令和5年5月mai.2023


le 31 mercredi 水曜日
//豊かな五月//

Severineさんの、Un banc, un arbre, une rue 。

子供時代は短いわ。

木陰のベンチや森の思い出があっても、そろそろ子供服を返す頃よ。
遅かれ早かれ、私たちは未来を切り開かなくてはならないわ。
自分で選んだ道、栄光に向かって。
私もあなたも。
地平線の向こうに歩んでいくけれど
私たちは皆心のどこかに、子供の頃の木陰の思い出を携えて。


だいたい、こんな感じの歌。

豊かな日々で満たされた5月も本日でおしまい。日記を振り返ると、なんてドラマチックな日々であったのかと目頭が熱くなります。瀬戸を去ってから、まもなく三か月。その日その日を一生懸命に過ごしまして今に至ります。

上にupした、この音楽、最近、特に繰り返して聞いています。旋律も素晴らしいのですが歌詞もまた心に迫ります。50の私が、子供に重ね合わすのですが、涙が溢れ出すこと何度も。

それにしても素晴らしい五月でした。豊かな経験の数々、これだけでも今後の人生の宝を得た思いでありますし、6月も楽しみで仕方ない。少し前の日記は修正しなければと思いますよ、と、本日は歯科でクリーニングの日でありまして口を開けながら考えていたのです。素晴らしい扉を開けたと。私の作品が、私を知る由もない人たちに、通りすがりの一瞬の出会いであっても、購入に至ることを知れたこと。  まるで黄金の果実の成る木、宝の湧く泉のように、素晴らしい仕組みを作り上げたと。これを構築したのが5月であったのかと思うと、豊かな日々であったと思います。

6月も終わる頃には、また思ってもいない事柄を羅列できる日記になっているのかと思うと、繰り返しますが、扉を開けたと思う。




le 30 mardi 火曜日
//棚板補修の日//2年に一度ほど棚板を全面補修。何事にも言えるのですが、今回はどういう風に工夫しようかと、陶芸は掃除や補修であっても、何をしても楽しい。そんな中、頭には新しい意匠が次々と湧き上がる。全くどこから見ても楽しくて、時間が足りません。

そして思ったのです。前職の頃は職責のほかに上と下に挟まれて機微な動きも必要でしたが、今はなんて簡単なのだろうと。つまり、人の心ときめく、購入したいと思ってくれる作品を作るだけ。それを人生の終わりまで突き詰めて行くだけ。幸いなのが、人の顔色を伺うのではなく、我が心の美を信念を具現化することだから、それが購入に繋がるものと一致するので、私は本当に恵まれている。
祖父母や親しか喜ばない子供の陶芸もあるけれど、私がお相手するのは、2-3秒で過ぎ去る人たち。一瞬の視界に、アニメで言ったら一コマですが、それで歩みを止めてくれるか。ですが、行き交う人の顔色ばかりうかがっては作家ではありません。私の作り出す美が、人の心に届くのか。

私は信ずる美を具現化します。それは通じるものとして一生懸命に作陶に励みますが、一つ心するのは、これらをご購入いただいた方々が、満足や所有の喜び、幸せや良き展開などを実感できるように、目の前に轆轤があっても意識はその辺りには置くべきかと。

明日から当分は作陶三昧です。出店する時も、作品をお渡しする時も窯出しする時も、もちろん作陶もですが、どうして、こんなに楽しいのでしょう。きっと魂が心底喜ぶ動きをしていると思うし、その御礼というのか、私は考えなくても答えがどんどん湧いてくる。土が語り掛けると多くの陶芸家は言いますが、心底喜んで没頭すると、きっと作家は一人ではなくなるのです。
明日が楽しみです。これから毎日全力で取り組み、良い疲れを持参して信州の湯に浸かりましょう!!!


le 29 lundi 月曜日
//再会の次は、無い//本日は午後から瀬戸。三か月ぶりです。陶生病院での搬出のため10人の仲間のうち8人が集う。次回の集合はもうありません。各自がそれぞれの道を歩み新しい人脈が出来たりして、級友に会うのはせいぜい個人的。  

11人の仲間がいて巣立ったのが10人。僕たち十人は胸の内それぞれで今後の有り様も様々。
私は、兎に角経験を積んで走りながら考える作戦ですが、人によっては機を見て一気に躍り出たり、でも、みなさんの正直なところは胸の内、熱い思いを秘めている。

