令和6年11月novembre.2024 le 30 samedi 土曜日 //閃き//明日最後の素焼きをします。夕方お風呂に入る直前、この形を作ろう!!と電流が。こういう閃きには素直に従うもので生産性が全く違います。絵図面もないのに、スラスラと出来上がるから不思議。明日の朝続きをしまして、午後から窯詰の、最も差し迫った環境での閃き。 忙中閑ありという言葉が好きです。忙しいのですが、今はというと、これから本でも読もうかと思います。もうね、世の中が何曜日なのか、そのリズムと関係ないので、出店か制作かの色分けで毎日を過ごしています。 le 29 vendredi 金曜日 //サトーのイクちゃん//一転、今日は忙しい一日になりました。朝、皆さんと同じ時刻に地下鉄に乗る。そして25年使い続けた国際センターで下車。ですが私は北に進路を取りましてサトーのイクちゃんへ、包装資材の調達ですね。それから名古屋駅までは朝の散歩をして地下鉄に乗り9時過ぎには帰宅。 帰宅したら先行施釉。そして窯出し、即窯詰め。それから間髪入れず、外出の準備をしまして15時の地下鉄に乗り古書店巡り。 朝の地下鉄では不思議な感覚に陥りました。私も、この決断をしなければ、大きな川の流れに身を任せていたのだろうと、朝のラッシュに思うのです。 le 28 jeudi 木曜日 //頑張ってはならない//本日はイマイチ制作す気が湧かず。夕食後、制作したのですが、全く出来ないのです。基礎の基礎、こんな単純な形なのに2時間ほど取り組んだのですが全滅。つまり本日は頑張ってはならない日、休めと告げられた日なのに抵抗した挙句、散々な結果に。 乗り気に乗ると驚くべき生産性を上げます。その逆もあるということです。要は、そういう波に抗うことなく乗りまして、本日の場合なら安息することに素直になるべきでした。 le 27 mercredi 水曜日 //順を追う//本日の窯出しで素晴しい焼き上がりがありました。常に新しい実験を加味していますが、その中から一つ芽が出ました。ですが、これは一旦中断していた続きの実験なのですが、思うに、成功も今この時期だからこそ意味があるのだと思うのです。 そして強く思うのが、技量やセンスの競い合いではなく、夢中の競い合いだと。各自が取り組む対象にどれだけ夢中でいられるかの競い合い。瀬戸時代、11名の仲間は1人脱落し10名で卒業。この10名も陶芸に向き合う熱量は様々で、この後、浮き沈みがあるとすれは、個人の情熱に比例すると思うのです。技術やセンスは情熱の付属品であり、才能があっても夢中が持続しないと陶芸の領域から飛ばされるかと。陶芸は人を惹きつける魅力はあるものの、この世界で生きるとすると遠心力が働きます。軽い気持ちでいるならば飛ばされてしまいます。ただ救いなのは、技術やセンスは付属品で情熱(夢中)の競い合いなのだから、平等でもある。 le 26 mardi 火曜日 //久しぶりの嵐//只今、テストピース兼、長板皿を作っています。100個位作っていますが、作り方のコツを、嗚呼なるほどと、段階を経ながら数次に亘って得ています。技術を身に付けるには、出来た!!と喜んだところが出発点で、同じものを100個作ると、技法のコツが何回か発見できるのです。でも名人と言われる人は10万回とか繰り返しての知見なので、もっと高度なコツを得ているのでしょう。 本日は夕方から雨が降り出して夜には嵐。 昼食後、ゴミ拾い散歩。最近、ポイ捨てではなく家庭ごみの不法投棄を見かけます。それで私が片付けるものだから、犯人は同じところに捨て続ける。以前の私は、そろそろこの辺りで相手方に呪いを掛けて、捨てることさえできない生活激変の到来を宣したりもするのですが、今回は、ニコニコと本来アナタが受けるべき幸運は私が引き受けますので、このゴミを拾います、と宣言。明日からも投棄が続くかもしれませんが、こちらの心一つで引き続き楽しい散歩になりそうです。 le 25 lundi 月曜日 //イネ科//乾燥したレモングラスを頂きました。それをお茶にして飲んだわけですが、藁そっくりと思って調べたら、同じイネ科だとのこと。香り良く効能も多く、嗜好品になりますね。 