mai.2013



le 31 vendredi
//梅雨の情緒的に過ごし方// 今日は晴れでしたが梅雨の過ごし方アレコレ。梅雨寒と言われるくらいの梅雨の前半は僕は好きです、梅雨前線が本州の南にあって名古屋を覆う空気はまだ太平洋のそれとは違う。そんな雨の日には何して過ごしましょうか。

瀬戸だ瀬戸だと言う毎日ですが、もう何年も前、陶芸を始める前に雨の日の休日があって、さて何して過ごしましょうかと思案した先が瀬戸ブラリ歩き。この時の雨の降り具合や読んだ本とか入った店は今でも鮮明に覚えています。

今日は梅雨晴れ。湿度の少なく快適でしたが、あと一カ月ほどは雨との上手な過ごし方。


le 30 jeudi
//傘と隅っこ//帰りの地下鉄。隅の席が空き座る。この時期手放せない傘も取っ手に掛けて僕がしたことと言えば寝ること。次の駅の記憶がありません。
体も固定できて実に深い睡眠を帰宅前に確保。

//僻地芸// 思うに僕は山間僻地や離島の芸と同じだと思う。
と、申すのはお仲間と会うのは半年に1-2回程度。(これも決まった旅友達)誰かと床体操なんて一年以上ご無沙汰だし、過去十年でも数えるほど。
そういう方面において全く芸らしからぬ生活なのです。
ところが名古屋に住んでいて、その気になれば交友関係も活発になるのですが
寂しいから誰かと会うという感覚が一切働かないので、結局は誰かに会おうと自分から動く気にならない。それは陶芸を始める以前からそうでしたが、始めてからはますます顕著。

ネットの上では自分は芸だと公言しているにもかかわらず、実際の人間関係において芸関係が確立しているかと言えば、ほぼ破綻。と、いいつつ「普段はノンケ生活」なんですと言うに気が引けるのは、こうやってキーボードをたくさん叩いているからでしょう。


le 29 mercredi
//健康の大切さと同じ// 病んだ時にそれを知る。でも、普段から健康の素晴らしさを自分は満喫していると言いう有難さを、もっと実感しなくては。
それと同じこと。
心静かに須らく最善の形で解決するために委ねる時間の有難さと言うか
瞑想の最中における脳の痺れと言うか、
見えてくるものに畏怖の念。
でも、毎日そんな時間を持ったとしたら毎日出会える。

有難いと思うことを普段から兼ね備えている、何ともありがたい話。


le 28 mardi
//私は私を// 素直になる。
最も慈しみ最も愛し最も守ってくれ最も応援してくれるものは、なんの計算もなく純粋な心の内にあるもう一つの私。

それに気がつくのはいつも結果があってのこと。

あの時、アーしていればコーならなかった。と思うこと多々あり。
そのアーは心の内にある純粋な私の警告であったのだ。

表面的な若き突破能力は、今まで多くの扉を広げてくれた。
それが厄前後に機能も劣化し、昔の感覚で進むと火傷をする。
それを純粋な私は防ぎたいため必死で叫んでいるのに、若き勢いは道を誤らせる。

厄とは、冴えや勘の切り替えであるとおもう。
これからは、なんとかなるとか、なんとかしてみせるとかよりも
経験に則り、ゆっくり道を進むべきなのだろう。
そう思うと、厄を防ぐ最大の手段は、老いを認めること。

老いた私は、手の顔の首の皺の深さで物事を見る。

そうなのです。人生も中間点を越えたということ。
若き頃は、あらゆることに顔を突っ込み失敗したり突破したり、
そして老いた今は、その感覚では身体も故障するので
昔日の経験を参考に道を選ぶ。

それは考える必要はないと思う。
心静かにしていれば、内なる私は答えてくれるはず。
だって内なる私の最大の目的は私の生存なのですから。

あやまろう、と心に浮かぶなら、謝るのが私の最大の利益になるはず。
若き頃に思案した言い訳や逃げは、今にしたら、それは大やけど。私の不利益になる。
それを知っているから心の私は純粋に伝達する。
「謝りましょう」と。