明日は朝から工房を整理して、次なる焼成に向けて作陶です。


le 28 dimanche 日曜日
//今回の試練は?//どんな試練があろうとも腐らず一歩づつ前に進む。今回も何かしらの試練があると思っていました。
初出店の洗礼は浜松で受けました。二日とも売上無し。今回も場所は違えど松阪初出店。今回想定した試練は、売上はあるにしろ参加費用を埋める程度で±0円を覚悟していました。
答えは日曜の閉店15分前まで±0円でしたが、最後にお客様が現れて、天恵ですね、2500円の利益を上げました。

それでも確実に成長しています。初回は、どんなに頑張っても売上無し。二回目は±0円ライン。次回は、次回申し込み費用を捻出したら利益喪失くらいでしょうか? どの段階でも薄氷を踏む、人の心だけが頼りな商いですが成長の方向を向いていることが、兎に角ありがたい。その都度その都度、試練があって越えていきますが、人は苦労という事柄も、陶芸は有難いです、全くそんな思いを感じないのですから。


le 27 sanmedi 土曜日
//3×3//一桝3m×3m。これを二コマ使う人もいれば私のように一コマで出店の人も。今回の立地は面白く、皆に共通ですが三面が通りに面する配置。この限られた空間で、如何に店つくりをするのか、他の人の配置を見るのもとても面白い。本日も一志泊。


le 26 vendredi 金曜日
//松阪前日//明日明後日と初めての松阪。大きな車でないので余分なものは積まないように。

朝の窯出しは残念な結果に終わってしまいました。松阪へ追加するために頑張ってきたのですが、結果としては全滅。本日は津市一志町で前泊。


le 25 jeudi 木曜日
//大蒔絵展//これは余暇なのか仕事なのか。趣味と仕事が同一線に位置するようになると、本日の徳川美術館も仕事の一環になります。ですが仕事が趣味からの発展形なので、心躍る気持ちは全く以前と変わりません。これを仕事と解釈できるのは有難い限り。立派な研修です。  おそらく、今後の私は休日の動きが仕事と解釈できるので、案分は99:1で仕事と解釈できるかも。。

毎日が陶芸三昧。小さな階段を登ったら次も登って、早く立派にならなければ。昨日の日記の続きだけれど、余暇に回す利益を生み出せば良いだけという実に簡単な事であると分りました。趣味も仕事も一致すると言うことは、全力で挑めば、その推進力、驚くべきものだと思うのです。


le 24 mercredi 水曜日
//私の休日//どうやら私の休日は窯を焼き、取り出すまでの間にあるらしい。今日は、午前は買い物、午後は施釉して本焼き。頑張りました。

でも、新工房が完成したら、窯も複数体制なので、果たして私に休日は訪れるのでしょうか?好きな道を歩む決意として、陶芸で得た利益で生活する。当り前のことですが、貯蓄を切り崩して道楽に当てることは致しません。ただ、正直言いますと、まだその立ち位置に到達していません。彼是買うものも多くて、得た利益は必要経費として瞬く間に消えてしまいます。

そう考えると、前職の頃は、とんでもないシステムに身を置いていたのだと。毎月給料は支払われ上下しますが賞与もある。ですが、夢や希望を持つ者として、もう一度、あの世界に入ろうとは考えられない。そうならないためにも必死で頑張るしかありません。努力に努力を重ねるだけです。

つまり継続する努力こそが私の生活であり、陶芸の道を進む以上、これは決して変わらない日常の姿だと考えます。
「○○の季節になったから●●しましょう」 こういう糧としての根拠の無い行動は、もう出来ないと思うのですよ。それは月給取りの発想であって、●●するためには、相応の利益が、余暇に回すだけの利益があるのか、この見極めが避けられない。

ですが私は明日、一日中徳川美術館にいます。大蒔絵展を見るからです。図録も買います。これは先々創作に役立つと考えるので、心底楽しみな展示ですが、研修という名の仕事の一環です。道楽ではないが、道楽に極めて近しい行動になります。何事も、陶芸に創作に通じているかどうかなのですね。


le 23 mardi 火曜日
//語れることは//活動したから。半月前の浜松は、二日間とも全く売れませんでした。しかし両隣のお店からは「ありがとうございます」と何度も聞こえる。でも、あの時の私は腐ることなく、この経験を今、味わうべくして味わっている。それも早くに味わったのだから悲観することはない、と心に湧いてくるのでした。 この段階を超えて立派になるのだから、もう、それが訪れたのだから有難いことではないかと!!