本日は朝の6:30から3時間、制作。それから多治見に行き棚板を購入して14時ごろ帰宅。間髪入れず窯出し、施釉、窯詰め、本焼き。明日は窯の排熱を利用して制作しましょう。 le 24 dimanche 日曜日 //もう一回//もう一回だけ素焼をしましょう。もう少しだけ追い込みで作ります。 中山晋平の砂山という唱歌は秀逸ですね。子供の歌なのに美しく寂しいところを感じるのです。 //下らない妄想//釉薬を掛けたりしていると、不意に下らない妄想をしてしまいます。下らない人間ドラマというか、特に下らないと思うのは、過去の再現ではなく人間関係をそっくりそのまま移動させ新しい架空の話を展開しているのです。止めても止めても次々と湧いてくるので困ったりもいています。さて、5分前に思ったことなので、これを書いているのですが、このような下らない妄想を一掃するには、過去の人間関係を断ち切るというと大袈裟ですが、過ぎてしまった人々に思いを馳せない。人間関係に限らず、過ぎてしまった事は過日のように目の前に現れることも無いのだから、可能性0の領域に価値を見出す必要は全く無いと。私は、人の名前を覚えるのが苦手で、忘れるのも早い。これは克服すべきことだと思っていましたが、まさに、この感覚で良いのだと思う。 過ぎた人間関係が、また同じように私の目の前で展開されることなど0%なのだから、意味なきことに思い煩う無意味さを痛感するべきである。ただでさえ時間が無いと言うのだし、頭の中で無意味劇場を展開してどうするよ。 le 23 samedi 土曜日 //午前11:30// 本日は朝から新工房。11:30に近くの防災無線からオルゴールの音が。来年は、制作の合間に聞くことになるのでしょう。それで不意に胸が熱くなったり幸せを実感したりもすることでしょう。 le 22 vendredi 金曜日 //晴れマークなのに//日本海から冬の雲が流れ込みまして曇天。それで気象庁のアプリを見ても名古屋は晴れマーク????。本日は乾燥が進まず追い込みの制作は当初の半分程度になりました。 【そして闘争は続く】この動画も好きです。カメラ一台で、この表現。 le 21 jeudi 木曜日 //信州お野菜特別便//いつもありがとうございます。レモングラスのお茶、明日飲むことにしますが楽しみです。 土曜日に最後の素焼き窯。と、いうことは追加で作れるのも明日迄。時間はあってないようなものだから、てきぱきとこなしましょう。 //年齢とは??//只今、52歳ですが引き続き勤めていたなら、60歳まであと何年と50代は年齢を気にして生きていくのかと思います。ところが現実は全く気にせず、若者のような感覚です。このからくりは、勤めていたら定年というゴールがあるのでカウントダウン。ところが今の私は陶芸家の駆け出しであり、少し前に動き出したばかりで進むしかありません。この感覚になると、今が一番若いので、若者のような感覚になるのです。だから老いてきたとかの感覚もなく、兎に角、アレもコレも成し遂げ技量を高めてと、陶芸山の登山道を登り始めたばかりで、息も弾ませ毎日を過ごしています。 新しいことを始めると、今が一番幼いとなります。私の陶芸の感覚は、まだこの領域なのです。私も老いたとか老齢の域だと思い始めたら、新しい何かを始める頃なのかもしれません。 le 20 mercredi 水曜日 //明日から三周//本日の作業量は散々でした。時間としては終日専念しているのに、迷いながら作っていたので、結果としては1時間程度の出来。。。。 さて明日から公園ウォーキングを三周にします。二周はゴミ拾い、三周目は爽やかウォーキング。こうでもしないと陶芸以外のことを全く致しませんので、一周追加。時間ないのにって言われそうですが、確かに時間はいつも足りませんが陶芸家と足腰の劣化は強い連関があると思っていますので、将来の時間確保のための投資と考えるようにしました。 le 19 mardi 火曜日 //あとは釉薬の発色だけ//本日も長皿を作る。ようやく歪みの無い乾燥が出来るようになりまして、あとは釉薬が素晴らしい出来になれば、相当なインパクトがあるように思います。自分を代表する作品は何本か、柱を用意しなくてはならない。