私の言いたい事や伝えたいことを含めて、
謝ることが最も伝わるのだと知っているのでしょう。


厄払いとかいうけれど、厄を払うために必要なのは、心静かに自分を見つめなおす時間かもしれませんね。じっと瞑想していたら心の私は最善の答えを導き出してくれるはず。

こんなに素晴らしい解決法があるのに怒りや嫉妬に狂うと前後の見境もなく愚策を選んだりするのだろう。怒りは最も後に持ってくる感情とは良く言ったものです。その手前に必ず心の声が聞こえるのですから。

明日、謝ります。


le 27 lundi
//デブブタ//僕は地下鉄では席は詰めて座ることに徹しています。さて、そうしたところ左となりに0.4人分の空間が。そこに120kgくらいあるデブブタが、今から座りますよ的なジェスチャーもなく爆弾を投下するようにズデン!!!と無理やり。もちろん僕の左半身はぶつかるし、左隣の女性もビックリ。
そのデブブタが間髪いれず何をしたのかと言うと携帯ゲーム機でなにやら熱中。
まもなく彼から強烈な臭気も感じるおまけ付き。
それがね、30代の会社員なのですよ。

こんな社員持ってしまった会社につくづく同情申し上げる次第です。

我が家のムクちゃんを見ていると、コレと言う時は抜群な集中力。
それを担保するためか普段は、一説には犬は一日18時間寝ると言う。

僕は前世が犬なのではないか!?


le 26 dimanche
//反省会// 
●本体口縁部は、押しこみ厚さを倍にする。そして1/2をさらに深く押し込み受け手と成す。
●茶漉しは頂上から作成。
●注ぎ口は、思っているより裾野は広く首はかなり長くして相当。
 ほぼ一輪ざしを完成させる要領。
●蓋は、径の8-9割を土台として形成。小皿造りとは違っていた。
 成形は削り込みで。
●取っ手の付け根は最小径部ではなく、思った以上の裾野。
 この裾野がある故、最小径部が際立つ。
●本体は丸壺を作る要領で上へ上へ。
●蓋の取っ手は、その箇所に粘土を張り付け成形する。削りでもって成形すると外れない。


le 25 samedi
//しげしげと眺める// 本日の作陶はさっぱりでした。理由は分かるしイライラもしていません。素晴らしい作品に接したあとは、無意識のうちに真似てみようと心が働くものの、その美しき作品の構造などが詳細には呑み込めていなくて、作るうちに支離滅裂になってしまう。

今回、僕を惑わすそれは先日買った急須。
夜の飲みが入っていたこともあり、じっくり眺めているのは土曜の夜になって初めてというわけ。

●底部と最大幅は1:2である。
●肩を張り内に窄めて垂直に。ここで厚さを1/2にし、
 内側のそれは押しこんで蓋の受け手と成す。
 ※ 斜めに切り込むを入れている。1/2の線で刃を入れ、1/3まで斜めに落とし、
   そこで底部を形成。よって蓋の構造もそれと呼応する。
●ここまで迷うことなく一気に成形。
●底部は削りこむ。高台というより底部が凹むかんじ。
 この作成時期が分からない。

●蓋は小皿を作るように。
●小皿接地面は、口径に対して1:2の関係。
●小皿の高さは極めて低い。
●口縁部は、小皿にはない内側に切りこんでいる。
 これは本体の受け手(斜めの部分)の構造に呼応する。
 本体、斜めのラインにたいする構造。
●内側に切り込んだ口縁部は、頂上部で平地を作る。本体、受けての平らな部分に呼応。
●小皿内側は削りでもって最終成形。
●ひっくりかえす。
●小皿接地面とそれ以外の段差をなくすため削る。
 薄いため、曲線は二つの弧で成す。一つのラインに拘っていない。
●取っ手は、別に作ったものを接着している。
 よって、二より先に取っ手を作る!!!!!