それでも、売上あるにせよ、お客様の心ひとつ。毎回薄氷を踏む思いなので、商品を包みお渡しすることの出来る瞬間は、心に迫るものがあります。私は、これからも益々姿を変えて成長しなくてはならない。「とても努力できる人」っていう意味は、まさにコレなのだと思います。階段を一つ登っても、また登る。登って登って、最終的には天に昇るのでしょうが、各々の越えなくてはならない事柄を、知恵と工夫と溢れ出る才覚でもって楽しみながら【努力】します。努力をとてもするってのは、どんどん成長していくと言うこと。私は、これに留まる男ではないと。

人は本人の不断の努力も必要ですが、御縁を頂いて助け助けられるものだと思います。人によっては多くの友人関係・商才のある知人など様々でしょうが、私は祈りによって助け助けられる姿を見ていくのでしょう。どんな光景が広がるのか、どんな御縁を頂くのか、驕り高ぶることなく感謝をもって捧げる祈りでもって、与えられる道を進んで参りたいと思います。


le 22 lundi 月曜日
//平日の浜松//平日に店を構えるのって、どういう光景なんだろうと、本日はまた別の楽しみがありました。

一人で歩み始めた私。祈りは心の拠り所。有難いご縁を感じる販売活動ですが、その有難みを本日も御与え下さいますようにと祈っていたら、1分もしないうちに、とある老婦人が一人やってきました。これは奇跡と思える瞬間。まさに私が今ここに居る意味は、この老婦人に出会うべく一連の流れであったのだと、もう涙が溢れ出るのです。お買い上げもして下さり、さらに写真まで戴く。その写真の一枚は、5年ほど前、多分、どこかのマルシェで見た記憶があります。あの時、この写真は何だろう?とは思い眺めていました。まさに、それと同じものが今、私の手元にあります。この記憶を伝えることは出来ず、残念に思うのですが、もう、何から何まで通じるというかお導きというか、水があるべきところを当り前のように流れていくように、人生とは連綿と流れ続ける物語であって、全てに意味があるのだと実感しました。

この三日間に御縁を頂いた全ての人に、心よりの感謝を申し上げます。ありがとうございました。


le 21 dimanche 日曜日
//2-3秒//名古屋に戻っても6時間は熟睡できることが分かりました。これは良い発見。
本日もすごい人通り。他のお店にはリピーターさんが訪ねたりもしますが、私は新参者。目の前を通り過ぎる人が全てです。彼らは目的があるから歩きも早い。2-3秒で私の前から去ってしまう。それも視界の隅に私が居るのであり、瞬く間に去ってしまう。でも、この条件は乗り越えてこそ意味がある。全ての人の視界の脇に2-3秒私が存在するってのも、考えてみれば有難いことです。この2-3秒で如何に訴えるか。
私は工夫や知恵が大好きです。これを努力や苦労と見てくれる人もいますが、私は楽しく挑んでいます。今日はコレコレを変えてみようとか。その反応を知るのは私の特権ですね。


le 20 dimanche 土曜日
//ちっとも寝れませんでした//1-2時間の浅い睡眠で浜松に行きました。人の多さは驚くほど。新浜松から浜松駅の間、遠鉄百貨店本館と新館の間という一等地。
有難いことに、設営早々からお客様。前回の浜松の記憶もありますので、目頭が熱くなりました。薄氷を踏む思いだけれど、私に気が付いてくれる。新参者の私にとって、本日のお客との御縁は有難くて有難くて、心より感謝する次第。

興奮状態が継続していて、名古屋に戻る頃には熟睡できそうだと、いったん自宅に戻る。


le 19 vendredi 金曜日
//明日から三日間//浜松です。今回は浜松でも駅前の一等地。行き交う人の多さはけた違いなのですが、果たしてどうなることでしょうか?? 諸々の準備を済ませましたが、やはり前日はソワソワしますね。この前の浜松から半月、やる事はやりました。


le 18 jeudi 木曜日
//改悪//ガソリン車は車を買ってしまえば独立した城主の様なもので、それ以降、メーカーに首根っこを捕まれることもない。ところが電気自動車は、購入後もリーフなら生殺与奪の権は日産が持っている。充電カードの内容や金額も一方的に変更できる。それに抗う手段は実質持ち合わしていないので、多くのユーザーは甘んじるほかない。今回で二回目。今後も無条件にこのメーカーの電気自動車と考えていた時代もありましたが、上に挙げた構図が続く限り、考えものではあります。


