもって少しづつ夢を叶える。今するべき事は技芸の向上と良品のストック。その良品のストックが疎かになっていた。次からの作陶は主軸からブレることなく。

それから哲学・美学は確固として持つべきであると。何故私は職を辞してまで陶芸をするのか。何を作るべきなのか。どういう心持でいるべきなのか。作家とは何ぞや?美とは何ぞや?人生とは何ぞや?利益とは販売とは。日本家屋云々は、この次なのだ。


le 4 samedi 土曜日
//寄せては引く波のように//日本家屋での生活を思い浮かべる。でも、全く根拠もなし、それを消し去る自分もいるのですが、やはり気が付くと憧れの生活を脳内で上演している。
 座敷に夜、寛ぎの時間。南信州新聞を読む私。

youtubeでは京町家の番組を見て陶芸を。やはり日本家屋の生活を考えている。多くの人は都会に憧れるけれど、私は反対方向のホームで空いた電車を待つのだ。


le 3 vendredi 金曜日
//間之町通り竹屋町上る//本日は京都日帰り。5時間ほど自由時間があり21000歩歩きました。御所から南に歩く。間之町通りという看板があり、ほどなく見た覚えのある会社がありました。前職の記憶です、年に1-2度取引があって、住所が間之町通り竹屋町上ると、なんと京都らしい字句かと記憶があったのです。そして数歩歩いたら竹屋町の標識が。

工房に籠ることも良いけれど、京都は目に入る有意義な意匠が多く私の刺激になります。
素晴らしき日本建築の床の間を見て、私の作陶欲は上質に誘われる。


le 2 jeudi 木曜日
//右斜め上、遠く//これは初めて言うことかもしれませんが、昔からのことです。私が、何か新しい造形、より良き造形を考える時、自然と目の玉というか目の意識は、右斜め上、視線は遠くなのです。目を開いても閉じても。

//夢//私には変わらぬ夢がある。日本家屋での生活。そして世話になった人たちに日本家屋で饗応したい。それには長い時間を要するのかも知れませんが、陶芸で生活に余力が出たら、人生で何を実現させたいかは、今述べた事柄です。


le 1er mercredi 水曜日
//今月は//50歳になります。その前日、記憶の限りの半生重大ニュースでも書こうと思う。5本位は言えるのに、そのあとが続かない。不思議です、50年なのに。

20代も30代も40代もマッハのスピードで過ぎ去りました。まず感謝しなければならないのは、私は生きているという事実。そして思うところに舵を切り今後を歩もうとしている幸せは、ただただ感謝すべきことです。歩みを止めてはならない。私が言い訳をしている間でも、夢にまで出てくる鬼気迫る作家は存在する。私は後者にならなければならない。それは睡眠時間を削るとかではなく、十分な睡眠の上で起きている間の取り組む姿勢。



 
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