●茶漉しは二種類の穴。
●穴大は、側面下部から作っている。らせん状に徐々に上へ仕上げる。
●頂上部で穴小に切り替え。螺旋でのバトンタッチのため、
 穴小は上空から覗くと○で構成されていない。大から小の切り替わりがあるため
 楕円にみえる。
●ただし切り替え部を下部に位置すれば、はっと見の茶漉しは綺麗な円の集合体である。
 ※ 茶漉しには穴の開ける位置が下部からのスタートであり、上下があること忘れるな。

●茶漉しは、本体の外から内へ差し込む。

●注ぎ口は一輪ざしの要領。
●ただし、仕上げ段階で口縁部を親指と人差し指で摘まみ、一方へ慣らす。
●口縁部仕上げは手を加え過ぎてはダメで、指で方向を決めたら、
 中に棒を挿入し一回、、注ぎ口下部へ癖をつける。湯切りを良くするため。
 ※棒での癖づけは、真下ではなく、取っ手に対して向う側へ一度広げる。
●このあと注ぎ口をロクロから切りはなす。
●40度のラインで切り離す。注ぎ口下部が底辺部の下方に位置する。
 そこから40のラインで上方に切り上げる。
 ※40度のラインで真っ直ぐに切れば良い。妙な弧は見た目を悪くする!!!
●取り付け位置は、注ぎ口上端が本体上端より下に。
●取り付けは注ぎ口の上端から張り付け。

●取っ手は、注ぎ口に対して、3:2で長い。1.5倍の長さ。
●取っ手の切り込みは、30度の角度。上部から本体に接着。

【造る順】
茶漉し⇒蓋のつまみ⇒本体⇒蓋⇒注ぎ口⇒取っ手
蓋につまみ接着 本体と蓋の関係は終了。

【接着等順序】
本体穴あけ⇒茶漉し挿入⇒本体底部作成⇒注ぎ口接着⇒取っ手接着


le 24 vendredi
//瀬戸⇒常滑//高速移動中、どうしても眠たくなりPAへ。20-30分深い眠りへ。
偶然にも六古窯の二つを巡るコース。それも県内の移動なのですから愛知県が如何に焼き物の産地なのか如実に示していますわ。
常滑では先日出会った素晴らしい急須を購入。
その素晴らしさは満漢全席のようで、常滑作家の層の厚さを示しています。
それでも後継者不足は深刻で、頑張る若手作家のを一つ選びました。

仕事帰り、いつもとは違う店に飲みに行く。


le 23 jeudi
//人知れずの変化が悲しい//
今日は仕事で瀬戸に行き、お昼ごはんはこの町でいただく。
旧市街の二つのアーケードのある商店街をブラリ歩き。
それは無口な僕より若干若い男性が丁寧に焙煎した豆で淹れてくれる美味しいコーヒー屋さんがありまして、まあ、それが3/18をもって閉店したということ。

新しい発見もあります。
こんな八百屋さんありましたっけ!?とLEDの鮮やかな照明で、設備更新しない他店舗とは明らかに違う。八百屋なのに1/5くらいの面積に手作り陶芸作品が売られていました。
それがですね、やややややややややっっっっっ
見たことある作風ばかり。そうです、僕が週末に行くその場所のじい様たちが、いろいろ持ち寄っているのです。 作品もそうですが、その値段設定にも興味津津。

さてと下の写真はマダム焼。

マダム黄瀬戸茶碗


マダム黄瀬戸筒茶碗。


le 22 mercredi
//気がかり// オバさんが復帰したと聞く。そのオバさんは陶芸仲間であるのだが、僕やSさんは週末陶芸家として土日に血相を変えて集中する。ところが、その叔母さんは話し相手を探すために来ているようなもので、時に困った精神状況に陥ってしまう。
でね、人に対する好き嫌いがはっきりしていて、公言したり、物が無くなれば誰それに盗まれたとか、また聞かされると思うと、気がかりと言うより懸念事項。


le 21 mardi
//義務感からの解放// 帰宅すると、もう何も出来ない。何もする気がしない。本を読むにも気が進まず、寝ようとしても、するべきことが残っていて、その気になるのを待つのですが、結局は寝てしまう。