le 17 mercredi 水曜日
//考える習慣//良い習慣だそうです。そう思うと、この日記ってのは私にとって偉大な存在です。最近、哲学を持つことがとても大切だと思うようになりました。何故○○するのか、何故○○なのかと哲学という自身の正義の巻物を持参できるようになると、迷いも不安も存在しなくなる。その哲学は○○哲学ではなく、自分で築きあげるものであり、そのためにも日々あれこれ考えていると、自然とまとまりも良くなり違和感が無くなったら、それが自分の哲学であると思う。

//本焼き//昼から18時まで施釉して、本焼き。窯出しは明後日かな。夏のような陽気ですが、名古屋一号窯は北側なので、まだしのげます。ところが新工房は朝から晩まで太陽が燦燦の立地なので、こりゃ暑すぎて、その辺りがとても心配です。


le 16 mardi 火曜日
//忘れる前に//凄い夢を見た。これが陶芸なら昨日の日記の続きになりましょうが、不思議です。実を言うと今朝もその前日も前職の夢。もっと不思議を言うなら、瀬戸時代の夢は全く見ない。何故か過去の夢を見るとなると例外なく前職の夢。もう何十回も。傾向としては9割以上が枝分かれしたところ。枝分かれした会社の発展した光景を見て驚いたりする夢を何十回も。さて忘れる前に今朝の夢を書きますが、それは枝ではなく幹の夢。それも若き経営者と親しく話す夢。どうやら精神的に参っているらしく、もう一度近くに居てもらえないものかとの夢。夢の中で私が驚く。これはどういうことか!!不気味というか何かの罠に思えたり、素直に受け取ることは危険だと。でも、素直に語り掛けてくるし。。。これで目が覚めた。 この強烈な夢は、何かしらの何かがあって上演されたと解釈するならば、素直に受け取るか、今、「死ね死ね」と強烈に私を罵っているのか、と考える朝でした。

//夏対策//工房にクーラーを設置すると、たちまちフィルターが目詰まりを起こしそう。それと電気は窯に注力したいし、ここはクーラーの無い暑さ対策を考えねばならない。
井戸水クーラーを考えましたが、要は熱交換を済ませた井戸水のやり場に困るので、ちょっと現実的ではない。最有力はミストファンなのですが、こちらは湿度が高くなる。

大きな素焼の筒を作ります。ここに水を入れるとじんわり染み出す。この筒に扇風機で風を当てると気化熱で室温よりは涼しい風は発生しそうだけれど、これで室温全体が冷えるとは考えられない。
例えば工房全体を40度から28度に下げようとすると電気代が驚く高さになると思う。上記のミストファンや素焼筒で、湿度は高くなりますが35度まで下げて、35度から30度までクーラーに頼るのが現実的なのかしら??そこらへんの計算が出来ません。そもそも40⇒35度に下がるのかさえ疑問だし。


le 15 lundi 月曜日
//ある青年に思いを寄せる//母と子の生活。父性の欠損は心に重いのか、おふくろ孝行に月日が過ぎていく。健全であり仕事に懸命で、唯一の趣味は自転車。彼を知って眺めてみると、その欠損は心に残るものがあるにせよ口にすることも態度に現わすこともない。健全で懸命、そして聡明。
豊かさは彼が勤労の結果に得るものであり、ようやく少しづつ、である。
 人には全くどうすることもできない組み合わせがあって、この枠の中で成長し、その枠との付き合い方を成長と共に選択するのだろう。彼は他の何かを選ぼうともせず、おふくろ孝行を欠かさない。それが父性の欠損も関わってのことだと思うと、一回りも二回りも大きな運命を背負いながらも、何かしら想像してしまう寂しささえも感じさせずに凛としているところなど、感銘するところは実に大きい。

//有難いし、幸せである//前職の頃、赤いボールペンを持ちながら足を組み難しい顔をして何か考えているような、その頭の中は、陶芸。あの頃、寝ても覚めても陶芸のことばかりでしたが、現実は目の前にするべき仕事があった。思いと現実の乖離。それを思うと、今、思いと現実は乖離しているように思っても、それは程度の差であって同一線上であり、別の言い方をすれば一人作戦会議みたいなものである。この一致、通じる道など、本当にありがたい。どんなに考えたにせよ【よそ事】ではない、これは何たる強みであろうか。