1本2本では家は建たない。三本では空間が歪。やはり4本は求められる形状を確立すべきだと考えます。 本日の公園散歩。少し目を他に向けたら、道路に踏みつぶされた段ボールのゴミがありまして回収しました。それは昔私が納品したことのある会社のロゴがありまして、もしかすると因果な段ボールなのかもしれません。なんだか心的に一つの区切りを感じます。 le 18 lundi 月曜日 //技術と情熱//陶芸は技術の枠内でしか表現できない。急須を作れる技術があるから、急須が焼き上がる。長い視点を持つならば、引出しの多い作家になるべきで飽きられたらお終いな単発作家は脆い。でも、最初は単発であって、それさえも見向きもされない。一向に見向きもされないけれど、情熱でもって扉を開ける。まずは一つの扉を開けてこその陶芸人生なのだと思う。 絶対に挫折しない情熱と、絶え間なき美への挑戦。 これは身体に鞭打って挑むものではなく、対象が、私の場合なら陶芸ですが、陶芸が心底好きであるか。好きの度合いが並外れているか、全く色褪せることなく夢中が継続するか。人生の全てを陶芸に捧げられるか。この情熱があって、はじめて他の陶芸家と同じ土俵で巡業できると思う。これが基準で、更に個々人が何を熱く語れるか。 だから、他人との比較とか、どう思われているとか、あちらの評判とか内実とか、そんな無駄な妄想や思いが頭にあるなら、それだけで土俵から脱落すると思う。24時間のうちに、そんな無駄な時間は無いはずであり、それこそ妄想している相手方の内心に、こんな程度の低い時間はあるのかと言えば、思い浮かべる暇もなく忙しくしているはずである。 le 17 dimanche 日曜日 //夢中の効用//陶芸が好きで好きで仕方ありません。毎日続けていても大好きです。今日も朝から晩まで、昼食後、公園を二周歩いた以外は専念して、只今クタクタなわけですが、日曜日らしからぬ過ごし方をしたわけですが、夢中は一切の不満とかを消し去る。ただただ楽しい時間でした。 le 16 samedi 土曜日 //有るようで無いもの//時間。この11月は制作に専念できる期間なのですが、やはり時間は足りません。何かしらの気晴らしでも出来るかと思ったのですが、やはり後回しにしなければなりません。 明日も朝から土を変えて制作です。 //理は、常に変換している//本日の公園散歩でカラスが何かを食べていた。そして飛び立った。リンゴが木から落ちて重力の存在に気が付くように、この瞬間の光景で、命あるものは継続した変換により、命として存在するのだと気が付きました。何かを食べ我が血肉と成す。植物でも同じです。生きるということは変換すること。この変換量が、命の輝きであり、文明や文化でも有ると思う。 単純な生命では変換は生きるための枠内ですが、万物の霊長たる我々は食べるだけの存在ではありません。両の手から頭脳や感性、努力から、血肉以外にも変換している。私は陶芸で魂を謳歌すると決めたので、両の手から、粘土から作品を産み出していくのだし、この変換量こそが謳歌の度合いでもあると思う。この場合の変換量はただ大きな土管でもってその度合いを測るのではなく、小さな粘土の塊でも我が手を通して人の寶になるくらいの変化の量であります。人間以外は、自身の生命活動にしか変換活動をしませんが、人間に産まれてきた以上は、血肉以外の盛んな変換活動こそが魂の輝きなのでしょう。 le 15 vendredi 金曜日 //増産//明日から集中的に長板皿を作ろうと思います。ただ雨が続くとのことで乾燥が滞るのが出鼻挫かれる感覚で、困ったものです。何とかして素晴しい長板皿を量産したい。 と、こんな感覚になったのが先程なので、明日は朝から、知恵と工夫で前進しましょう。 魂に揺ぎ無い信念があるなら、これを具現化させるたの諸々は天が差配してくれるでしょう。そういう衝動に駆られた!!と思うタイミングも天の差配。遅くもなく早くもなく、このタイミングが最善なのだと思う。そうと分かったら、明日は朝からこの思いを裏切ることなく頑張らねば。 le 14 jeudi 木曜日 //大切な粘土//作家によっては、一個売れたら粘土なんて簡単に買えるのだから、粘土カスを集めて再生するなんて時間の無駄と、ポイポイ捨てる人がいます。