僕は知っているのだ。眠る快感を。いや正確にいえば目覚めた時の感覚を。
それは起きている時に僕は脳を酷使しているのか、脳の神経細胞が疲弊してしまって
自己修復装置として強烈な眠気が襲う。知っているのだ。寝ている間に僕の脳はダメージを補修していると。だから起きている間は嫌なことが起こっても笑いに転じて笑ってばかり。

そう、明日、笑うために僕は眠らなければならない。今すぐ。


le 20 lundi
//道の向こうに//山があったり、山の裾野の緑が木々も鮮やかに見える街が好き。
神戸であったり岐阜や、京都もかな。
いつもとは違う道で瀬戸に向かうと、はるか向こうにでかい山が見えてくる。
それは岐阜県境なのだろう。なんか名古屋の中心街からダラダラと郊外に行くその道も
ついに濃尾平野の終焉と言うか、大名古屋都市圏も山にぶつかる、そのわくわくする感覚。

そうそう、蚊が飛び始めましたね。
困ったなぁ。足の裏に刺された時にゃ、何塗っても痒み引かないし、まして夜なら眠れないし。


le 19 dimanche
//まず最初に// 芸の世界に入って、人の死が、こうも身近に感じるものとは想像さえしていませんでした。死に至る道筋は多々あるものの、やはり早すぎるのだ。
たぶん、きっと、そういう早すぎる死に対する戸惑いは今後も何度かあるのでしょうか。

と、申すものの芸の人と殆ど接していない。この前、誰に会ったかと言うと、中国から一時的に帰国した友人の歓迎会。次に会うのは、その彼の最新帰国報告だったりして!!!


le 18 samedi
//常滑// 来週の土曜日は常滑に行きまして、存分にお話ししたあと、一つ急須を買い求めようかと思っています。思えば、陶芸に興じて二年と三カ月。名古屋は日本で最もその趣味にとって環境の良い地域なのかと、ときどき思う。常滑を散策すると、瀬戸や多治見とは違うこれまた熱い情熱の焼き物の町。


le 17 vendredi
//カワイイカワイイ// 会社帰り、可愛いワンちゃんにカワイイカワイイしてあげたら、置いていた白いカバンにオシッコをかけられた。急ぎ会社に戻り水洗いして、再び出直してカワイイカワイイ。犬好きなんだよね。

このワンちゃんにカワイイカワイイをすると何故か僕の運気が良くなるような気がする。
今回、オシッコかけられたにもかかわらず怒るどころかやり直しのカワイイカワイイなんで
きっと本当に良い事が。


le 16 jeudi
//新聞が読めない//南信州新聞が日毎溜まる。読む以前に眠たくなるからだ。読む以前にウダウダ時を過ごしたいからだ。

猛烈に眠たい。


le 15 mercredi
//ハッカスプレー//時間があったら作りましょう。 
モボの生活で、夏の暑さ対策はハッカ水と当時の雑誌の記事に載っていたとか。
ハッカは確かにスーーーっとする。スーーーとするのと冷却は同義なのか。
いくら胡椒や唐辛子で辛くなったとしても塩分がないように、涼しい感じがするだけで体温冷却とは無縁なのかもしれないし、、、どうなんでしょ。

そ、そそ。土曜日出勤。。。。。。。。。。。。。。
今週末は作陶の時間がほとんど持てない。
急須の情熱を見たのにもどかしいものです。

思うに、今のパターンを続ければ作陶の情熱は失せないでしょう。
出来ることなら連日、起きている間は没頭したいのですが、どんなに頑張っても週末に7時間×2の14時間。一年52週で364時間。
たったの364時間。。。。。。もちろん他に用事あって伺えないときもあるので300時間を確保できるかどうか。  よほど頭の中で練り上げたり思い描いたりして不足分を埋めなくてはと思う。