ただ、前にも言いましたが、私と共に精進している陶芸家は、生半可な思いではなく、夢の中までリアルに鮮やかに映像化して、それで来る日を待ち受けるのかと思うと、私は、もっともっと没頭して狂人に似た感覚の持ち主であって丁度良いのだろう。常に美しい形、それを作り出す工程など細部まで鮮やかに生き生きと映像化し、現実の私はここに居るのに、覆っている世界はまるで違う陶芸の世界、このくらいの日常でありたい。

そういう、ある種の【狂い】の向こうに、次元の高い領域があると思うからこそ、芸術家気取りは時に薬物の力を借りて、向こうの世界を覗こうとする。それは、まったく芸術の才の無い人間のする惨めな敵前逃亡のような姿であると思うからこそ、私は正攻法でその領域に達するように、精進して追い込んでいきたい。ただ、その素養はあると思っています。好きで好きで仕方なく、別に言うなら、その他のことが全く下らなく思えてしまう。昔の日記を読んでいても、家から一歩も出ていないとか、陶芸以外の支出が無いとか、それでいて深い充足感があったとか、今でも全く同じ思いなのです。

正しい努力で、一流の人が見ている感覚を共有したいし、その感覚で語り合いたい。


le 14 dimanche 日曜日
//エンベル・ホッジャ//鎖国時代のアルバニアの映像を見るのが密やかな楽しみ。
発展するアルバニアの対外宣伝映画⇒  
実態は欧州の最貧国でしたが。

色んな動画を見て発見したのですが、例えばアルバニア労働党大会などの映像では、同国最大の大会堂を使用すると思われるのですが、それがとても小さい。エンベルホッジャの独裁国家であり、特にこういう場合、桁違いの大きな大会堂を用いるのがソ連・中国・北朝鮮に共通しています。どうやら、これ以外の大会堂は無いらしくアルバニアの精一杯を感じるところに面白味を覚えます。

本日も朝から晩まで作業場に籠る。とりあえず今回はここまでとして乾燥したら素焼に回します。
それにしても幸いなのは、作りたい形状が次々沸いてくる。今は制作に制限もありますが、いづれ爆発的に表現したいものだと。


le 13 samedi 土曜日
//何の花粉?//くしゃみ・鼻水・目のかゆみ。何かの花粉が漂っている。ただし身体は異物侵入と判断して抗体反応を示し始めたように思える。

今、新しい作品作りが面白いのですが、いかんせん時間が足りない。新工房が出来たら大胆に始めます。そういう夢はますます細部まで鮮やかになっています。
夢は土から美と価値を。蒔絵のような表現を。

今晩は少し早く寝るとしましょう。


le 12 vendredi 金曜日
//大経営者//作業場では7時間超の朗読を聴きながら作業。京セラ創業者の稲盛さんの『生き方』まるまる一冊。肝っ玉の座り方が全く違います。大経営者には、それなりの胆力ってのが備わっているのですね。

//寝ても覚めても、夢の中でも//まだ自宅工房が無かったころ陶芸は週末のみ。あの頃、強烈に陶芸欲が湧いていて、夢の中でも色々と考えていました。今、あの頃の情熱はあるのだろうか?毎日8時間とか専念できるから、それで満足?? だとしたら、私もそこまでの人よ。

圧倒的に強烈な情熱があって、全力で取り組んでも全く追いつかない。常日頃から、この位の感覚でなければならない。心の中では作りたい形が存在する。いち早くこれを具現化して、さらに発展していくようにしなければ。


le 11 jeudi 木曜日
//志は高く//結婚することもなければ遺伝子を残すわけでもなく、私はいつの日か肉体的限界を迎えるのであるが、どうしてこのような道を選んだのだろうか?と自問自答し、何年か前に日記に的確に書きました。それが何月何日なのか思い出せませんでしたが、あの考えをすっかり忘れていました。今一度、思い起こしてさらに昇華して。そう、志は高く。