一方の私ですが、決まったバケツで手を洗い、沈殿した粘土さえも回収する落穂拾い型作家。本日は、古い粘土を再生しました。3時間ほど要しながらの再生です。ある意味、経済合理性に反しますが、どうしても使えてしまうものは回収したくなるのです。この性分は治らないと思います。 本日は名古屋市長選挙の期日前投票。父上にとっては小旅行みたいなもので、ヨタヨタ歩きなのですが外でお食事をする日でもあります。 le 13 mercredi 水曜日 //慰め//耳に届く時、深い情緒を覚えますし、心に染み入る慰めにもなります。 防災無線から流れるオルゴールの音が好きです。旅先などで不意に聞く時など、良い時間を過ごしているものだと。youtubeでは各自治体の様々な防災無線が紹介されています。新工房では、指定の時間に流れるような工夫もしてみたいです。 ちなみに、このソビエトの曲も好きでして、工房の掃除の音楽?始業の音楽?とにかく何かに使用したいのです。 本日は朝から晩まで施釉。何かしら実験も加え、小さな窯なのに色々な釉薬を用いるので一日仕事になります。一つの釉薬にしたなら圧倒的な時間短縮も可能なのですが、結晶釉は全滅する時は全滅するのでリスク回避の意味合いもあります。 le 12 mardi 火曜日 //入れ替え//本日はメダカちゃんの水の入れ替え。。やはり底の水は臭いものがありまして、先程アマゾンでソーラー式のエアポンプを買いました。 //情熱の競い合い//数多といる陶芸家、私たちは作る形は違っても、技量の面では一般人のそれよりかは上回っている。思うのは技量の競い合いではなく、情熱の競い合いだと。と、申しますのは、やはり作る形が違うので、同じ100m走をするのではなく、私は走り幅跳びで、あの人は棒高跳び。ただ、各自挑む競技にどれほどの情熱を注げるかが、頭角を現せるかどうかの違いになってくるのだと思う。 何かの待ち時間で挑むのなら、結局はその程度になるのだろう。朝から晩まで、年中、夢の中でも、交友関係を削ぎ落してでも制作時間に充てたい、言い換えるなら鬼気迫る情熱があるかどうかだと思う。 クタクタになるまで頑張って、寝る時は陶芸の神様に感謝して、次に気が付くのは、朝。 le 11 lundi 月曜日 //イマ1イマ2//久々の窯出し、驚くような焼き上がりもなく、残念でした。明日は焼き上がりをじっくり検証して、施釉に問題あるなら改善せねば。 何度も言うことですが、人の縁は散らばったマッチ。マッチの芯がその人で、棒の向きはその人の生き方。たまたま近くにいるだけで、時が経てば別々の道を歩むもの。価値観は同じではないのだから、二人の間は大きくなって当然である。親しいと思っても、それはたまたま近接した者の中から相性が良かっただけで、これからも一緒であるとは限らない。ところが逆に考えれば今はまだ見ぬ人が、確実に私の人生に近接するのも確かな事。 つまり、親しかった人との何と無くやってきた別れとかがある場合、それに悲嘆しても意味がない。そういう別れがあるということは、確実に新しい出会いもあるわけである。ただ、常に流転しているので、永続だけがあり得ないのだ。 私の価値観と言えば、陶芸で魂を謳歌する!!!である。だから、これに並走する人など現れないと覚悟しています。時たまクロスするかのように、親しき間柄があったとしても彗星のごとく消えてしまう存在なのだ。ただ、一つの彗星が去った時、私も少し新しい境地に到達したり成長しているのだろうと、輪郭の無い期待感もありまして、ここが私の強さでもあると思う。 物事は単純に考えても良いのだと思う。いろいろ過誤無き人生行路を探し求めるよりも、私の場合だったら、陶芸で魂を謳歌する!!であるが、この単純な言葉に従って夢中で楽しく魂を輝かせ、この軸で展開される人生の光景を素直に受け入れるだけのことである。結果的には、この軸こそ過誤無き人生の行路だと思う。要諦は、人生の軸を単純に表現できるか。その単純な言葉の枠内に魂の無限の広がり、壮大な世界があるなら、没頭すれば良いだけであるから、実に単純である。誰がどうだの、何時かのあの人がどうだの、世間だ嗚呼だの、全く意味なき存在になる。 