粘土に触れない時間は陶芸の本を読んだりが慰めですかね。


le 14 mardi
//圧倒されました// 仕事で常滑。昼休みをこの焼き物の町で過ごす。
ある器屋さんに顔を出して、まさしく圧倒、グーの音もでない完璧な急須の数々に腰を抜かしてしまいました。外人さんに、これは手作りであると言っても全く信じてもらえない精緻な作り。それも鋳込みではなく一つづつ手作りなのですから。

今の陶芸環境では、この作品はつくれないのだが、現状の制約された世界で、いかに工夫して、この精緻な世界に近づけるかが僕の課題です。

では技術的にどうかと言うと、その粘土の特徴を知った上で、一度、自力でどこまで到達できるか知りたいのですが、なかなか一日自由で作陶できる環境が常滑に無くて。


//昔の//mixi日記を読んでました。どうして、あんなに遊び更けていたのかと、どこにそんな資金力があったのかと。。。読めば読むほど不思議なのです。


//寝ても覚めても// やはり僕は作陶のことばかり。やはり、あの急須が僕を呼ぶ。
常滑に行かなくては。常滑で過ごす夜もやりましょう。


le 13 lundi
//嫌いなものが好きになり// カフェ 美術館巡り クラフト
こんな単語を聞くと、他にすることないんかい!!とあの頃は足繁く南信州の、それこそ縫うように斜面集落などを巡っていました。

ところがですよ、そんな好きでなかった文化に今、どっぷり。。。。


僕にはある口癖がある。
嫌な事柄が頭に浮かびあがると反射的に出てくる言葉。
それは無意味なようで意味があり、意味があるようで意味がない。
平常心を保つための呪いみたいなものになってしまいましたが、口癖を改めると言うか良い意味での意味がたくさんあるような。。


le 12 dimanche
//器展// 本日は終日作陶でしたが昼ごはんを瀬戸の街中で食べたついでに新世紀工芸館に行く。展示・即売会がありました。

久しい以前から、ある流れを感じ取っています。
車を所持しない階層の台頭で、では、どこで非日常の時間を過ごすかと言うと、
それは遠くではない。街中のカフェなのだ。
そして平成のカフェ文化が家庭生活にも入り込んだと思う。
自宅カフェごっこ。

それを感じ取ってか、他の陶器まつりの若手作家の作品とか見るにつけても、やはり否めない。誰も似たり寄ったり。今回の展示は、まさにそれに特化したもの。


le 11 samedi
//雨のぶらり歩き// 赤津の窯巡りに行って参りました。500円のスタンプカードを購入して六か所の窯元を巡ると2000円相当の器が貰えるという企画。4コースくらいありまして2コース制覇しました。 大変な人気らしくて例年開始一時間ほどで売り切れると言うから、二コースも巡れたのは、まさしく恵みの雨。

それから多治見で昼ご飯を食べて瀬戸で陶芸用品を買い帰宅したのが15時。お風呂入って3時間くらい昼寝もしたわけです。 今日は一日作陶から遠ざかって正解でした。明日、少し楽しみな気持ちを抱えて伺うのですから。


只今、ヘビーロータシィオン。


le 10 vendredi
//疲れが堰を切る// 四日しか働いていないのに、なんでしょう、この疲れは。昨晩は早く寝たと言うのに、帰宅して出歩く気力もありませぬ。風邪の症状ならそのせいに出来るのだけれど、そういう懸念はなくただただ疲労感が堰を切る金曜の晩。

金曜は明日からの作陶に心ときめくものだが、なんか少し距離を置きたくもある。


le 9 jeudi
//季節の変わり目かも// 最近、妙に疲れる。疲れが取れない。僕にとって、こんな症状は季節の変わり目に見ることが出来るのだが、対処法としてはおもいっきり寝て体内時計を新しい季節にリセット。  近々、早く寝て初夏の体に仕上げなくては。


週末は瀬戸に赤津に顔を出しましょう。


le 8 mercredi
//あまりに恐ろしい夢// でも、その意味するところは聖書や仏典にありそうなのです。

僕は年老いて一人で暮らしている。慎ましいながらも生活していく分の蓄えはある。
ある嵐の夜、玄関をノックする音が聞こえる。
門扉をかいくぐり家の玄関を叩くのだから警戒心も湧く。
少し開けて外を見ると、母親に濡れてびしょびしょの少女。少しして現れたのが障害のある顔をした弟。そして見えないけれど扉の向こうに父親が息を潜めている。
母は言う、一晩泊めてほしいと。