実は人の事とか、どう思われているとか気にしない性格で、例えば、私にとって憧れの陶芸家はいない。参考にする陶芸家も同じです。作風も作家像も。
 ところが唯一の例外がありまして、彼だけは心底感嘆し憧れる。年下ではありますが師であり、なるべく情報の接点を持とうと心がけています。作風も作家像も人間味も心底惚れ込むというか、彼は芸術の思想家。全ての根柢に潜む辺りの存在から惚れ込んでいます。
 いつの日かインタビューを受けることがあったら、好きな陶芸家・憧れの陶芸家はいません。ただ心底尊敬する芸術家はいます。と応えるでしょう。あの若き大芸術家と、いつか接点が持てれたらと、これを心に思いながら、明日も活動を頑張らねば。


le 10 mercredi 水曜日
//喫煙者について//朝、40分程度の健康体操を家の前の公園でします。一周1kmの池を二周と健康体操。ここで日課にしているのはゴミ拾い。

さて私は世の喫煙者を分析しなくてはならない。喫煙者は減っているのに、タバコのポイ捨ては毎日のように出てくる。この現実を考えると、喫煙者のかなりの割合はポイ捨てを行っている。この考えに行きつきます。お菓子の袋やマスクなど色んなゴミを拾いますが、毎日一番多く拾えるのがタバコの吸い殻。同じコースを歩いていて、この現実ですから、喫煙者は躊躇うことなくポイポイ捨てていることになります。電子タバコでポイ捨てが火事の原因にならないお気軽さも捨てる要因なのでしょうか? 割り箸なら分解されるけどタバコのフィルターを微生物は食べない。これが嫌なのでゴミ拾いをしていますが、先日、遠州灘に行きましたら、貝殻よりもプラスチックごみの方が多いです。

いっそのことタバコは葉巻か煙管だけにしてほしいです。


le 9 mardi 火曜日
//私を代表するもの//サムネイルに一枚の写真を掲載して、それだけを見て、私と判別されるような形。奇異な形状ではなく、なのに他者とは違う形。

自分に形や表現を探すのと同じく、良き刺激は沢山受けるべきである。陽の当たらない洞窟で自分だけの時間や空間がある自由は劣化の指定席だと思う。時間は削られたにせよ、もっと美しいものに接したり刺激を受けた方が、遥かに健全で健康的であると思う。

そうそう、私は自分の道を再設定した訳ですが、この選びし道が世のためにあるべきであり、それが目的でなければならない。好きなことに没頭しても、大前提を見失うようでは、そんな次元の低いことに執着する必要もない、となる。

【小さくても志は高く】 
その志は大それたものなのですが、それは私の胸の内にしまうとしても忘れてはならない。公言しなくても持ち続けるべきである。それでも言うならば【小さくても志は高く】これに集約されます。


le 8 lundi 月曜日
//香炉とか//久しぶりに作りました。新工房が出来たら、香炉や飾り箱のように、用とオブジェの良き頃合いのある作品を沢山作りたい。今週はたくさん作って来週頭に素焼、それから本焼きと、まずは作品をどんどん作りましょう。

//膨らました紙風船//を遠くに移動させようとすると、握っては本末転倒、萎んでしまう。この場合、掌に乗せるか、柔らかく掴むほかない。ホンワカしていることだけど、移動の神経は後者の方が勝る。前者は握力だけで、中身はクチャクチャ。案外、人の思いも同じで、勇ましいスローガンを叫ぶより、心に温かく持ち続ける人の方が、高い確率で達成するように思える。

//座禅//最近、日に何度か座禅をしている。前は朝に一度だったのに。これは私の話し相手だと思うのです。本来は瞑想なのですが、目的が座禅して私が私に相談したり話したり作戦会議。きっと、これから一人を突き詰めると、座禅は回数も長さも増えていくのでしょう。


le 7 dimanche 日曜日
//梅雨のような//今年は季節の進みが早い。なんだか梅雨のような雨です。

//一周年!!!!!//俗に言うオートファジーを初めて一年が経過しました。一日のうち16時間程の断食時間を設ける生活。この断食の間に身体が諸々正常化の方向に動いたと実感。
まず、尿酸値の値が正常範囲に納まりました。お腹の出っ張りも、内臓脂肪も燃えたと思います。残るは中性脂肪の値を下げるのみとなりましたよ。

内容としては朝食を抜く生活なのですが、感覚的にも良い方向に進んでいると思います。午前中が不活発でもなく、朝から聡明で健康的で、この間、免疫も強く風邪一つ引くこともありませんでした。