le 10 dimanche 日曜日 //日記//来年の10/10には、このHP日記を書いて25年になります。後日まとめて書き上げる時期もありましたが、この間一日も欠かさず日記を書いています。 時に、昔の日記を読んだりもします。自分が書いただけはあり、その時の記憶も鮮明に思い起こされます。ただ、今日も同じことをしたのですが、確かに私の日記なのですが、なんだか別人というか、今とは別なる世界で生きていた、その生き様みたいな感覚で読むのです。それは過去の自分に原因があるのではなく、最近の自分に変化が起きていると思うのです。新しい私は、昔とは別なる次元で生きていく、その前段階というか、ある種の離脱の感覚があるのです。 本日は終日、作陶。その割にはイマイチな生産性。 明日は朝一番から続きの作業。それから窯出し。余熱あるうちに素焼の窯詰が出来ればと思うのですが、明日のお日様に大きく左右されそうです。 le 9 samedi 土曜日 //80年代//なかなか良い曲であります。 久しぶりに施釉⇒本焼き。朝から晩まで釉掛けでした。 毎日、2kmつま先ウォーキングをしていますが、つい先日からこれを昼食終えたらすぐに実施しています。毎日、プチ断食をしていて、夕食食べ終えたら、昼食まで何も食べません。それで昼食は勢いよく食べてしまうのですが、血糖値スパイクのことを考えると、昼食後に間髪入れずに身体を動かさなければと思い、日々のウォーキングを前倒しすることにしたのです。 le 8 vendredi 金曜日 //美濃茶盌展//本日より開催。入選しましたので私の作品を会場で見るという実に不思議な感覚。12/25からは名古屋タカシマヤの美術画廊でも展示されます。 帰宅後に轆轤を少し。匍匐前進の進展なので昨日と合わして考えたなら通常の仕事量ということです。 あまり覚えていませんが今朝方も変な夢を見た。 前職退職後の3年間は、あの職場での諸々な夢を見たものです。それから枝分かれした会社の夢も良く見ます。不思議なのは、彼方には何の接点もなく、どういう構えでどういう構成の社内なのか分らないのですが、見てしまうのです。ここ数日の変な夢は、一回、枝分かれした所のであり、残りは私の知らない世界。喜怒哀楽の感情は無くて、ただただ別なる世界で事情も分からず混沌とした感覚。 le 7 jeudi 木曜日 //専念//本日は買い物や通院の付き添いもなく終日、陶芸に専念出来ました。素焼の窯出しから始まり、作陶。棚板の補修、窯の掃除、基礎結晶釉の調合、失敗素焼を粉砕して仮燃カオリンに。それから二度目の作陶。 11:15頃、午前の部を終了しようかと思いましたが、私には今二つの選択肢があって、休憩に入る道、もうひと頑張りする道がある、さてどうしようか?と。それで頑張る選択をしました。常に選択を迫られる生き方なので、陶芸で魂を謳歌する!という基準に従います。 今朝方も変な夢を見ていた。混沌というか混乱というか、よく覚えていませんが楽しい内容ではありません。こういう夢を連日見るのです。 le 6 mercredi 水曜日 //トランプ大統領!!!//もう一度、トランプさんの率いる米国を見るとは。。。。私は、ウクライナ戦争の立場のみで、今回はハリスさんの当選を願っていました。全く罪もないウクライナ国民が大国の思惑で命も領土も侵害されるとあっては、米国の理念もこれまでと言うべきなのでしょうか。 米国は、この理念の守護者であるからこそ、ある種の越権行為も黙認されてきたわけですが、守護者どころか侵略者に迎合してもなお、同盟諸国に超越的立場でものを言ってくるのかと思うと、ものの道理なんて政治の世界には無いのだと悲しくなります。せめて安倍さんが生きていたら、トランプさんの暴走を止められたかもしれません。あの事件の損失が、ここにきて極まるということです。 全く不安定です。もはやトランプさんの良心に賭けるしかないのですから。 le 5 mardi 火曜日 //久しぶりの素焼//あと三回くらいは素焼をしたいものです。未だ新工房は稼動していませんので小さな窯一台でフル回転になりますが、こういう時間が無い時に新工房の窯だと、飛躍的な生産性になるのでしょう。 