僕は考えた、扉を開けたら、乗り込んできて家は乗っ取られ僕は殺されるかもしれない。
そもそも門扉をかいくぐるのは怪しい。玄関をこれ以上開けたら無理やり入ってくる算段ではないのかと。

ここで一度目が覚め、再び眠る。

僕のした答えは、扉をあける。
その時の心境は、
  僕が警戒心から扉を閉めたら、濡れた少女は確実に死ぬ。
  僕が扉を開けたら、この家族は態度を豹変させるかもしれない。
  そして僕は殺されるだろう。
  
  でも、、、、そうなんだ、どのみち一人は確実に死ぬ。

  それなら年老いた僕が死ぬことこそ意味があるのではなかろうかと。
  僕が殺され少女が生き永らえるのなら大いなる意味があるのではなかろうかと。

  そして僕は扉を開けた。

  その後、どうなったのかは不明。まもなく目が覚める。


le 7 mardi
//寂しくなると//



le 6 lundi
//疲れが堰を切る// 連休最終日。総括です。
前半三連休は、作陶・座禅⇒作陶・作陶。
後半四連休は、作陶・作陶・法事・作陶。

作陶と法事以外の人と話すこともなし。つまり友人と会うこともない。






le 5 dimanche
//圧倒的//49日の法要で三重県へ。兄も合流。親族一同の集まりにいろいろと話も弾むのでしたが、まあ針の筵。そして兄が想像以上に立派な人間であると知り、もう居場所ありませんでした。その差は圧倒的。アメリカに刃向かう北朝鮮くらいの格差。
こんなに差があると、僕は何のために生きていてるの!?と思ってしまう。
あと、一族の歴史の裏話も聞きました。思うところ多々あり。


le 4 samedi
//実用の先に// 僕には理解できない世界がいくつか存在していて、まず一つ目は不眠症。
と、申すのは、その対極に僕がいるからです。過眠症・即眠症という言葉があるのなら適用されるくらい寝つきが良い。仕事帰りの地下鉄、座ったらまず次の駅の記憶がない。。。

で、言いたいのは二つ目、現代陶芸。

美術館で現代陶芸を見ても、さっぱり良さが分からない。
僕の陶芸論を述べさせてもらうと、それらは実用に適ったものであり、使われることを前提にアレコレ個性を吹き込む。ところが現代陶芸は、穴の開いた花瓶を良しとして展示しているようなものであり、いやいや花瓶かさえ分からない。。。題名を見たらますます????
「初めての世界」と題していたら、もうそこにはグニャグニャな、何かの「重し」にしか使えないような塊が。

ところが、その塊のどこかが評価されるのか入選され展示されているのであるから
世の中には僕には全く見えない美の尺度が存在しているのでしょう。

強いて言うなら、現代陶芸は僕にとっては置物である。それが置物以外の何かの用途に期待されるものとは到底思えない。


今半二日目。本日も作陶。本当に恐ろしい世界に足を踏み入れたものです。
前半もそうでしたが、他にやりたいことはあっても、作陶を後回しには出来ない!!と、もう立派な中毒です。  
平日は夢に出てきても仕事。週末の二日は作陶。そして夢に出てくる。
その夢を消化しなくてはならないので、全く他のことが出来ないのだ。