考えてみると、これに関しては日記に書いていなかったと思います。何でもスラスラ書いている毎日ですが、思えば不思議なことですが、案外、この事後報告ってのも達成感もありますし良いものですね。


le 6 samedi 土曜日
//老大道芸人//浜松二日目に大河ドラマの主役が同じ浜松城にやってきました。その到来は女性たちの歓声によって知ることができ、11時でありました。私たちの場所と大河ドラマ展示館は200m程の距離ですが高低差があって歓声で知ったのです。その歓声によって私たちの広場の人たちも一斉にあちらへ移動。

11時、老大道芸人のパフォーマンスの時間です。目の前には何も知らない子供が1-2人。なのに老人は前日と同じように、全く手を抜くわけなく心を込めて、文字通り道化師になっても仕事をやり終えました。私は店からそれを見ていたのですが、心に迫るものを感じまして、これを見るために、この尊さを知るために浜松に来たのだと深く思ったのです。正直言いましょう、私も、両日とも一個も売れませんでした。浜松まつりで人の流れが変わったと、近隣の人も言うのですが、それでもお隣りさんからは「ありがとうございました」との声を何度も聞きましたが、私の売り上げと言ったら0円。次の日は違うだろうと期待しても0円。

この日記で嘘を言っても仕方ないので正直書きますが、二日続けての0円、浜松での経験は貴重なものでした。充足感に満たされて帰路に着いたことは記します。動じないというか達観しているところがあって、この0円の事実から逃げたら、それでお仕舞だと思っています。越えなくてはならない壁が、予想より早く来ただけだと。それと私にとっては、この老大道芸人の姿をこれより先の人生において、決して忘れてはならないと、ただそれを知るために浜松に招かれたのだと思っています。

これから先、0円という日が遠い思い出になったにせよ、あの老大道芸人の尊さを、仕事に対する真摯な気持ちを私は決して忘れてはならない。どんな状況に置かれようが、自らの道に対する真心を忘れてはならない。


le 5 vendredi 金曜日
//浜松最終日//昨日より30分早く帰宅。書く気力が無いので、明日以降詳しく。大河ドラマの主人公が浜松城へ。ただならぬ歓声が聞こえてきて、スターってのは、こういうものかと。彼が嵐のメンバーだとは今日知りました。芸能界って、昔から疎いのです。関心が全く湧かない。


le 4 jeudi 木曜日
//浜松初日//浜松祭も同時開催で、ラッパの音が聞こえる。お囃子ではなく、消防団の軍隊じみたラッパのリズム。これが浜松まつりの「音」  中田島砂丘では凧あげ。大浜松最大のお祭りで、街の熱気が伝わりました。一日中、5月の風を受け、帰宅したのは21時前。この浜松の件に関しては、追って詳しく書きます。


le 3 mercredi 水曜日
//踊るなら//もっと個性的で芸術的な創作的なものを発信すれば良いのに、誰かが作り上げた作法を、そのまま真似てネットにアップしている。流行らしい。大の大人もつるんで全く同じ動画をアップ。  

時間をかけて、ましてや誰かを誘ってまでして何かをするのなら、真似事ではなく、リズムは同じでも、本家にギャフンと言わせるくらいの創作的な集りは出てこないものかと期待するのですが、どうやら価値はそこにはなくて、寸分違わぬ真似事にあるらしい。これぞ【踊らされている!】って事なのに。
私にとって尊敬する人、関心の向く人は、その人から独特な何かを得られる人。そんな時間があるなら、別なるダンスをしてやるわい!と一人違うダンスの創作に軸足を向ける人。

来月51歳になります。自分が芸でいる意味が良く分からなくなってきました。趣向が変わったのではなく、全く接点がないからです。(未だに誰とも付き合ったことがありません) その世界に居場所を求めるのではなく、その世界に上述したような感性の持ち主が存在していて、その人との出会い、という我が儘過ぎる注文をしているので、全く接点がなく51歳になろうとしています。でも、この注文は密かに持ち続けるので私の人生に伴侶なる人物は、現れるような気が全くしません。ただ、ぼんやり潮流を眺めるだけで、私はまた人と違った事をして毎日が過ぎるのでしょう。そしてそれはより美しい道でなければと思います。


le 2 mardi 火曜日
//一番休んだかな//2時間ほど仕事しただけ。怠惰が癖になってはおしまいなので、時間調整的な日にあっては釉薬の勉強などしなければ。それは明日になります。