乾燥実験は失敗続きです。結局、昔ながらの方法が一番良いと判明するだけかも。。 今朝方の夢は魘されました。先日の大敗北の影響でしょう。そういう系統の夢でありましたが、他にも唸ってしまう夢を2-3本見ていたような。そこで気が付いたのですが、夢というものは現実世界とは大きく乖離していたり説明のつかない内容であったりしますが、一つ確立しているとすれば、良い夢と悪夢を交互に見ることはない。唸らされる夢を見る時は、前後の夢も宜しくない内容である。 ただ、昨日も書きましたが、立ち位置を少し変えて制作せよという暗示だと思う。とかく変化を嫌う弊があって、替えない選択をしがちであるのですが、それへの警告に不愉快な夢を見たり敗北を味わったり、大いなる前進のためには、軸足を動かせという変化への催促であると思います。 le 4 lundi 月曜日 //丁寧に丁寧を重ねて//今朝は朝一から戦後処理。それから乾燥実験などを行いましたが、失敗が続く。久々に轆轤も回しまして、制作の再開です。これより一か月、制作に専念できますが、昨日も書きましたが、何か変わらなくてはならない答えが、丁寧に作ること。今の今まで、沢山作れば良品もあるだろうと思いましたが、焦る気持ちを抑えて丁寧造るのは一種の修練でもあると思っています。焦る気持ちを抑えて、丁寧に丁寧を重ねて。私の制作スタイルとは対極ではありますが、この一か月は、これを成し遂げるのが私の越えるべき峰であると思います。 le 3 dimanche 日曜日 //敗北//思うところありまして、この土日、全く告知せずの出店。昨日は嵐だったので仕方ないにしても、本日は人は溢れる程多くいるのにほぼ全員が私を通り過ぎる。赤字となりました。明日は朝早くから通常の仕事。お疲れ休みとか言える身分から転落してしまいました。 それでも私に、この通り過ぎる光景を終日見せつけたのには意味があってのことだと思います。赤字にしたのも意味があってのことだと思います。何かを変える、もしくは新しい段階に軸足を置く。 明日からは漫然と頑張るのではなく、何かを変えていくような新しい表現を付け加えていくような、より高い品質を目指して、それら努力をしていこうかと思います。 le 2 samedi 土曜日 //読み切り小説//先日、昭和18年の雑誌『サンデー毎日』の中から読み切り小説を読みました。戦時下で娯楽の少ない時代にあって、人の心を慰めるのに雑誌に中の読み切り小説は、小一時間程の慰楽。 今ではありとあらゆる選択肢がありますが、あの当時なら、家族全員がラジオドラマに聞き耳を立てるとか、新聞の連載小説程度なのでしょう。映画に縁無き地域も多かったはずだろうし、雑誌の読み切り小説は、娯楽の変化球といったところでしょうか?? le 1er vendredi 金曜日 //今頃秋雨前線のような//ってことはですよ、つい先日まで夏であったということ。9月も10月も秋ではなかった。夏の拡大が続く。 行ける日は公園を二周、つま先ウォーキングをしています。前にも書きましたが、ゴミを拾いながらのウォーキング。その理由は、これも書きましたが、毎日好きな事をして生活していてはダメであるとの思いからで、何かに奉仕する心も持たねばと。ところがですね、そんな気持ちは何処かに消えてしまい、今では単純にゴミ拾いが好きになりました。大谷選手のように運を拾うとか、そういう感覚もなくて、山菜取りのように、いち早くゴミを見付けて拾い上げ、拾い漏らしがないくらい完璧で歩く。これが楽しくて、奉仕の心とかも全くありません。結局、毎日、好きな事をして過ごしています。 例えば、集客の見込みもなく雨の日にタープを張る出店は、全く手間暇増えるだけですが、そうであっても、誰も来ないタープに雨音を聴きながら、寒さも感じながら、どういうふうにして時間を過ごすが思案するのも、結構楽しいことなのです。昔は得体のしれない恐怖を感じて、ただただ変化の無い日々を安心と思い、これを守るため防衛一徹の生活でしたが、あれは一体&全体、何であったのかと思う。 |
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