この連休、お天気は抜群に良いし新緑の季節。皆さん方々に出掛けられているのでしょう。
僕はと言ったら作陶と、喫茶店では南信州新聞と陶芸の本。以上。

ただね、好きなもの作っているから楽しいのだと思う。
僕がコーヒーカップやマグカップを全然作らないのは、造りたいと思わないから。
ましてや迫られるものなら楽しさは消えるのでしょう。
自由って有難いものです。


le 3 vendredi
//たっぷり粘土// 以下の写真は本日の作陶。久しぶりの大型作品。
粘土たっぷり使う心の余裕は、本来、連休に旅行などしていたらこの比ではない出費のはずだし、たまには贅沢しても良いかと。。。。
僕は、いつもは徹底した軽量化。つまりドけち作陶なのです。
複雑な形ですが、薄造りを無視していますので、自分でも驚くのですが簡単に作ることが出来ました。明日は水指ですね。




le 2 jeudi
//しょんぼり喫茶// 夜、都市生活者をして新聞を読んだり本を読んだり。
家を出る前、僕以外の人なら大喜びする話なのに、僕にとっては罪の意識と言うか申し訳ない気持ちでいっぱいになり承諾できない案件がぽろりやってきた。
これを考えると寂しいやら悲しいやら。
しょんぼり喫茶なのでした。

そういう意味では僕は無欲な人間だと思う。
夢の中では強欲な妄想をしたりしますが、いざ現実を突き付けられると
平和な生活を大切にしたいと強く思い、そんな未知の冒険なんか莫大な御車代がついたとしても、とてもじゃないけれど僕には出来ない。

つまり結婚に関して、僕は恐怖以外の何物でもないと考えている。
僕が大切にしたいのは平和な生活と、その継続。
自分の経験から申すに、それは一人でいて初めて保証されるもの。


le 1er mercredi
//とても慎ましい夢// それを叶える時間がない!!!!
今、無性にしたいのは地方都市で過ごす週末。例えば大好きな飯田を二泊三日の滞在で
そのノンビリな時間は地元民の軸に似ていると思う。
良い趣味に出会えて満足な陶芸ですが、良過ぎて他の関心に心を注ぐ余裕がない。

このジレンマは時に強烈に僕に襲いかかる。その折衷案が、例えば多治見で過ごす週末になったりする。多治見で泊まるのだが、その行き帰りには瀬戸に寄り作陶するとか。

とにかく会社員の僕にとって、どんなに陶芸に情熱を注いでも年間124日前後。
もちろん、大型の旅行とかは年に何度が控えているので、実質、100日を切るくらいでしょうか。。。

そもそも一人でいるのが好きなのだ。
上記の夢も、妄想の世界で何の制約もないのに、それは一人で過ごすことをイメージしている。僕の繰り広げられる妄想に誰かとデートしているシーンは一切ない。
だから、轆轤の回転をひたすら見ているのも飽きないのでしょうが、寂しさは無いけれども、行く時間が割けない焦りは感じてしまう。

僕が嫌悪するのは、一人でいることに平気過ぎること。これは病理の域に達していると思う。一人でいるのは好きだけれど、一向に飽きない自分に心から嫌悪するときがある。
愛だの恋だの語る素地の存在を許していないのである。

何年か前、秋に一週間くらいの休みがありました。
こっそり言うと、治療を兼ねてある試みをしたのです。
山登りと外面は良いのですが、初日、焼岳、二日目御岳山。
ともに前泊する行程で、テント張って一人で過ごす。
あの時、旅の終わりに少しだけ人恋しいと思いました。いや、正直言うと、このまま大孤独を楽しむと僕は世捨て人になるのかもと、変な恐怖に襲われて人のいる名古屋へ早く戻りたいと。。。

そして僕は言い訳をするのだ。
僕のような孤独に大きく舵を切る人間がいたとするのなら、その逆に誰かがいないと耐えられない人もいるのだろうと。誰かとサヨナラすると寂しくてしょうがない。週末一人で過ごすことが恐怖以外の何物でもない。そして寂しさの反動からベッタリと誰かに迫りつつある行動が奇異で愛だの恋だの成就しない。

と、書くと、愛だの恋だのは極端に立つ人には縁遠いものなのだと。
良い歳して、一人のままな人を観察すると、きっと極端なところに軸足を置いているのだろうと思う。誰かを受け入れるのは、誰かさんから見て奇異であってはならないのだ。その奇異なる世界を心地良いと思ったり、極端な行動の果てに毎回同じところに着地してしまう人がいたりと。。


 
 
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