//浅い過去を褒めよう!!//大昔の恥ずかしいことや悔しいことなどを思い出し、今に無意味な不愉快を再生産する私の悪い癖。思い起こして、これが良い結果をもたらすなら大歓迎ですが、そんな例は一度もないし、もしかすると幸運さえ逃してしまったように思える。そうだと分っていても、湧き上がってしまい、暫く付き合う悪弊。だから、最近の事、あの時、この選択をして道が開けたとか、記憶も鮮やかな浅い過去の選択を思い起こして褒めてあげようかと。それでもって悪い癖をもぐら叩きのように抑え込むと。
//ただ//私はより良き選択を続けるべきで、まずは上段の過去を誉めてあげて、そのあとに改善点などもあろうし、より良き姿を思い描く。この二段構えで悪弊を断ち切ろうかと思います。

//最新の時間とは//宇宙ってビッグバンから出来ているとすると、最も最新の際ってのは、今まさに拡大しようと飲み込んでいるところ。まるで津波の到達点が宇宙の最新であるとします。さて地球の最新はというと、「今」ですよね。ここで疑問なのですが、上に挙げた二つの最新ポイントで測定する時刻ってのは、森羅万象、最も最新であって同じ値なのでしょうか?????????

何か感覚的に言って違う気がします。何故かというと、もし同じなら、私たちが今生きているこの瞬間が大宇宙の最新の値であり、大宇宙の先頭走者で追い抜かれることなく、常に一番であると言えてしまうからです。こんなに烏滸がましいことはないし、こんな奇跡を毎日浴び続けていることも、絶対あり得ないと思うのです。

ここで考えをまとめると、地球の最新は今であったとしても、宇宙の最新ではない。
さらに考えを深めまして、地球よりビッグバンの起点に近い星にしましょう、この星の最新も、その星の今なのでしょうが、地球の今より、古く成熟した最新であるはずです。

宇宙を長い物差しで例えるなら、ビッグバンの起点は0だとすると、1mmの星の時間は、1mmの印から延びはじめ、地球なら15mmだとすると、1mm星より遅れて、地球時間が成長する。そして宇宙の端は1000mm地点だとしても、明日には1005mmになっている。そのそれぞれの地点から時間の根が成長し、地球で言うなら、その根の先端に私が存在するのだけれど、宇宙物差しで考えれば、決して先頭集団に位置するわけでもない。

こう考えると、今というのか未来や過去も不思議な存在です。もし地球より0に近い所に知的生命体が存在して地球を観察するなら、地球の最新は、歴史教科書を読むみたいに余裕をもって観察できる立場。もちろん、人間に能力があって新しい外側の星を観察しても同じことです。30階に住む者が、5階の屋根を見るように、5階星には最新のことでも、遥か遠くから余裕をもって観察している存在があるのです。

さらに疑問です。では30階と5階の間の25階分は、一体何になるのでしょうか?いきなり無の世界であるとは思えません。
実は今の地球人には5階に思えても、30階の住人からすれば、地球を観測するのに時間がかかって(この間、地球も成長して)地球の最新は15階であって、5階は過去の一断片として認識しているのかも。つまり30階星からすれば地球の最新は15階である。なのに地球の今は5階の屋根。私は、地球の今を生きているのでしょうが、確実に未来があって、観察者は、地球の現代人を過去の人間として見ていることでしょう。

読み返して思いましたが、最新の時間とは新しい古いではなく、存在の厚み、浅いか深いかに寄るものだと思います。赤ちゃんと100歳の老人の今は、今に至るまでの存在の厚みで計測され、だから老人は赤ちゃんを、まるでこの先どうなるのか分る感覚で接するのですが、赤ちゃんにとっては全てが未知である。


今日の結論としては、今を一生懸命に生き、未来を思う(5階の)私ですが、仮に観察者がいたとしたら、彼は全てを知っていて、会話が出来るなら、こうあるべきだと教えてくれる確固たる存在。未来は存在するけれど私には見えない。観察者は私を「今の人」とは思ってくれない。


le 1er lundi 月曜日
//今出来ることで今を過ごす//今、表現できないものは、時期が来たら爆発的に。おそらく魂の奥底にある思いは、これなのでしょう。私の肉体は名古屋ですが、魂はまだ作り始めてもいませんが新工房にてその完成を待っている。

人との出会いも、この新しい道において展開されるのでしょう。よって今に拘らなくてよい。今すべきことは、今成し得ることを一生懸命にするだけで、きっと今できる表現も今限定になるのかもしれない。つまり今御縁が無い人ってのは、それで良いのだと思う。成るべくして縁無き人ってのも当然存在しうるものである。

 
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